かかとを上げて
くるしい。
目が覚めて、真っ先に感じたのは腹部への圧迫感。太って、きつくなったジーンズのボタンを無理やり留めた時のような、あの窮屈な感じ。
次に感じたのが頭の痛み。ガンガンと割れるような、不快な感覚。
これ、二日酔い?
初めての経験で、確信は持てないけれど、情報として知っていたそれとはぴたりと合致する。
そういえば昨夜、わたしはお酒を飲んでいた。お洒落なバーで、少し調子に乗って、甘くて飲みやすい液体を3杯、口にしたところまでは覚えている。
そこまで記憶を取り戻し、ようやくわたしは、見覚えのない部屋の様子に気が付いた。
……ん? …ん? ん?
目の前に広がるのは白い壁と小さなテレビ。斜め下には素っ気ないグレーの簡易テーブルが置かれていて、その上にはノートパソコンが開いたまま乗っている。
どこからどう見ても、わたしの部屋じゃない。
首を傾けると、モスグリーンの厚いカーテンが見えた。ベランダに続いているようで、隙間から朝の光が一筋、漏れている。
ぐるりと見回して、黒のごみ箱だとか、スチール製の机だとか、ダークブラウンのラグだとか、小ざっぱりとはしているものの、全体的に甘さの欠けた部屋の雰囲気に、段々頭が冷えてきた。
ここ、男の人の部屋だよね?
焦って起き上がろうとして、お腹に何かがつっかえた。よく見ると腕がしっかりと絡みついている。わたしの腕よりも、太くてかっちりとした腕。疑いようもなくこれは男性の腕だ。
温かい体温を背後に感じる。布団からは懐かしい匂いがして、少し安心して、余計に混乱した。
この腕、圭の腕だ。じゃあここは、圭の部屋?
よく分からないけど、わたしの後ろに圭がいる。
………なんで?
痛む頭をフル回転させ、記憶が途切れる前の出来事を思いだす。
ええと確か、昨日は週末の金曜日。5限目の講義を終えた後、図書室に寄ろうとしたんだっけ。
バイトの予定はないし、暇だし、給料日前でお金もない。本でも借りて、のんびりとした週末を過ごそうと思ってた。
そしたら、図書室の入り口で圭に声を掛けられたんだ。
「流羽!」
「圭?」
いつもは挨拶をするだけで終わるのに、昨日は珍しく、圭に誘い掛けられた。
「なぁ、暇? 暇だったら一緒に飲みに行こうよ」
「えぇ? 暇だけど、わたし今あんまりお金持ってないよ」
「おごるよ。今日彼女に振られてさ、ヤケ酒なんだ。付き合ってよ、流羽」
お酒なんてまともに飲んだことは無い。けれどまあ、暇だし、相手は圭だし、人生何事も経験だし、なんて軽い気持ちでついていく。電車に乗って繁華街に出て、わたし一人だと絶対に入らないような雰囲気のお店に、2人で入った。
周囲を見回して、別世界に足を踏み入れたような気分がして、入り口で足がつっかえる。バーと呼ばれるその場所は、お客さん達も皆、大人っぽい人たちばかり。化粧っ気のない自分の姿を思い出し、気後れする。なんだかわたし一人、浮いている気がして。
圭に肩を叩かれ、店の中へと案内された。圭はしっかりとこの店に馴染んでいるのが、1人取り残された感を更に強め、居たたまれない。
この何とも言えない気持ちを払拭するように、飲んだ。圭の愚痴を半分聞き流し、適当に相槌を打ちながら、ヤケになって飲んだ。わたしの方がヤケ酒するってどういうことだ。
そんなこんなで、3杯は飲んだと思う。お酒自体は甘くて美味しかったので、そりゃもう、スルスルと飲めた。
その後はもう……全く覚えていない………。
そっか。酔ったわたしを、圭が家まで運んでくれたのか。
ペタペタと自分の身体に手を当てる。服装は昨日のままで、特に乱れた様子はない。下着も、上下ともそのまま身に着けている。
うん、間違いは起きていないっぽい。
スカートのまま寝たので、クシャクシャになっていそうなのが悲しいけれど、しょうがない。脱いでるよりマシだと思って、諦めるかぁ。
とりあえず、この腕離れてくんないかな。
お腹にピタリとくっついた腕に手を掛ける。剥ぎ取ろうとしたら、余計にぎゅっと力を込められた。
ぐえっ、潰されたカエルのようなうめき声が口から洩れる。
「ねえ、圭。苦しいから離してよ」
「ん………」
未覚醒の圭が、寝ぼけてわたしの首筋に顔をぐりぐりと押し付けてきた。くすぐったさと、ぞくりとした感覚に、わたしは短い悲鳴をあげた。
てかなんで、わたしを抱き枕にして寝てるんだ。
ベッドの真下に目を遣ると、エル字型のクッションが転がっていた。こいつだ。普段愛用してるこれとわたしを間違えてるんだ。
そういう間違い、心臓に悪いから今すぐやめて!
パタパタともがいていると、圭が半分くらい目を覚ましだした。
「なんだよ、暴れんなよ……」
「ねぇ、もう起きてよ。ぴかぴかの朝だよっ」
「もうちょい寝させて……すげぇ眠いんだって」
「眠たいのは分かったからさ、寝ぼけてないで腕離してよ。圭の恋人がベッドの下で拗ねてるよ?」
「何言ってんだよ。おれの恋人は流羽なんだろ」
「ん~~~~………ん!?」
あれ、これって夢なんだっけ?
わたしとコイツ、付き合っていないよね。ただの幼馴染、それ以上でもそれ以下でもなかったはず…。
振り返って顔をまじまじと見れば、圭が大きな目をぱっちりと見開いていた。お、覚醒したみたい。ぱちぱちと目を瞬いた後、わたしを胡乱な目つきで見始めた。
「……もしかして、覚えてない?」
「なにを?」
「昨日の夜の事」
「美味しいお酒を3杯飲んだところまでは覚えてる」
「じゃあ、店を出てからのことは?」
「さあ……すぐに寝たんじゃないの?」
服だって特に異常はなかったし、身体に違和感もない。なーんにもなかった様子だし、酔って疲れてバタンキュー、したと思ったんだけど、違うの!?
「彼女に振られたおれに、お前なんて言って慰めたのか覚えてる?」
「え……?」
頭をひねり、居酒屋でのやりとりを思い出す。
圭はもてるから彼女がすぐに出来るけれど、別れるのも早い。だから愚痴といっても、毎度の事なので、割とテキトーにしか聞いていなかった。もちろん返事だってテキトーだ。真面目に語るのもばかばかしい気がして。
「うーんと、すぐに新しい彼女が出来るよ! とかそんなの?」
「惜しい」
小馬鹿にしたような笑みを浮かべ、圭が整った唇を小刻みに動かした。
「おれに、付き合って、つった」
「えっえ!?」
「ほんとに覚えてない? 無い胸張って、新しい彼女に立候補してたけど」
「うっそ~~~!!」
マジかわたし。なんつーことを言ったんだ。
これ、圭の冗談だよね?
てか、冗談であって欲しい。お酒怖すぎるんだけど……。
「わたしも彼氏欲しいなぁ。誰でもいいから、欲しい……なんて言いだしてさ」
なにそのリアリティのあるセリフ。否定できないじゃん。
そりゃ、彼氏はいない。それもイコール歳の数だけいない。20年生きてて、ずっとゼロ。理由はちゃんと、自分でも分かってる。
このままではマズイと思って、彼氏を作ろうとした事もある。その度に、まぁ色々と挫折をして今に至る訳だけど。
「圭、付き合ってよ。わたしを新しい彼女にしちゃおうよ。ってさ」
「えぇぇぇぇ! ほんとにそんなこと言ったの!? わたし」
「言った言った。なに、流羽。そんなに彼氏欲しかったの?」
「まぁ……そりゃ、人並みには……」
なんか、本格的に頭が痛くなってきた。
両手で頭を押さえながら、青くなって目を回したわたしを見て、圭は愉快そうに口の端を緩めてる。もう、笑うんじゃない!
ああもう、よりにもよって圭にそんな事いうなんて……。
「まぁいいよ。付き合おうか」
「へっ!?」
「おれも考えるとこがあってさ。ちょっと付き合ってよ」
小首を傾げたわたしに、圭が少し真剣な表情を見せた。
「おれ、彼女出来てもいつもすぐに別れるだろ。何が悪いのか自分でもよく分からなくてさ、だから客観的な意見が聞いてみたいんだよね。おれと付き合って、別れたくなる原因がなんなのか、流羽のアドバイスが欲しいんだ」
「はぁ………」
なに、その、食レポみたいなの。
「流羽だって彼氏欲しいって言ってたし、誰でもいいならおれでもいいだろ。頼むよ、3ヵ月でいいからさ」
「まぁ………」
「こんなこと、他の子には頼めないしさ。いいだろ?」
「うーん………」
いい……のか?
そりゃ、彼氏は欲しいけどさ。
3ヵ月だとかアドバイスだとか。これは、わたしの求める彼氏とは、なんか違う気がするんだけど。
疑問符が拭えないまま、コテンと首が傾き続ける。45度くらいまで曲がった辺りで、圭がわたしの手を握りしめた。
「じゃあ今日から流羽は、おれの彼女な!」
あれ、決まっちゃった?
にっと笑った圭の顔は、なんだかキラキラと輝いて見えた。背後から差し込む光のせいだな、なんてどうでもいいことをぼんやりと考える。
まぁ、いっか。
付き合うって言っても、友達の延長みたいなもんだよね。
だってわたしと圭だもん。
「ん~分かった~」
ズキズキと痛む頭に、わたしは深く考えることを放棄した。やる気のない返事をして、再び布団に顔を埋める。
こうしてわたしは、圭の彼女らしきものになるのだった。