わたしは歩く
眠がっていた筈の圭は、目が冴えたのか立ち上がり、キッチンへと向かって行った。
学生の一人暮らしなので部屋は狭い。玄関からベランダまで、ベッドの上で転がりながら見渡せる程度の空間だ。
窮屈そうに背を曲げて、小さな冷蔵庫から圭が牛乳パックを取り出した。そのまま顔の位置より高く持ち上げ、開け口に直接、唇をつける。ごくごくと飲むたびに喉仏がピクピクと動き、妙に艶っぽい。
圭は細身だけど背が高く、しなやかで均整の取れた体つきをしている。白のTシャツに黒の短パン姿というラフな格好から、謎の色気が漂っていた。
うっかり見惚れてしまいそうになる。あぶない、あぶない。
「なに、流羽も飲む?」
わたしの視線に気づいた圭が、牛乳パックをにゅっと突き出してきた。
首をふるふると横に振る。
わたしと圭は幼馴染だ。家が隣で、年も同じで、親同士も仲が良い。お互い気安い関係で、中学の頃まではよく一緒に過ごしていた。
あの頃は学校から帰ると、圭はふらりとわたしの部屋にやって来て、わたしのベッドの上でわたしの漫画を読みながら、寝っ転がって寛いでいた。部屋の主より主のようだった。
とはいえ、毎日ずっと一緒だった訳じゃない。
発育も早く、整った顔をしていた圭は、当時から女の子にはとにかくモテていた。中学1年の夏に初めての彼女が出来た圭は、その後もずっと、色々な子と付き合っていた。
圭は意外と律儀で、彼女がいる間はわたしの部屋へはやって来ない。だから一緒に過ごしていたのは、彼女の途切れた合間の期間限定だ。それでもそこそこ一緒に過ごしていたのは、空白期間が長いのではなく、途切れる回数が多かったせいだ。
飽きっぽいのか、圭はいつも長続きしない。スパンはとても短くて、いつも3ヵ月経たないうちに別れてる。うんざりするほど、振られた愚痴も聞いてきた。
圭は、彼女が出来るとわたしの側から消えてゆき、別れると抜け抜けとやって来る。その繰り返しの関係は、高校1年の途中頃まで続いていた。
「そういえば、昔から長続きしてなかったね。いい加減、理由くらい自分で分かんないものなの?」
「自分の事って、自分じゃ気付きにくいんだよ。だから流羽に頼んでるんじゃないか」
「でもさ、わたし彼氏いた事ないから、的確なアドバイスなんて出来ないと思うよ?」
わたしの知ってる限りでは、歴代の彼女は華やかなタイプが多かった。美人で、胸が大きくて、大人っぽくて、要するにわたしとは正反対の女の子。
だから、わたしの意見なんて、あてにならないと思うんだけどな。
「いいんだよ。おれだって遊んでる子彼女にするつもりないから。次はもうちょい真面目な子、選ぼうと思ってるし」
「ふーん」
次……か。
サラサラの黒髪。愁いのある大きな瞳に長いまつ毛。王子様のように整った綺麗な顔と、モデルのようにスラリとした身体をしている圭は、相手だって自由に選べる立場なのだ。
地味なわたしとは大違い。
なんとなく目が冴えて、わたしも布団から外に出た。カーテンを開けると、部屋が急に明るくなる。太陽の光が眩しい。
「いい天気だね」
「外出る? モーニングでも食べに行こうか」
再び、首をふるふると横に振る
温かいモノにくっつかれて寝たせいか、結構な汗をかいている。身体がべたべたして気持ち悪いし、さっさと洗い流してしまいたい。
「ううん、家帰るよ。シャワー浴びたいし」
「シャワーならここで浴びれば? タオルとか適当に使えばいいよ」
いえいえいえ。圭よ、ここにはわたしの着替えがないんだよ。
昨日からずっと着けたままの下着も、汗ばんでいて気持ち悪い。それに、予想通りスカートだってしわくちゃになっている。こんな格好でお店になんて行きたくない。
メイクは元々あまりしていないものの、洗顔フォームだとか、化粧水だとか、そういったスキンケア程度はこのわたしでもやっている。当然だけど、ここにはわたしの愛用品が、なに一つとしてないのよね。
それに……
「今日はバイトがあるんだ。着替えもしたいし、家帰りたいな」
ふぁ、とあくびが漏れた。
携帯を手繰り寄せて時間を確認する。AM9:00。結構寝た割には、まだまだ頭がぼんやりする。
「そっか。じゃあ送るよ」
「えー! いいよいいよ、まだ明るいし」
「暇なんだから送らせてよ。それとも、家知られたくない?」
「……別に、そういう訳じゃないけど」
圭が家まで送ってくれるのか。
なんだか不思議な感じ。まるでほんとの彼氏みたい。
「じゃあ、わたしんちまで一緒に散歩する?」
「うん、する」
答えたと同時に圭が短パンを脱ぎ始めた。わたしは悲鳴を上げて、床に転がっていたエル字型クッションを圭に投げつけたのだった。
◆ ◇
「もうっ、着替えるなら一言、声かけてよね」
「あのくらいで気にすんなよ……」
不貞腐れながら歩くわたしを見て、圭が呆れた顔をした。
ふん。彼氏いた事ないって言ったじゃない。それなのに突然あんなもの見せられたら、そんなの余裕で叫んじゃうよ。
「別に、パンツまで脱いだわけじゃないんだし。付き合ってんだから、下着姿くらいで狼狽えられても困るんだけど」
「困るのはこっちの方だよ。そりゃ圭は、わたしの下着姿見ても余裕かもしれないけどさ。経験値が違うんだからしょうがないでしょ」
圭のアパートはわたしの家から近かった。外に出て、細い道から大きな通りに出ると、見慣れた景色が広がっている。同じ大学なので、当然と言えば当然か。
わたし達の実家は田舎で、家から通える距離に大学はない。
だから同郷の子達は、大抵がわたし達のように一人暮らしをして通っている。この辺りは大学が密集している地域なので、近辺に住んでいる地元の友達自体は、そこそこいたりする。
爽やかな外の空気を吸い、日の光を纏う雑多な街の景色を眺めていると、重い頭の中身がちょっとずつ軽くなっていく。眩しい朝日に目を細めながら、寝起きのやり取りを思い返してみた。
………付き合ってんだから、か。
なんだか、違和感が酷い。今のわたしは圭の隣を、幼馴染としてではなく彼女として歩いているのか。実感なんてまるで湧いてこないや。
圭は切り替えが早すぎる。さすが、過去に何人も彼女を連れていただけの事はあるな。
不意に、指先に温かい感触がした。
「なに?」
圭の手がわたしの指を3本、掴んでいた。びっくりして隣の本体を見上げる。わたしの反応が不服なのか、手の主は不満そうな顔をした。
「なにって……付き合ってたら、手ぐらい繋ぐだろ。もしかして嫌だった?」
「ううん、嫌って訳じゃないけど、なんか変な感じだなぁと思って」
「別に、変じゃないだろ」
変だよ。
だって。わたし達はずっとただの幼馴染で。
その上、ここ数年は疎遠気味だったのだ。だからこうして距離を縮めているのが、まるで昔に戻ったようで、なんだかくすぐったい。
「こんな風に手を繋いでるとさ」
「うん、付き合ってるって感じするだろ?」
「ううん、そうじゃなくて。なんか、子どもの頃思い出すよね」
「子どもの頃かよ……」
「そうだよ。昔はよく、圭と一緒に遊んでたなぁ」
「だな」
中学の頃までは一緒に過ごしていたけれど、高校が別になり、その頃から徐々に圭とは疎遠になった。大学が偶然同じで驚いたものの、わたしは文学部で圭は理工学部だ。文系と理系では建物自体が別なので、あまり学内で会う事はない。たまにすれ違い、挨拶をする程度の関係になっていた。
もちろん、部屋に行くのもその逆も、今日が初めてだ。
圭がどこに住んでいるのかすら、わたしは知らなかった。
「昔はよく……流羽と一緒に過ごしていたな」
「うん……」
指に絡まった手に、ぎゅっと力が籠められた。
胸が鳴りそうになって、わたしは慌てて蓋をした。