表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

ジョーカー

作者: ケイ

 それは、街が雪に覆われる、十二月の終わりにさしかかる頃。闇空の中に月が独り佇んでいる、そんな夜だった。

 世界は自然の光を失い、辺りは闇に身を潜める。音一つ立てない、死人のように建ち構える建物が、一面を白く化粧した雪道が、『生』を感じさせない冷えきった空気が、偽りのみを残し、真実を闇の底へ葬る。全てが闇に殺される中で、ただ一つ、皓々と輝く白い月が、それを照らす。何者にも偽ることを許さず、真実を何もかも曝け出す。正と虚が混ざり合うそれは、さながら夢のような、奇なる空間。


 ひとりの少年が、いた。

 少年は、夜風が身にしみる人通りのない寂寞とした街角に、呆然と立ち尽くしていた。何をするわけでもなく。ただ、空に浮かぶ白いスポットライトの方向を仰いで。

 少年の格好は奇妙なものだった。

 月と街灯に照らされて姿を現す、(あか)く染まったジャケット。膝から下は朱、上は(あお)のジーンズ。まるで水たまりに足をつっこんだかのように水分をたっぷり吸い取った、朱いシューズ。

 そして。

 重力に逆らわず、力なく垂れ下がっている手には、一本の、朱い朱い、ナイフ。幾多もの血を吸ったその鋭い刃先からは、朱く輝く雫が滴り落ち、地面に広がる白を侵略していく。時折、ナイフを持つ彼の手が小刻みに震え、その都度、刃先から血が細かく飛び散る。


「痛い」


 少年の周りには人間はもちろん、生物さえも見当たらない。あるのは、命あるものを寄せ付けない、威圧のような力を持った冷たいコンクリートの塊と、その場に生物が存在することさえ許容しないかのように、坦々と続く色の無い小さな道と、まるで何かを欲しているかのように、首筋にできた口から朱い涎を流す元人間の、塊だけ。その塊はどれも仰向けに横たわり、首を直角に傾けている。首に出来た、脊椎に達するほどの切り口からは、絶えることなく血が湧き出ている。肉が飛び散り骨が顔を出すそれは、もはや人間とは思えない。ただの、肉塊。

 苦痛のためか、恐怖のためか、(ある)いは、殺戮者を目の当たりにしたことによる死の確信のためか。それらの顔は、見るも無惨に歪み、遥か彼方、自らの終焉を開ききった双眸で凝視している。

 彼らの魂とは裏腹に、終焉を知らないかのように流れ続ける朱い液体によって、本来は神秘的な輝きをみせる雪道が、今は朱き染みを創り、その異界を、より奇怪なものにつくりかえる。

 その現実離れした凄惨な光景は、さながら夢のよう。だが、目の前の肉塊は、夢でも偽りでもない、れっきとした現実。紛れもない、真実。


「いたい」


 少年はしゃがみこみ、体を小さく丸めると、小さく一言、呟いた。消え入りそうな呟きが口の隙間から漏れ、白い吐息となり、吸い込まれるように大気に溶け込み、夜の虚空となり、消えゆく。生物の存在しないその空間では、音さえも存在してはならなかった。

 音の死んだ世界を支配するのは、光だった。全ての存在に分け隔て無く降り注ぐ月の雫は、彼の、震える小さな背中にも染み込んでいく。だが、彼は真実を曝す月の光を認識できないため、彼にとって、自身の存在は偽りでしかなかった。この茫漠とした世界にとって、彼自身は、“死”の象徴でしかなかった。

 彼は、小さく丸めた体を、何かに怯えるように小刻みに震わせていた。その姿は、あまりにも脆弱で。建ち並ぶ建物や凍えるような空気に気圧(けお)され、存在すら消え兼ねないほど弱く儚いものになっていた。

 人通りのない無の空間であるその場で、窮屈に思えるほどに広く寂寞とした空間で、彼はじっと、何かに耐えていた。


「痛イ」


 彼が求めているものは究極の無。彼にとっては全てが、森羅万象が障害であり、音を発する者――生物を排除しただけでは、まだ、足りなかった。

 彼は、苦しかったのだ。

 夜空にあいた穴が、死を連想させる闇が、孤独を連想させる街が、目の前に広がる死体が。そして、それらさえも葬り去る朱い朱い、血が。それらが彼に苦痛を与えていた。熱くて、冷たくて、痛くて、苦しくて……彼は、苦痛を与え得る全ての存在を、葬りたかった。

 だが、全てを無にすることは不可能だ。世界中のありとあらゆる存在を排除する事など、到底出来ない。

 唯一の方法――自らを死に追いやる、という方法がある。自らの生命を絶ち、己の存在を排除することによって、森羅万象への干渉を無効にし、結果的に全てを虚無の彼方に追いやる訳である。歪んだ思想ではあるが、それが唯一の、彼の望みを叶える方法であった。

 だが、その方法をとることは、彼には出来なかった。死に恐怖し、自らに刃先を向けることが出来ないのではない。自らを殺すための手段は思いつくのに、それをどのようにして実行すればよいのかが、彼には分からなかった。否、分からないのではなく、そういう思考が、彼の中にはなかった。彼の中には、自殺という概念が()かったのだ。

 彼は、全てを無に還す事が不可能であることを、理解していた。故に彼は、消せる限りの存在を消し、抗えぬ存在から自身を背け、体を震わせ、苦痛に耐え、全てを辛抱するしか出来なかった。


「イタイ」


 苦痛は、声となって空気を僅かに震わせる。声は、振動となって周囲に広がる。振動は、時折通りに沿って吹く夜風に殺されてしまう。何処にも伝わることなく、消えてしまう。彼を脅かすそれは、次第に、急激に、彼自身を蝕んでゆく。体の震えが一層強まる。

 彼にとって、苦痛は死と同じだった。苦痛を感じることで、死を感じていたのだ。熱を帯びた血が皮膚の上を伝い流れる度に、凍えるほどに冷たい風が体を撫で耳元を通り抜ける度に、皮膚が焼け爛れ、体躯が切り裂かれ、爆音が耳を(つんざ)くような苦痛に襲われ、疾風迅雷の如く押し寄せては引いていく死に脅かされていた。


「イタ、イ……」


 だが、その中で。その抗う事の許されない苦痛の中で彼は、笑っていた。彼は死を感じると同時に、この上ない(よろこ)びを感じていた。

 彼の目の前に広がる凄惨たる光景、目を背けたくなるほど惨たらしい肉塊、夜に眠る閑静とした町を異界に変貌させる夥しい血。それらは全て、彼自身が創り出したものである。故にこそ、彼が自ら苦痛を欲し、死を渇望している事は、言わずしても分かる事だったのだ。

 彼がふと顔を上げる。その時、月光に照らされた彼の口元は、三日月形に笑っていて。声の()い笑いに合わせるように、体は震えていた。まるで壊れかけのからくり人形のように、からから、からから、と。

 少年は再び立ち上がった。口元を妖しく(ほころ)ばせ、空に浮かぶ月を見上げ。血に染まった、悪魔のような手には、獲物を狙うが如く鋭い光を放つナイフを持って。

 いつの間にか、彼の体の震えは、止まっていた。




 冬ってのは、まったく困った季節だ。街が静かなのをいいことに、化け物どもが暴れまくってしょうがねえ。せっかくのサイレント・ナイトが台無しだ。

 俺は、冬は割と好きだ。さっきも言ったように、物静かで心地好い季節だからだ。木々のざわめきも聞こえず、虫の鳴き声も聞こえない。人の声や車の音といった騒音は、雪がすべてかき消してくれる。はい、完全無音のサイレント・ナイトの出来上がり。なのにあいつらは、人目につかないことをいいことに、好き勝手しやがる。静寂を突き破る悲鳴が聞こえたり、突如爆発音が聞こえたりと、やりたい放題。本当に頭にくる、腹が立つ!

 それを鎮めるための必須アイテム。冬の楽しみといえば、コーヒーだ。寒い冬は、熱くて苦いコーヒーが旨い。夜のベランダで静寂を聴き、弱者の暴走に腹を立て、コーヒーでそれを抑える。毎年この時期になると、それが俺の日課になってしまっている。

 今日は日曜日。俺は街に出歩いている。行き先は、とある喫茶店。優雅な一時(ひととき)を過ごすのも悪くはないのだが、残念ながら目的は別にある。町が休日で賑わう中、俺はその喫茶店に仕事のため、向かっている。

 ……ほんと、めんどくせえ。


 A県K市。人口約三万七千人程の、比較的小さな町だ。内陸部に位置するため気温の年較差が大きく、冬にはものすごく寒くなる。が、近くを大きな高速道路が通っていたり、活気のある催し物がある等、なかなか賑やかな暖かい町でもある……らしい。

 実のところ、俺はこの町が出身ではないので、詳しくは知らない。もしかすると、町の名前以外は間違っているかもしれない。元々、別の場所に住んでいたのだが、とある事情があって、仕方なくここに住んでいる。ほかの町では雇ってくれる人がいないため、生きていくことができないのである。

 この街で一番大きい通りを、北の方に歩く。街は、休日のためかとても賑やかだ。道端で、雪を踏みしめながらはしゃぐ子供。反対側の道を、くっつきながら歩いているおアツいカップル。買い物袋をいくつか持ち、おしゃべりをしながら歩く家族。その光景は、冬の寒さを忘れてしまうほどに暖かく、幸せそのものを表しているように感じる。

 まったく、暢気なもんだ。今も、この辺りを、血を好む殺戮者が徘徊しているかもしれないってのに。

 暫く歩くと、大きな十字路がある。ここを曲がると――見えてきた。いかにも古そうな、ぼろぼろの木で作られた小さな看板。『喫茶・ムーンライト』と、掠れた字で書かれている。洒落た名前のわりに、昭和初期を思わせるこの建物が、俺の目的地だ。


 ギ……

 看板と同じ、ぼろぼろの木で作られた入り口の戸は、悲鳴をあげながらゆっくりと開いた。今の音からして、寿命はもうすぐそこまできているだろう。

 店内は、外観からは想像できないほど広く、椅子やらテーブルやらが無造作に置かれ、静寂に満たされている。ただし、雰囲気だけは予想通り、外観と同様に昔の空気を漂わせ、空寂とした世界を創り出している。『ムーンライト』らしさなど微塵も持ち合わせていない。……ムーンライトらしさってなんだろ。

「おーい、じじい。来てやったぞー」

 淡々とした声で呼び出す。返事は、ない。店内の奥へ吸い込まれるように音が響き、消える。まるで、この世界には誰も人がいなくなったかのような、否、最初から自分しか存在していないかのような、孤独の一言では片付けられない奇妙な錯覚に囚われる。さらに言い換えれば、自分が独りだけ時代に取り残されているような感覚だ。

 この建物には、人間を摩訶不思議の世界に連れ込むような、そういった力があるらしい。普通の人がここにやって来ると、突然の変化――そう感じるだけであって、実際は何の変化もない――に嫌悪を感じ、誰かに狙われているような感覚に襲われ、たちどころにその場から逃げ出したくなるらしい。ここに集まる人間は異常者が多いから、普通の人間はこの場の空気に耐えられないのだろう。

 毎回のことではあるが、まだ俺はこの空間に慣れる事が出来ないでいる。俺も異常者の部類なのだが、入る度に孤独感に襲われ、不安に駆られ、その場から逃げ出したくなる。実際は、俺の雇い主が常に店の奥にいて、しかもそれを認識しているのに、どうしてもそれを回避出来ない。

 ふと、目を横にやる。そこには、古い雰囲気にお似合いの日めくりカレンダーがあった。赤い字で『26』と印刷されている。昨日は、クリスマスだったのか。知らなかった。

 そんなことを思っていると、店の奥から、大柄でがっちりとした体格の、立派な髭を生やしたじいさんが現れた。

「裏口から入れって、何度言ったらわかるんだ、まったく」

 小言を言いながら現れたこのじいさんこそが、『喫茶・ムーンライト』の店長兼俺の雇い主である。俺は、じじいと呼んでいる。本名は、必要もないし興味もないので、教えてもらってない。

 このじいさん、今は立派な部分は外見だけの冴えない老人だが、昔はかなりアブナいことをしていたらしい。本人が話してくれないから、あまり詳しくは知らないが。

「ああ、次から気をつけるよ。そんで、今回はどいつだ?」

 さっさと帰りたいんで、すぐに仕事の話をだす。

「こいつを見てみろ」

 じじいが、一枚の紙を手渡す。

 紙には現場の写真と、やたら細かい字で書かれた情報が載っていた。写真には、首から血を流して倒れている、数人の高校生らしき塊が鮮明に写っていた。

 彼らは皆、同じ殺され方をしていた。

 頸部を鋭利な刃物で切られ、切り口から骨が見えるほどに顔を横倒しにし、道端に仰向けの状態で、まるでゴミを捨てるかのように山積みにされている。普通の人が見れば、すぐにでも目を背けたくなるような、悲惨な光景だった。

 その地獄絵図の中で、一際目立っているものがあった。彼らの、目だ。彼らの目は、異常だった。

 死体は仰向けに転がっているため、彼らは空をじっと見つめる形になっていた。その、空を見つめる丸い瞳は、死を目前にしたとは思えないような、感情を読み取ることの出来ない、否、最初から感情など存在しないような、一言で言うと無感動な色をしていた。顔が恐怖に歪んでいるため、余計にそれが強調される。周辺が死の色に染まっている中で唯一無色のそれは、異常な光景の中ではあまりにも無感情すぎて……恐怖とは違う、ある種のおぞましさに似た感情を湧き出させた。まるで、自身の死は、この広大な漆黒の空に漂い、皓々と輝く月の陰に隠れる星のように、さほど気にするほどのことでもない、些末な出来事であったとでも語るように。

 だが。もし、この無感動な瞳が恐怖の裏返しだとしたら。死をも軽く凌駕する程の恐怖が彼らを襲い、その恐怖から逃れるために死を甘んじて受け入れ、己を襲った恐怖の甚大さや己の命の軽薄さに呆然とし、それ故の無感動な瞳であったなら。

 だとすれば、彼らの味わった恐怖は……想像もしたくない。

「うわー、こりゃひでえ」

 それでも、俺にとってはもう慣れたことなので特になんにも感じない。とりあえず流れでそう言ってみる。

 これほど悲惨な光景を前にして何も感じなくなっている俺は、人としてかなり壊れてきているだろう。自分で言うのもおかしいが、それが現実だった。

「今回のターゲットはこいつだ」

 じじいはそれだけ言って、煙草に火をつけた。

 紙に細かく書かれた情報を嫌々ながら読む。そこには、事件の状況や討眞徴、犯人の姿までもが記されてあった。被害者は、地元の不良高校生グループ。容疑者は、まだ中学生のようだ。

 昨日の午前二時頃、K市北部にて、中学生くらいの容姿の少年が人通りの少ない小さな路地を歩いているところに、三人の、高校生と思われる少年らが話しかけてきたのがことの始まり。彼らは口論になり――高校生らが一方的に喧嘩を売ったものと思われる――高校生の一人が少年につかみかかったところを、少年がナイフで高校生らに斬りつけたとのこと。

 どこからどう見ても現場にいたとしか思えない情報が満載なのである。因みに、この手配書らしきものを作っているのは、今目の前で煙草吸ってるじいさん。煙てえっての、吸うのやめろ。

「凶器はナイフ、か」

 手に持った紙を小さく折りたたみながら呟く。さっきもらった紙には、犯人の姿を撮ったものと思われる写真が印刷されていた。その写真には、ナイフと思われる、真っ黒の刃物のような物がはっきりと写っていたのだ。色が黒かったのは、恐らく、血がついていたのだろう。標的の持っている凶器が何なのか分かっている今回の仕事は、案外楽かもしれない。

 俺がこの世界を生きていく上で唯一許されている仕事。それは、じじいから渡された紙に書かれている人間の処分、つまり、抹殺することである。

 この紙を渡される度に思うことが二つある。一つは、俺にやらせないで自分でやりゃあいいじゃん、ってこと。これは一度本人に聞いたのだが、じじい曰く、『俺はもう年だ』とのこと。煙草吸うから体力なくなるんだよ、まったく。

 それともう一つ。これは何度も聞いているのだが――

「なあ、もっと情報くれよ。まだほかにも知ってることあるんだろ?」

「これ以上は、ひとつにつき一万円だ」

 ――いつもこんなやりとり。このじじい、たくさん情報持ってるくせに、肝心の部分をよこさねえ。金で買え、とか言いやがる。まったく、ケチなじじいだ。


 軋みながら開く、がたがたの戸をいたわりながら、『喫茶・ムーンライト』を出た。

 手配書の内容からすると標的の活動時間は夜だから、まだまだ時間がある。さて、どう時間をつぶそうか。

 暫し思案。

 よし、決めた。

 テキトーにぶらつこう。どうせやることないし、あいつに連絡するのはもう少し時間が経ってからでいいだろう。




 全てを覆い隠す様に広がる黒の空。その中に、白い満月が浮かんでいる。まるで、空に穴があいているかのようだ。黒い天井にあいた白い穴は、正も虚も、この世の全てをも吸い込んでしまいそうなくらい、魅力的で、奇怪だ。また、その月は雪の様に白く、冷えこむ夜の稜々とした空気を、より強く身にしみて感じさせる。まあ、つまりは寒いって事だ。

 現在時刻、午後十時くらいだろうか。辺りはすっかり闇に覆われ、街灯と月が微かに辺りを照らし、人気の無い空間が辺りを静寂で包み込んでいる。

 しくじった。六時頃から行動を起こすはずだったのに、予定外の事が起こった。


 ――いまから数時間前。俺は、例の事件現場を確認しようと思い、街中を歩いていた。現場周辺は立入禁止になっていたが、警察はいなかったので容易に入ることができた。

 そこまでは順調だったのだが、

「おい。お前、ちょっと待て」

 突然、後ろから声をかけられた。振り返ると、そこには、いかにも不良らしい格好をした学生が三人、こちらを睨みつけるように立っていた。

「こいつなのか、俺たちの仲間を()ったのは」

 どうやらこいつらは、昨日被害にあった不良グループの仲間らしい。でもって、俺を犯人だと勘違いしているようだ。

「こんなところに好き好んでやってくる奴なんて、他にいないだろ。……殺れ」

 リーダー格の男が一言そう言うと、残りの二人がナイフ片手に走り出した。

 勝手に勘違いして、その上、俺を殺そうとしているのだから、同情する必要はないだろう。

 とりあえず、向かってきた二人からナイフを奪い、それぞれの脚に突き刺した。極めて容易い、娯楽程度の行為。相手から向かってきているのだから、こっちは動く必要もない。

 彼らは、三人とも絶叫した。ナイフで刺された二人は、苦痛を声で表して。リーダー格の男は、恐怖を声にならない音で表して。

「待て」

 足を押さえながら倒れ込む怪我人二名を置き去りにして逃げようとする、リーダー格のようだが気弱な男。そいつの首を掴み、電柱に押さえつけた。

 いいカモが現れたもんだ。こっちは犯人の情報を全く仕入れてない。俺は事件について、ある程度こいつらから聞き出すことにした。


 一時間ほどの、拷問とも思えるような尋問をし、アバウトではあるが、俺は事件の背景をある程度は把握した。あとは、事件に関連している輩の排除、つまり、目の前にいる三人を始末するのみ。

 懐からナイフを取り出し、空高く掲げる。ナイフは辺りの光に照らされて妖しく光る。その光景は、獲物を前にし、鋭く眼光を放つ猛獣のように、見る者を絶望の渦に陥れる力があった。目の前に在る人形が小さく悲鳴をあげる。男とは思えない、女々しい悲鳴。生きる価値さえ感じられない、弱々しい存在。その、助けを求める小さな声に、死を拒む音に、俺の血が沸き立つ。快楽が地の底からせり上がってくる。興奮が止まらない。笑いが止まらない。

 殺ス。殺すことが俺の望み。今、俺の望む物が手に入る。俺ハ、死ネルンダ……。

 だが。

「何をしている!」

 声のする方を向くと、そこには、拳銃を構えた一人の警察官がいた。

 邪魔が入ったか。すぐさま、俺はその場から素早く逃げ出した。警察官は何か言いながら追いかけてくる。どうやら、無線かなんかで、応援を呼んでいるようだ。

 実は俺、世間では“死んだ”ことになっているので、警察に捕まることは許されない。どんなことをしてでも、逃げ切らなくては――


 その後、警察官が呼んだのであろうパトカーの群れが、まるで蟻が甘い物に集まるかのようにたかり、一部は少年らの事情聴取、他は犯人――俺の捜索を始めた。

 逃亡者となった俺は、決して捕まることのないように、必死で逃げた。その結果、予定の時間を四時間も遅らせる羽目になったのである。まったく、余計なときに行動が早いんだよ、この警察は。もっと殺人鬼を捕まえる方に力入れろっての。

 そんなことよりも――また、やっちまった。また、“殺したがって”しまった。何度制御しようと試みても、抑えることが出来ない。その都度、心に靄がかかり、憂鬱な気分になる。

 連絡を取るため、ケータイを取り出す。こんな時間に連絡したら、あいつ、怒るだろうな……ああ、憂鬱だ。

 ケータイのボタンを押す度に音程の変わらない電子音が鳴り響く。本来はそこまで大きい音ではないが、辺りの無音がその音を一層際立たせていた。

 文章を入力する。それが終わると、文章を再確認。そして送信ボタンを押す。画面に送信完了の文字が現れる。それを確認して、ケータイを閉じる。

 俺は、連絡を取る時は基本的にメールを使う。電話は苦手だ。相手がでるまで鳴り続けるコール音が大嫌いなのだ。あの音を聞いていると、頭の中でその旋律が異様に響き、意識が段々と薄れていき、まるで脳みそがかき混ぜられるような、或いは、頭の中だけが大地震に見舞われるような、激しい目眩に似た感覚に襲われ、ケータイを投げ飛ばしたくなるような衝動に駆られる。要は、コール音が鬱陶しいのだ。それに比べてメールは楽だ。ただボタンを押すだけで用件を伝えられる。余計な雑音もない。

 それにだ。電話とは違って、返事が来るまで手がふさがらずに自由に行動できる。たとえ、突然怪しい男が現れても、瞬時に対応できるのだ。

 そう、例えるなら、今みたいに。

 前方三十メートル程離れた場所に、一人の少年が立っている。どす黒く染まったジャケット、ジーンズ、シューズ。さらには、漆黒の、光沢を失ったナイフを片手に持ち、白い街灯を赤黒い何かで侵略している。あれは、おそらく、血だ。

 一目見てわかった。こいつが、例の標的か。




 漆黒の海に浮かぶ白い月、『生』を拒む無音の路地、血を垂れ流し横たわる人形。昨日と同じような光景が広がる場所に、少年はいた。昨日と同じように、何もせずにただ呆然と佇みながら。空を漂い、彷徨する白い舟を仰いで。

 闇に浮かび、流れる雲に乗る様に漂う月は、まさに白い舟だった。月の舟は、ゆっくり、ゆっくりと、流れるままに進む。雲が流れ、舟が揺れる度に、白い雫が、大地に降り注ぐ。その光景は、まるで、天国。地が地獄の光景を曝す中で、天は、文字通り天国だった。そのため、地獄は一層息苦しくおぞましいものに感じられる。

 すぐにでも立ち去りたくなるような地獄をものともしない歓喜に満ちた表情で、彼は佇んでいた。つい先ほど、人を殺したところ。彼は、まだ興奮が収まらずにいた。

 目の前には人形が転がっている。

昨日と同じように仰向けに横たわり、昨日と同じように大量の血を流して。唯一昨日と違ったのは、血が流れ出る場所が首ではないことぐらいだ。その人形は、体中に刃物による刺し傷が無数にあった。腹部、胸部、二の腕、肩、太股。首を切った昨日と比べると血の量は明らかに少ないが、それでも、白い雪の絨毯は十分なほどに朱く染まっている。

 殺した動機は昨日と同じ。偶然、その人が彼の前を通り過ぎたから。偶然通り過ぎ、彼に苦痛を与えたから。

 生物の存在自体が彼にとっては苦痛であり、それらを殺すことで彼は快感を得るため、彼の前に姿を見せた時点で、その人間の運命は『虐殺』という、最悪の終結を迎えるしかなかった。たとえ、その運命が望まぬものだとしても、力無き常人には抗う事は不可能であった。

 人形を壊した今、彼の周囲に残存しているのは静寂と冷気、否、それらさえも消えてしまっていた。どうやら、返り血を浴びていたようだ。顔を、粘性のある熱い液体が流れる。全身が朱く染まりゆく光景を、肌で感じる。その、液体の温度に、横たわる人形の脆さに、笑みがこぼれる。体が震える。鼓動が高鳴る。笑いが止まらない、震えが止まらない。

 だが。その狂喜は、一つの音によって阻まれた。


 ――と……ん。


 小さな、小さな鼓動。常人には聞こえないくらいに弱弱しい、弱者の足掻き。その音は、この手で殺したはずの、人形から発せられた心臓の音だった。

 ――こいつ、まだ、生きてる。

 体が騒ぐのがわかった。彼の体は、血を求めていた。

 彼は、それの息の根を止めるために。

「死ね」

 人形に、ナイフを突き刺した。




 前方に堂々と立つ殺人少年は、突然、体を震わせだした。寒さで体が震えるのとは違う。まるで、笑いを抑えているかのような震えだ。次第にそれは大きくなり、仕舞いには、空を仰ぎながら高笑いを始めた。だが、奇妙である。どう見ても笑っているようにしか見えないのに、声は“聞こえない”のだ。音が、無いのだ。声を出さずに笑う、奇妙な少年の姿がそこにあった。

 その時、突然、笑っていた少年の表情がこわばった。静かに、横たわる死体の方を向く。死体を見つめ、少年は憎悪に満ちた笑みを見せる。そして。

「死ね」

 死体を、滅多刺しにした。何度も、何度も。死体が穴だらけになる。穴からは大量の血が溢れ出る。少年は全身に返り血を浴び、それでもなお手を止めない。ナイフを、突き刺す、突き刺す、突き刺す。

 初めて聞いた少年の声は、幼さの残る中学生らしい、それでも、これ以上ないほどに恨みの籠もった、甲高い声だった。

「なんだよ、あいつ」

 自然と一言、俺の口から漏れる。とても微弱な声、それでも、強い感情の籠もった、本音だった。

 奴は、今までの敵とは違う。憎悪の程度が違う。あんなに狂った奴は、初めてだ。最早、奴の行為は、人間を感じさせる要素を持っていなかった。

 戦慄が走る。無意識のうちにあとずさる。やべえな。俺ビビっちまってる。このまま気付かれないうちに、逃げてしまおうかと考えている。

 だが、それは無理だった。否、“無理になった”と言う方が正しいか。


「あいつって、誰?」


 殺戮者が死体から目を離し、こちらを向いて、一言、そう言った。

 今の言葉からすると、どうやら俺の声が聞こえていたようだ。無意識下に出た、あの小さな呟きを。三十メートルも離れているのに、だ。

 殺戮者は少しずつ、こちらに近付いてくる。足音一つたてず、無音のまま。先程の死体の返り血を浴びたのか、それとも、昨日からずっと同じ格好をしているのか、体のほとんどが血に染まっている。今は夜で、街灯と月の光しかないためか、彼の色は赤というよりは黒。まるで、全身が呪われているようで、辺りに異様な空間を醸し出している。

 俺はナイフを片手に持ち、身構えた。相手はただの中学生。ただの殺し好きなガキだ。俺が負けるわけない。

 言い聞かせるようにしている自分がいることに、ふと気づく。まるで、今にもこの場から立ち去りたがっているのを辛うじて抑え込むかのように。この期に及んでまだ逃げ腰の自分にひどく苛立ちを、憤りを覚える。

 ――ざまあねえな。覚悟決めろってんだ。

 唇を強く噛む。血が滲む。痛みと血の味で、正気に戻る。敵に目を向け、静かに武器を構え、戦闘体勢に入る。

 少年は十メートル程離れた場所で立ち止まった。近くで見ると、目を覆いたくなるような彼の悲惨な姿がより鮮明に映る。血の池にでも浸かったかのように体中に血を浴び、妖しく月光を反射させるナイフを持ち、彼の口元は不気味な微笑を浮かべている。顔にも返り血を浴びているようだ。左目が血に汚染されている。

 彼の姿は、異常だった。普通の人が見れば、悲鳴をあげ、許しを請い、果てに失神するだろう。そして……殺戮。常人には、彼の姿を見ることさえも許されないのだ。見れば最期、死の運命から逃れることが出来なくなる。

「音、鳴ってるね」

 彼はこちらを見つめたまま、静かに呟いた。この距離でなんとか聞き取れるくらいの、小さな呟きだった。

「とくん、とくん、って。これって、耳障りだよね」

 口のみが動き、言葉を紡ぎだす。先程と同じ音量の声は、辛うじて俺の耳に届いた。こいつは一体、何を言いたいんだろう。

「痛いんだ。音が頭の中に入ってきて、跳ね返って、響いて。まるで、内側から金属バットで叩きのめされるみたいに」

 彼が発した言葉と、先程の事――遠くにいた俺の言葉が聞こえていた事から、ようやく理解できた。

「音さえ止まれば、痛みは消えるんだ。静かなら、苦しくないんだ」

 恐らく、こいつは耳がいいんだ。それも、並大抵のレベルではない。十メートル離れていても心臓の音が聞こえるくらいに、耳がいい。明らかに、異常だ。――それが、こいつの“能力”か。

「分かるだろう? 音が在ると、とても、苦しいんだ。だから――」

 彼が求めるは無音。そのためには、俺の鼓動さえも邪魔という事か。相手の攻撃に備え、構える。全神経を、右手に集中させる。双眸を少年に向け、隙をつかれないよう細心の注意をはらいつつ、威嚇の意味もこめて少年を鋭く睨みつける。

 少年は怯むような素振りを少しも見せず、少し腰を下げて姿勢を低く保ち、

「――その音、止めさせてもらうよ」

 その言葉が合図であったかのように、走り出す。同時に、俺も走り出す。一秒も経たずに、二人の距離は零になる。

 戦闘、開始。


 先制攻撃を仕掛けたのは、俺だった。相手をナイフで突く。右下腹部、左大腿部、右肩部、左胸部、頸部への、五連突き。その間、約一秒。特別速いわけでもないが、それでも、確実に刃は少年に襲いかかる。それを少年は最小限の動きで――たったの五歩で攻撃を躱した。あまりに無駄のない動きに、一瞬、気をとられる。だが、すぐに体勢を戻し、頭から縦に斬りつける。難なく躱される。ほんの一瞬、隙ができる。そこを透かさず左下から右上へ大きく振り、少年を斬りつける。ナイフを振る速度は先程より速い。ましてや、この距離である。躱せるはずはなかった。だが、少年は、まるで最初からナイフの通る道筋が分かっていたかのように、一切の無駄な動きなしで瞬時に二歩半下がる。すると、ナイフは少年の手前を掠め、虚しく空を斬る。大振りになってしまい、隙ができてしまう。少年は間髪を入れず、俺の目の前にナイフを突きつける。

「弱いよ。もっと抵抗しないと」

 微笑を浮かべ、嘲るように俺に言葉を突きつける。この野郎、思いっきり馬鹿にしてやがる。

 間合いを取り、体勢を立て直す。少年は目を瞑り、空を仰ぎながら、静かに佇んでいる。その様子を見る限りでは、とても殺戮者には見えない。至って普通の、中学生程度の少年なのだ。そして、その中学生に、俺は苦戦を強いられている。屈辱以外の何物でもない。考えるだけで腹が立つ。

 肉体的な力は、恐らく俺の方が上だろう。こいつの腕力は、見た目通り――中学生程度しかない。だが、動きが素早い。しかも、俺の行動がばれているようだ。奴の動きは、最低限の移動しかしなく、全く無駄が無い。その上、隙が全くないもんだから攻撃が掠りもしない。……厄介な相手だな。

 こいつは強い。こいつの能力がどんなものかは知らないが、今までで一番強いだろう。奴らの力は、基本的に、願望の強さに比例する。恐らく、この少年は、かなり“死にたがっている”のだろう。

 ……絶体絶命。準備を何もせずに臨んでいる今の状態では、確実に負ける。かと言って、逃げ出せる状況でもない。さて、どうしたものか。

 その時。不意に――風が吹いた。

 無音を吹き飛ばし、静寂を断ち切るような、突風だった。

 衝突。そして、轟音。そして――静寂。まるで季節外れの嵐だった。それは唐突に現れ、怒涛の如く猛威を振るって、(たちま)ち去っていった。

 突風に気をとられ、一瞬、集中力が途切れる。本当に僅かな一瞬――それでも、非人間的な能力を持った者と対峙している今の状況では、あまりにも大きすぎる隙。

 脳天に、疼きに似た違和感が生じる。まずい、と本能が危機を察知し、反射的に少年に意識を向ける。

 途端、驚愕した。

 突風の間に何があったのか、少年は苦悶の表情を浮かべながら、膝をついて、息を荒くしながら、俯けていた。先程までの綽然とした態度とは打って変わって、目を見開き、肩を上下させ、今にも息絶えそうになっているのだ。

 一瞬、思考が停止した。一体、何があったんだ。あれほど隙がなかった少年が、今は完全に無防備だ。その上、こっちは何もしていないのに勝手に瀕死状態になってくれている。

 これは好機だ。今――相手の身動きがとれない今なら、奴を殺せる。憎悪に隔離され、恐怖に苛まれ、怏々とした静寂に包まれる世界に、本当の静寂を与えられる。明らかに姑息かつ卑劣な手段だが、生死を賭けた戦いに、手段を選ぶ(いとま)など、ない。

 武器を構え、突進していく。狙いは心臓一点のみ。そこめがけて一撃を与える。驚いたことに、少年はそれを自らの武器で防いだ。だが、先程より明らかに動きが鈍い。先程ならば容易く躱していた一撃を、ナイフで受け止めているのだ。機敏な動作は、最早出来なくなっていた。

 よろめきながらも立ち上がった少年に、何度も攻撃を繰り出し、道の奥へと押しやる。そして、とうとう壁まで追い詰めた。

 俺は勝利を確信した。ナイフを構え、相手の心臓に狙いを定める。

 相手には悪いが、これも仕事だ。こうしなければ、彼らを救うことは、出来ない。彼らを救うには、彼らを“殺すしかない”のだ。

 凄惨たる現場を見ることには慣れても、人を殺すことには、まだ、慣れてはなかった。そのため、俺は、良心の呵責に悩まされる前に、相手に同情の念を抱く前に、殺すようにしていた。今回も、同じ。俺は、相手に向かって走り出し、ナイフを突き出した。

 だが。

 次の瞬間――世界が反転した。

「な!?」

 驚愕と苦痛の入り交じった悲鳴が、あまりにも閑寂すぎる町に響き渡った。

 一体何が起きたのか。全く理解できていなかった。本来ならば、今頃ナイフを胸深くまで刺し、少年の死を確認し、帰路に就くはずだったのに。それが今は顔を突っ伏し、俯せになって倒れているではないか。一体、何が。

 顔を足下に向けると、そこには、血塗れの死体が転がっていた。先程、少年が滅多刺しにしていた、あの穴だらけの死体だ。どうやら、少年を追い詰めるうちに、いつのまにか死体のすぐ側まで来ていて、死体に足を引っ掛けたようだ。少年に注意を向けすぎていて、全く気がつかなかった。


「うるさい」


 背部から、どす黒く染まった声が響き、俺に重くのしかかる。少年の、内に秘めた憎悪の塊が、声となって伝わってきた。身の危険を感じ、すぐさま仰向けに体勢を変えると――少年が蔑むような目つきで俺を見つめながら、ナイフを振り下ろしていた。

 咄嗟の判断で、少年の攻撃を右腕で防ぐ。少年の振るった一撃は、何の迷いもなく俺の腕に食い込み、突き刺さる。

 まず、奇音。肉を引き裂き、(えぐ)る音が、体から直接伝わる。その、体が戦慄してしまうような音に、心が、恐怖や嫌悪なんかが適当に投げ入れられたものに憎悪を込めながらかき混ぜたような邪悪な負の感情に染まっていく。

 そして、血飛沫(ちしぶき)。動脈が切れたのだろうか。血が湧き出る。その、常人が見れば間もなく卒倒するであろう凄絶な光景に、負の思念がより色濃く渦巻く。その思念があまりに強すぎて、心が無になるような気さえしてきた。

 そして――少し遅れて、事実を思い出したかのように、激痛が走る。突然の体の変化に対応できず、右腕が痙攣(けいれん)する。憎悪も嫌悪も、何もかもかき消してしまうような激痛が、体中を目まぐるしく駆け巡る。俺の口から呻き声が漏れる。


「うるさい、うるさい、うるさい」


 その呻き声に少年は反応し、半ば機械的に同じ言葉を連ねる。言葉に合わせてナイフを振るう。

 突き刺す、突き刺す、突き刺す。

 何度も、何度も、何度も。

 腕に穴が幾つも出来る。激痛のためか出血のためか、意識が霞む。視界が暗くなり、音が遠くなり、痛みが薄れていく。最早、痛いのか痺れているのか、判断することも出来なかった。

 ――情けねえ。殺せると思って調子に乗った結果がこれか。

 薄れゆく意識を必死で繋ぐ中で頭に思い浮かんだ言葉は、自嘲だった。油断したために、命を落とす。本当に呆気無い結末だ。少年がナイフを両手で持ち、高々と掲げるのを見た。その目は、俺の命――こんな惰弱な命になど、興味無いとでも言うような、無関心かつ無感動な目をしていた。

「死ね」

 最後は、何の感情も感じられない、無色の一言。少年は呟くように小さく言葉を発し、心臓めがけてナイフを落とした。

 死ぬと、思った。

 そして――


 ! ――……。


 ――次の瞬間、一帯に訪れたのは血塗られた惨劇ではなく、大気を擘く爆音だった。

 少年がナイフを下ろす瞬間、僅かに風が吹き、その風に乗るように小さな筒状の物体が飛んできて、少年のすぐ後ろで、爆ぜた。まるで、耳元で爆竹を鳴らしたような、刹那的な破壊力を周囲に分け隔て無くもたらす、爆音だった。

「がア!」

 爆音に悶え苦しむ少年。後ろを振り向き、恐ろしい形相で()め付ける。どうやらそこには、爆発物を投げ込んだ誰かがいるらしい。数秒程そのまま静止して、逃げるように走り去っていった。

「リュウ!」

 何が起こったのか理解できずに放心していたが、何者かに声をかけられ、正気に戻った。どうやら……助かったようだ。上半身を起こして声のした方を向くと、一人の青年がこちらに駆け寄ってきていた。

「大丈夫か、リュウ」

 その人物は味方だった。俺の事を『リュウ』と呼んだ彼は、先程ケータイで呼び出しておいた奴――カケルだった。肩の力が一気に抜けた気がした。




「さっきのが、例の」

 辺りを見回し、少年が走り去った方を見ながら、カケルが訊ねる。

 流条翔(ルジョウカケル)。それが、彼の名前だ。非常に端整な目鼻立ちをしており、怜悧な印象を持つため、同性異性共に好かれていた。いた、というのは、無論、前述が過去の話だからである。異能者となってしまったため、常人の日常と関係を持つことが極端に少なくなったのだ。

 また、彼は、仕事をこなす上で相棒のような存在であり、数少ない仕事仲間である。主に情報収集を担当している。彼の能力は特殊なため、戦闘よりはそっちの方が向いているからだ。そして、俺が実行部隊――戦闘の分野を担当している。

「ああ、そうだ」

 怪我をした右腕を庇いながら答える。怪我をした、という表現は、右腕の状態を考慮すると軽すぎるように感じられるが、その怪我は、俺にとってはその程度のものだった。

 外見は重傷だが、さほど痛みはなかった。恐らく、鋭い痛みに神経が麻痺しているのだろう。或いは、もう、回復し始めているか。それでも、勿論、痛くないわけではないが。

 痛みが表情にでていたのだろうか。カケルが大丈夫か、と声をかけてくる。すぐに、大丈夫だ、と返事するが、脈打つような痛みは勢いを増すばかりだった。

「今回は、今までで一番厄介だ。殺し方が人間とは思えなかったよ」

 先程の出来事を思い返しながら、伝える。今頃になって、少年の言動に背筋が反応した。背筋が寒くなるとは違う、なんかこう、骨の髄が戦慄しているようだった。

「それで、今回の患者の情報は」

 患者――少年の情報を催促するカケル。カケルは、彼らのことを『患者』と表現する。まあ、彼らの能力は病気のようなものだから、あながち間違っているとは言い切れない。だが、俺はその言い回しがあまり好きではなかった。

 俺が大雑把な情報を伝え、カケルがより詳しく調べる。これが俺達の行動パターンになっていた。カケルは、主に頭を使う能力に長けていた。頭がいいのとは少し違う。彼は他の人間より、脳が余計に発達しているらしいのだ。そのためか彼は、俺が分からないものも必ず調べあげることが出来る。彼曰く『ノートパソコン使えば分からないことはない』らしいが、どうやったら秘密組織の極秘事項を探し出せるのか、俺には全く分からない。

 俺が少年に関する情報を残らず伝えると、カケルは顎に手を当て、典型的な『考えるポーズ』で沈思黙考し始めた。暫くそうして、何かに気づいたかのように頷くと、

「多分、聴覚器官が変化したんだろう。彼は目が見えないみたいだから、それが原因かもしれないね」

 と、説明してくれた。

 ……ちょっと待て。なんで――

「なんで、目が見えないって分かったんだ」

 俺の情報には、失明しているなんてものはなかった。なんで分かったんだろうか。

 だが、それもすぐに説明してくれた。

「彼は逃げる前に俺の方向を睨んだだろう? その時、彼の目が僅かに震えていて、明らかに焦点が合ってなかったんだよ。彼はきっと、目が見えなかったんだと思うよ」

 なるほど。それなら俺が分かる訳無い。あの時は俺の位置からは、彼の顔を確認することは出来なかった。

「至近距離で戦ったのに、気づかなかったのか」

 付け足すように、カケルが言った。

 ……言われてみれば。なんで、気がつかなかったのだろう。

 恐怖で、気づく余裕もなかったから?

 今までの中で一番おぞましい敵だったために、焦ったから?

 考えていて、だんだん腹が立ってきたので、考えるのをやめた。

「ところで、その腕は大丈夫なのか」

 血塗れの右腕に視線を移す。普通ならば完治するのに二ヶ月はかかりそうな傷が、幾つもの刺し傷のうち、二、三ヶ所はもう血が止まっていた。傷が治るまでには至らないが、明日までには完治“してしまう”だろう。

「ああ、明日までには治るさ。明日の夜には再戦だな。というわけで、明日までに調べ上げといてくれ」

「はは、明日までか。難しいかもな。けど――まあ、任せてくれ。それじゃあ明日、ムーンライトで」

 そう言って、その場から立ち去るカケル。難しいとは言っていたが、それでも完璧に調べ上げるのが、彼の性格であり、彼の能力でもある。俺は自分の心配さえしていればいい。

 明日は、殺す。

心に直接刻みこむように、自分に強く言い聞かせる。この仕事を始めてかなり経つが、未だに殺すことを躊躇している。肉体は殺したがっているのに、精神はそれを拒否しているのだ。おかげで毎日、神経が擦り切れそうな苦痛を感じている。今までは大丈夫だったが、その内、それが命取りになることだってある。そろそろ、覚悟を決めなくては。




 黒塗りの天井にあけられた穴が大地を悠然と見下ろす中、少年は細く続く道を鋭い眼光で凝視しながら独り屹立(きつりつ)し、壁のように立ちはだかる背を月光に曝していた。

 最近起きている怪事件を危惧して人々が外出を避けているためか、周囲に人間の気配は亡い。確認できる生物は、少年のみ。何故、彼だけがその事象を意に介さないのか。それは、彼こそが怪事件の元凶だから。

 少年の後ろ――南方の夜空に、皓々たる佳月が、その玲瓏たる存在を主張している。現在時刻、午前零時。時の狭間で満月は、時が止まったかのように静止していた。

 少年は微動だにせず、見るもの全てを恐怖に怯えさせる殺気立った目で、道の先を睨み付けている。時が止まったかのように静止している彼の体躯を、冬の寒気が容赦なく肌に突き刺さる。その凜冽(りんれつ)たる寒気と彼の尖鋭な殺気とが入り乱れ、辺りが、静謐(せいひつ)だが緊迫した空気に包まれる。

 昨日と一昨日は、少年の周りには死体が転がり、彼は死人のように呆然と立ち尽くしていた。しかし、今日は違った。今日は死体など一つも無く、彼も、何もせず佇んでいるわけではなかった。どんな些細な事象も取り落とさぬように神経を研ぎ澄まし、奴の登場を今か今かと待ち構えていた。やがて、それはやって来る。この無人の世界に。彼を、殺すために。

 そして――それはやって来た。

 遠くから足音が聞こえる。僅かに降り積もった雪を踏みしめながら、ゆっくりとこちらに向かって来ている。それが一歩を踏み出す度に、道が軋むような、或いは、雪が悲鳴を上げるような、妙に甲高い不快音が鳴り響き、少年の耳を貫く。少年の顔が段々と歪み、体躯が(おのの)く。少年が強く歯を食い縛る。少年の周囲に漂う空気が、固まる。彼が全身から発する憎悪や嫌悪や憤怒は、大気すら恐怖するほど強烈だった。

 不意に少年の体が、張り詰めていた何かが切れたのか、崩れるように倒れ込む。一瞬、彼の顔が忽然と、我に返ったかのようにはっとする。足音は淡々とした音調で律動し、次第に存在を強調していく。少年は、その無遠慮な跫音(きょうおん)に脳が疼き発狂しそうになるが、強く歯を食い縛り、なんとか耐えながら立ち上がる。どんなに苦しくても彼は耐え、直立の状態でじっと静止していた。

 それは彼の中にいる、人間としての意識が持つ慈悲によるものだった。自分が耐えている間に逃げてほしい。自分に、殺戮をさせないでほしい。そういった願望の籠もった、彼の悲痛の叫びだった。

 少年の中にもまだ、人間らしい部分が残っていた。彼を蝕む存在が苦痛に耐えきれなかったのか、先程――崩れるように倒れ込んだ時、僅かに理性が勝り、一時的ではあるが自分を取り戻すことが出来たのだ。

 周囲に生物がいない時、彼は人間でいることが出来た。彼の中に残る僅かな理性が、殺人鬼として彼の体を支配するものをかろうじて抑えるのだ。

 少年は切望した。これ以上自分に近付かないでくれ。さもないと、殺してしまう。しかし、それを裏切るように足音は大きくなる。奴が――近付いてくる。

 やがて、足音が止まった。約十メートル先。人が、いる。

 耐え切れぬ苦痛のためか、己を蝕む存在に抗えぬ事への無念さによるものか。

 或いは。これから起こる惨劇に対する歓喜のためか。

 少年の目からは涙が流れていた。


「よう」

 彼は、さも愉快そうに少年に声掛ける。少年への配慮によるものなのか、その声は、割方小さめだった。

「見つけるの、苦労したよ。まさか昨日と同じ場所にいるとは思わなかったからな」

 彼は呟くような声で話しながら、ゆっくりと歩き出した。

 一歩進む度に、雪が軋む。少年にとって雑音とも言える不快音が彼の耳に纏わり付く。耳に引っ付いて離れない悪寒が、少年の理性をかき乱す。黒ずんだ死への欲求が、怒濤の如く少年に襲いかかる。

 最早、限界だった。彼の理性は――彼の人間としての最後の感情は、脆く、儚く……欲望の波に耐えられなかった彼は、次第に、およそ人とはかけ離れている、荒廃した何かに成り下がっていた。

「逃……げて……殺シ、ちゃウ……」

 僅かに残った理性で、目の前の男に逃げるよう促す少年。しかし、男には少年の配慮が蛇足だとでも思えたのか、彼は全く意に介さぬ様子で、否、むしろ愚弄するように薄笑いを浮かべ、一歩、また一歩と、確実に、少年の方へ足を進める。

「お前の事、調べさせてもらったよ。目、見えないんだってな」

 言い終わると同時に、彼は足を止めた。距離は、約五メートル。一歩前に飛び出しても僅かに届かない位置に、彼は立っていた。

 少しの間、彼は少年の様子を(うかが)うようにしていたが、やがて彼は静かに、収集した情報を提示し始めた。

「今からちょうど二ヶ月前、本州日本海側を、とある自然災害が襲った。お前は、それの被災者だな。

 その災害の影響で家屋が崩壊し、それの下敷きになった。その時の衝撃、圧迫によって視覚機能が停止――全盲になった。まあ、その時お前は気を失ってただろうから、失明したのに気が付いたのは病院で意識が戻ってからか。

 早急な救助と治療のおかげで死を免れたお前は、自分が失明していることを知った。俺は失明したことはないから、何も見ることが出来なくなる感覚はよくわからないが……恐らく、耐えがたいものなんだろうな。突然突きつけられた衝撃的な現実にお前は耐えられず――自殺しようと考えた。

 病院で自殺を考えたのなら、飛び降り自殺でもしようと思ったのか? 病室の窓から、或いは屋上から下を覗き込んで、でも、失明しているから何も見えず余計に虚しい思いをして、飛び降りようとしても、死への恐怖のためか、最期の一歩が踏み出せなくて……。

 気が付くと、頭の中から『自殺』の二文字が跡形もなく消え失せ、光を失った世界が“見える”ようになっていた。そして――無性に人を殺したくなった。

 お前の能力――失明したのに、周囲の状況を把握出来る、その能力。それの正体は、全神経の鋭敏化。外部からの刺激に体が過剰反応し、それによって、心臓の音や空気の振動といったほんの僅かな刺激さえも感知、結果的に目が見えなくても周囲の様子が手に取るように分かる。そのかわりに、常に体中が激痛に見舞われたり、小さな音が騒音のように感じられたりといった嫌な副産物も残るけどな。

 どうだ、どこか間違いがあったか?」

 男は、最初は微笑を浮かべながら話していたが、次第にそれは真剣なものに変化していき、最後には――無性に人を殺したくなった、の辺りから――顔一面を憤怒に満たし、少年を睨み付けるようにしていた。その間、少年は小刻みに体躯を震わせながら、彼の話をじっと聴いていた。

 彼が調べ上げた内容に、間違いはなかった。少年は、『失明』という事実を受け入れることが出来ず、自殺を試みた。病室が六階だったので、窓から落ちれば死ぬことが出来た。重く冷たい窓を開け、十月末の冷たい風が吹き付けるのを肌で感じ、身を乗り出し――そこで、止まってしまった。次の行動に移ろうと床を強く踏むが、窓の外へ飛び出すことは出来なかった。

 男の言う通り、怖かったのかもしれない。或いは、未練があったのかもしれない。家が崩れ、目が潰れ、絶望的としか言いようのない将来――未来に、希望を持っていたのかもしれない。とにかく、『死にたくない』と、思った。心の奥底では、死を拒絶していた。

 何度か床を踏んでは躊躇するのを繰り返していると、突然目眩に襲われ、全身に激痛が走った。風が吹くだけで殴打されるような、冷たい空気が当たるだけで針に刺されるような痛みに襲われた。突然の変化に耐えきれず呻き声が漏れると、まるで耳元で大声を出したかのような轟音が脳の奥まで鳴り響いた。

 何もかもが突然訪れ、少年は混乱していた。一体何が起きたのか。さっきまでは窓から身を乗り出して――。

 その後の言葉は出てこなかった。まるで最初からその想念が無かったかのように、彼の頭の中から『自殺』が概念ごと消えていた。この瞬間から彼は、自殺することは勿論、考えることさえ出来なくなった。

 代わりに一つ、得たものがあった。

 訳の分からない激痛に襲われ、それに耐えきれず逃げ出したくなり、その時心の中に現れた一文が、彼を壊し始めた。咄嗟に浮かんだ想念。『もう、いやだ』と。

 途端、彼の奥深くから何かがせり上がってくるのを感じた。やがてそれは全身に行き渡り、彼を、その得体の知れぬ何かで満たした。すると次第に、彼の体躯は、ある一つの事柄を求め始めた。人を、殺したい、と。そしてこれが、彼が人間とはかけ離れた殺戮者へと零落した瞬間だった。

「今回お前のことを調べてて、分からないことがいくつかあってな。お前に三つ質問がある。まず一つ目。何故、死にたいと思った」

 男は暫くの間少年の反応を窺っていたが、少年が反応を示さずただ小刻みに震えるだけだったので、少年を睨み付けながら質問した。

「お前が自殺しようなんて考えを持たなかったら、こんなことにはならなかったんだよ。なんで、どうして、せっかく助かった命を自ら捨てようと思ったんだ……!」

 男の声は、明らかに憤怒と憎悪に満ちていた。それは、少年が命を粗末にしたことよりも、少年の行動が自分に影響を与えたことに対しての感情だったが、それでも、はっきりと少年に向けられた感情だった。だが、少年は相変わらず無反応だった。否、反応することが出来なかった。

 少年が反応を示さないのは、仕方がないことだった。二ヶ月前ならともかく、現在の彼には自殺に関する概念が消えていた。その彼にとって『何故自殺しようとした』という質問は、理解出来ない代物だったのだ。

「返答は無しか。ま、いいや。それじゃ、二つ目の質問。何故、この町にやってきた」

 先程の重苦しい雰囲気とは打って変わって、やけに軽い口調になった。

 少年は、答えられなかった。この町に来たときは何か明確な目的が在ったのだが、この二ヶ月の間に、彼を人間たらしめていた理性が徐々に廃れ、それに伴って、かつて彼を動かした理由となる強靭な意志さえも溶解し、虚空へと流失してしまったのだ。

「……まさかとは思うが、ここに来れば、俺たちに助けてもらえると思ったのか?」

 最初から知っていたかのような口調で男は言葉を放つ。その言葉は空気に伝わり少年の耳に伝わり、彼の頭の最奥に秘められた、失ったはずの小さな記憶の断片を呼び起こした。

 男の言う通りかもしれない。まだ少年の体躯が理性によって支配出来ていた頃、とある噂を聞いた。北の方にある町で異能者狩りをしているらしい、と。彼は直感的に悟った。きっと、異能者とは自分達のことだ。そこに行けば、この生き地獄とも言える人生から、救われる。そうして、彼はこの町にやってきたのだ。

「勘違いするなよ。俺はお前を助けに来た訳じゃない。お前を、殺しに来たんだよ。勿論、お前が俺を殺すんじゃ、ない。俺が、お前を――殺すんだよ」

 男の言葉は、瞭然たる凄みを持って少年に襲いかかる。それは、常人が聞けば言葉だけで怖じ気づく程の迫力を持っていた。だが――やはり少年が反応を示すことは、無かった。

 少年にとって脅威や恐怖を感じられるのは僅かに残った彼の理性のみであり、その理性は己の狂暴を抑えることしか出来ず、最早、男の発言に反応する余裕を持っていなかった。

 彼の理性は、限界だった。何かきっかけが在れば、すぐにでも崩れてしまうほどに、弱っていた。そして――

「最後の質問だ。答えろ、異常者。お前は、生きたいのか。それとも――死にたいのか」

 ――男が放った最期の質問が引き金となり、少年の理性が崩れていく。脆弱な理性が、内に秘められた化け物に支配されていく。

「シニタイ」

 永遠の微睡(まどろ)みへ堕ちていく中、少年が耳にした声は。闇に支配されし己の奇声であり。己の終焉を無感動な眼で見つめながら、彼は――彼の理性は、消えた。


 男が右手に剣を構える。刃渡り三十センチ程の、西洋で造られた短剣だった。男が昨日持っていた刃物をナイフとするなら、今日のそれはダガーだろうか。

 化け物に成り下がった少年は、微笑を浮かべながら佇んでいる。少年の手にも、いつのまにかナイフが握られている。この三日間で幾多もの血を吸った、呪われしナイフ。それは、見る者に脅威のみを脳裏に浮かばせる力を持っていた。

 最初に動いたのは、少年だった。余裕を持った面持ちで、確固たる自信に満ちた遅々たる足取りで、雪道を闊歩する。それには、己の勝利に対する絶対的な自信と、相手の無謀さに対する侮蔑が滲み出ていた。刃物の長さから、不利な状況に立たされているのは自分であることは明確なはず。だというのに、それを気に留める様子は、微塵もない。

 少年は、男との距離が二メートル程になるところで、止まった。一歩踏み出せば、相手に攻撃を行える距離だ。

 どちらも、時が止まったかのように動かない。静寂が束の間を支配する。そして――静寂を切り裂く勢いで、短剣が跳ねた。

 男が猛攻を繰り出す。空を斬る音と共に繰り出される攻撃は、異常な速度で的確に少年の四肢を、同時に狙う。一瞬、男の右腕が、それの持つ短剣が、複数在るように見える。その、人間の域を逸脱した神速の攻撃が少年を襲う。だが、少年はいち早くそれに反応し、後ろに跳び、いともたやすく回避する。

 少年の能力は、神経の鋭敏化である。彼は神経を研ぎ澄ますことで全神経への伝達速度を上昇、また、それに伴って瞬発力も急伸し、結果として全ての攻撃に瞬時に反応し、回避することが可能になるのだ。彼がその気になれば、銃弾を躱すことも可能だった。

「やっぱ当たんねえか。じゃあ、こっちも本気出すしかねえな」

 攻撃が当たらない事を最初から予想していたように、男が呟く。すると、男は短剣を左手に持ち替え、右腕を前に掲げた。そして――右腕を、切断した。

 少年は予想していなかった事態に動揺し、少し後退(あとずさ)りした。目の前で、地面に落ちた腕が鮮血を噴出しながら、まるで別の生物であるかのように痙攣している。その腕の持ち主だった男は、苦悶の表情を浮かべながら苦痛に耐えているようだった。時々、小さな呻き声が聞こえてくる。

 血飛沫が周囲に降り注ぐ。コンクリートの壁にも、一面真っ白の雪道にも、腕を切断した張本人にも、それと対峙している少年にも。少年の肌に飛沫がかかった。途端、その部分に、火傷に似た激痛が走る。

 それは、否応無しに得ることとなった異能の代償だった。神経が敏感になったことで、彼は通常感じ得ない痛みや熱さ、聞こえない音などを感じ取れる体質になってしまったのだ。彼にとって鮮血の温度は、常人が感じる熱湯と同じ。故に、彼の肌は火傷に似た痛みに襲われたのだ。

 だが、そんなことは、次の瞬間に起こった異常事態と比較すれば、些末な事柄だった。

「一分だ。一分でこの殺し合い、終わらせてやるよ」

 男が言うと同時に、肘から先がなかった男の腕の切り口から、何かが飛んできた。

 弾丸の如く飛んでくる何かを、少年は間一髪で躱した。そして、それの及ぼす空気の振動や轟音から、その物体が何か推測する。

 果たして、それは弾丸だった。その物体が衝撃波を創り出し、螺旋回転をしながら直進していた点からの予測ではあるが、現在の世界に存在する武器の中で当てはまるものは、銃器の類しかなかった。

 しかし。今まで、目の前にいる男が拳銃を持っている様子はなかった。その上、左手には短剣を持ち、右手は先程少年の前で切断したのだ。銃など持てる訳がない。では、一体、何故。

「五秒。どうだ、驚いたろ。これが俺の能力だ」

 一言そう言うと、今度は連射をしてきた。複数の弾丸が少年に襲いかかる。いくら瞬発力があっても、全てを躱すことは不可能だった。ナイフで弾き飛ばしたりしたものの、二、三発受けてしまった。

 耐え難い激痛が少年を襲う。突然の激痛に息が詰まりそうになる。

 だが、攻撃を受けたおかげで、弾丸の正体が分かった。貫通せず体内に残留した弾丸は、銃撃を受けた数秒後に溶けて、否、元の状態――液体に戻って、少年の体内に流れた。

「血液の、固体化……」

 気がつくと少年は呟いていた。

 先程受けた弾丸の正体は、血だった。それも、何らかの方法で一時的に鉄と同等の強度をもったものである。そのため、彼は男の能力が血液を固体にするものなのでは、と思ったのだ。

「十五秒。ちょっと、違うな。血を鉄みたいに固めることも出来るし、逆に蒸発させることも出来る。俺の能力は、通称『神の手』。右腕に分類される体の部位を、自由に変形できる能力だ。右腕自体が、一つの生命体なんだよ」

 その言葉と同時に、先程失った男の右腕が新しく生えてきた。どうやら、再生能力も備えているらしい。昨日負わせた重傷も、今はもう完治しているようだ。

 昨日とは打って変わって、不利な状況に立たされた少年。辺りを、緊迫した空気が包み込む。

「三十秒。さっき、一分で終わらせるって言ったからな。悪いが、容赦なく行かせてもらう」

 男は二メートル程後ろに跳び、空中で右手首の動脈を切り、血液でナイフを生成、着地と同時に投げた。

 一本のナイフが少年の心臓めがけて直進する。だが、この程度の攻撃を躱すことは、少年にとっては造作もないこと。無駄のない最小限の動きで回避する。

 男は、こんな攻撃じゃ(らち)が明かないと思ったのか、舌打ちをしながら手首を再生し、右手人差し指を第二関節から切断、親指と人差し指をまっすぐ伸ばし、右手を拳銃のような形にすると、指の先から先程のように弾丸を飛ばしてきた。

 先程とは違い弾丸は単発なので、(かろ)うじて少年は躱すことが出来る。だが、躱すだけでは勝てない。いずれ、殺される。

 不意に、少年は気付いた。先程――二メートル程跳んでから、目の前の男はその場から動いていない。それに、右腕を切断したときも、残った腕を動かすだけで、その場から移動することはなかった。

 もしかすると。彼は右腕を操作する間は、能力の代償か、或いは、能力発動中は集中を要するなどの、何らかの理由があって腕以外を動かせないのではないか。だとすれば、弾丸を躱しつつ彼に近づき、ナイフを突き刺せば――まだ少年にも勝機はある。

「五十秒」

 男が時間を刻む。戦況は少年側に傾くかもしれないというのに、男は少年に、仮初めの余裕を見せつける。

 少年は銃撃を躱しながら、男に突進した。男は相変わらず血の塊を撃ち続けている。意味のない攻撃を、続けている。

 少年は、心中では男を嘲笑していた。『一分で終わらせる』と豪語し、掠りもしない銃撃を続け、結局、少年に殺される。ああ、なんと虚しい人間か!

 結局、少年の前に現れた者は皆、少年に殺されてしまう。少年を殺せる者はいない、いないのだ。

 男との距離は、残り二メートル。一歩飛び出してナイフを突き出せば、確実に殺せる距離だ。この世界に対する絶望を感じつつ、少年は目の前に佇む男を殺すため、心臓めがけて、一撃を放つ。そして――


「残念。お前の負けだ」


 ――ナイフが、男に刺さることはなかった。ナイフの刃先は、男に刺さる寸前で静止していた。ほんの僅かだが、少年の一撃は、届かなかったのだ。そして、次の瞬間には、男が渾身の力をもって振るった短剣の一撃によって、少年のナイフは道の脇に弾き飛ばされていた。

 少年は予想外の現実に驚愕した。あの状況から飛び出せば、少年の勝利は確実だったのに。

 ふと足首に違和感を覚え、足下を確認すると、そこには信じがたい光景が広がっていた。

 腕が地面から生えていた。否、生えていたと言うよりも、腕が地面に根付いた、と言った方が正確かもしれない。その、地面に固定された一本の腕が、少年の足首を堅実に捕捉していたのだ。少年は訳の分からぬ感情に押し潰され、ぞっとした。この腕は、確か――

「言っただろう。右腕自体が、生き物だって」

 男が今までより少し大きな声で言った。その時になって、少年は(ようや)く先程の発言の意味を理解した。『右腕自体が一つの生命体』とは、この事を意味していたのだ。その腕を所持する者が連繋を破棄しない限りは、切り落とされても生命として活動し、所有者の命令に従う。

 地面に落ちた右腕は少しずつ形を変え、自身を大地に固定した。そして、何も知らずにやってきた標的を捕捉した。

 全ては罠だったのだ。わざわざ右腕を切断したことも、能力発動中に動かなかったことも、二メートル後ろに跳んだことも、延々と同じ攻撃を続けたことも、時間を刻んだことも。“仮初めの”余裕ではなく、全て計算ずくでなされた行動だったのだ。

「一分。……終わりだ」

 男はそう呟くと同時に、どういうわけか顔を悲痛に歪ませた。実際には一瞬顔が歪んだだけなのだが、敗北を察知し、全ての事実を客観的に受け入れ始めた少年の鋭敏な神経は、男が罪悪感のようなものに心を痛めているように感じた。しかし、男は何故そのような表情を見せたのだろう。どうやら男は、少年の顔を見ているようだ。それに気付くと同時に、自身の異変にも気付いた。

 少年の頬を、熱い雫が伝っていた。少年は涙を流していた。熱湯を思わせる程に熱を帯びた涙が目尻に溜まり、やがて雫となって頬に零れ落ちる。少年は、泣いていたのだ。

 少年は、自身の頬を流れる涙の理由が分からなかった。彼に残された感情は憎悪のみであり、悲哀も、歓喜も、恐怖も――人間らしい感情は最早消えたはずだった。少年には、涙を流す理由がないはずなのだ。それなのに、涙は流れる。止めどなく、終焉を知らないかのように、溢れ続ける。

 男が、短剣を持たない右手で、いつのまにか指を再生した右手で、少年の首筋に手刀の一撃を与えた。殺す時に、少年に苦痛を与えないためか、男は少年を気絶させようとする。

 首筋に衝撃を受けた。痛みは、さほど無かった。意識が虚空へと流れていく。――ああ、これで漸く死ねる。これで漸く、苦痛から解放されるんだ……。無意識の内に少年は安堵した。それは、彼を人間たらしめていた理性が消えた時に、共に失ったはずの感情だった。

「すまない」

 幸か不幸か、男の呟き――微小な声の謝罪を最後に聴きながら、少年は意識を失った。

 少年の顔は、微笑んでいるように見えた。




 その日、カケルは例の患者の情報を探るため、一人『ムーンライト』に籠もってノートパソコンを操作していた。現在時刻、午前十時。カケルは、前日にリュウから依頼され、徹夜で情報収集を(おこな)っていた。

 寂れた空間。壁には黒で『27』と印された日めくりカレンダーが掛けられ、店内全体に色褪せた家具が無造作に配置されている。元々物寂しい色だったのが、日の射し込まない暗鬱とした空気が、周囲をより空寂に感じさせ、その空間を、静寂すら存在しない、完全な無に作り上げようとする。無の一色に染まるその空間に、ただ一人存在する流条翔。その空間には彼と彼が使っているノートパソコン以外に、時の経過を知らせる存在は無かった。もし仮にそれらの存在さえもこの異界から消え去れば、時が経つことさえ亡くなってしまうであろう。そう思わせる程に、その空間は異様な雰囲気を醸し出していた。

 彼はノートパソコンの画面を見つめて、黙々と奮闘している。キーをたたく音が間断なく続き、何もない空間を支配する。

 そして、その音が、止まった。どうやら彼は作業を終えたらしく、パソコンから手を離し、背中を後ろに反らせている。そして姿勢を戻し、時間を確認、それを終えると、小さな欠伸(あくび)をしながら、傍らに置いてあった二枚の紙を取る。リュウに渡す予定の資料だ。今回の患者である、少年の生い立ちと彼が使う能力についてまとめられている。

 カケルは異能者のことを『患者』と呼ぶ癖があった。これは彼らの症状が、とある原因不明の病によるものであるためなのだが、リュウは何故かその呼称を毛嫌いしていた。彼曰く、何か人為的な影響を受けなきゃ、あんな酷い事態にはならない、とのこと。

 カケルがその資料を確認していると――止まっていた空間が、時が、動いた。


 ギ、ガタン。あ。


 カケルが入り口の方に顔を振り向ける。そこには、床に倒れた入り口の扉と唖然とする一人の男性がいた。

 その扉が開いた途端、外部の音や光がそこから入り込んできた。外ではパトカーの警報がけたたましく鳴り響いていた。(うるさ)くも感じられる警報の音はどうやら近くで鳴っているようで、明瞭な高音が店内の無をかき消していく。

 一方、入り口に佇む男性は固まったまま動かない。開け放たれた入り口から射し込む逆光のせいで、男性の顔を確認することが出来ない。店内の壁には窓もあり、そこから光が入ってはいるのだが、どういうわけか光量が異常に少なく、常に店内は薄暗い陰鬱な空気に支配されている。そのため、入り口の扉が開いた時はそこから光が射し込み、店内全体が光明に満たされるのだ。

 岩のように固まっていた男性は漸く我に返り、壊れた扉をどうするか悩んだ末、とりあえず()めておこうと思ったのか、扉を持ち上げ、元々あった場所に戻し、こちらにやってきた。

「ギシギシ鳴ってたのは木の方じゃなくて蝶番(ちょうつがい)の方だったんだな。外れるとは思わなかったよ」

 苦笑しながらカケルの隣に座った男性は、果たして、リュウであった。彼はカケルに、お前が入ってきたときは扉は大丈夫だったのか。ああ、昨日からここに――ってことは徹夜か? 悪いことしたな、と話しかけたり、日めくりカレンダーを見て、あのじじい……ちゃんと毎日めくってんだな、と呟いたり、一帯を支配する無の雰囲気を打ち壊すような陽気な趣を周囲にばらまいていた。因みに、カレンダーをめくったのはカケルである。

 以前にリュウが言っていたことなのだが、彼はこの空間が、生物や音や光を拒絶し希望の存在さえも許容しないこの空間が苦手らしい。患者は感じないはずの感覚をリュウが感じている理由を、カケルは、彼の病状――人間の感情を失っていない事に原因があるのではと考えている。彼の空元気はきっと、それらを気にかけないようにするためだろう。

「ところで。例のやつ、調べといてくれたか」

 漸くリュウが仕事の話を持ち出し、それに応じてカケルが、徹夜で調べ上げた資料を渡す。カケルは資料を見せながら説明も加えた。

「彼の能力は神経鋭敏化、つまり、外部からの刺激に過剰反応する。それによって、目が見えなくても周囲の状況が手に取るように分かるんだ。物が動くと小さな空気の振動が起こるからね。そのくらい、その少年の神経は敏感なんだ。それはつまり、痛みにも敏感だという事になる」

 『痛みにも敏感』の所で、リュウの眉が僅かに反応した。気付かぬ振りをして、カケルは話を続ける。

「彼の耳や皮膚は、通常は感じ取れない心臓の音や痒みさえも苦痛の対象だったのかもしれない。痒みは痛覚によるものだからね。

 だとすれば、彼は常に殺人の衝動に悩まされていたことになる。自分の心臓の音は止められないから、常に苦痛を感じていたことになる。彼の憎悪は今までの患者とは比べ物にならないだろうね。

 ……それにしても、耳元で爆発させたのは申し訳なかったなあ」

 カケルは少年の能力の説明を終え、リュウの反応を確認する。彼は哀愁や憤怒が混ざり合った複雑な面持ちで資料を睨み付けていた。すると突然、何かに気付いたように、カケルの話に遅れて反応する。

「そう言えば。あの爆弾って何だったんだ。お前があんな武器持ってるなんて知らなかったぞ」

「ああ、あれはただ花火なんかに使う火薬を大きめの紙筒に入れた、特製の爆竹だよ。製造業者に、架空の会社を名乗って火薬を取り寄せて造ったんだ。本当なら、ピクリン酸やニトログリセリンやトリニトロトルエンなんかを手に入れられたら最高の爆薬を造る事が出来るんだけど、入手が困難だし保存が困難だし、第一そんな物を爆発させたら警察沙汰に――」

「あーわかったわかった。とにかく、あの爆弾がなかったら俺、死んでたからな。助かったよ。でも、あの威力を耳元で受けるのはさすがにきついな」

 カケルの話を遮るリュウ。カケルは自分の趣味を話しだすと止まらなくなり、その都度リュウが強引に遮って話を止めるというやりとりが毎回行われていた。

「……まあ、いいか。あとはその資料に書いてあるから見ておいてくれ」

 話を遮られた事に不満を感じながらも、特に気にしない様子でリュウに告げた。彼が軽く頷き資料に目を向けたとき、

「リュウ。来てたのか」

 奥から、隆々とした鎧のような筋肉を持ち、茫々と、それでも立派に思える髭を生やし、熊を想像させる巨躯の老人が現れた。外見からは老人とは思えないが、彼が老人であることを二人は知っていた。この店のマスターだ。リュウは彼のことを『じじい』と呼ぶが、カケル達にとって彼は命の恩人である。

「ああ、ついさっき来た。あ、そうだ。入り口の扉さー……壊れた」

「何! お前っ、だから裏口から入れって言っておるのに……」

「悪い悪い。次から気をつけるから、直しといて」

 悪びれる様子をまったく見せずに資料を見つめるリュウ。それを怒らないマスターは心が広いなあ、とカケルは思う。

「なあ、じいさん。殺す以外の方法って、無いのかなあ」

 ふとリュウが、物寂しい声で独り言を言うかのように、(おもむろ)に呟いた。恐らく彼は、人間らしい心を失った異能者を救うことは出来ないのか、と言いたいのだろう。話の内容が理解できなかった訳でもなく、ましてや、聞こえなかった訳でもないが、マスターは答えなかった。もしかすると、前線に――彼らを殺す立場にいない自分が断言する権利は無いとでも思っているのかもしれない。実のところ、マスターはリュウ達に仕事を与えるだけで、自分で仕事をこなすことは無い。だが、その代わりにリュウやカケルがいるのであって、そんなことは気にする必要が無いはずなのに――それでもマスターは申し訳なさそうな表情で、リュウを黙然と見つめるだけだった。

「無理だ。俺達の病気は原因が(いま)だ不明だ。世間に知られてはならない今の状況で被害を最小限に抑えるには、人間の心を失った異能者は、殺すしか、無い。彼らが死にたがる以上、殺す以外に彼らの暴走を止める事は出来ない。それしか救う方法は、無いんだよ」

 カケルは暫く二人を見据え、痺れを切らしたかのようにリュウに断言した。容赦の無いカケルの言葉は悲観的だが、間違いではなかった。

 特異性精神身体変性症。通称『死にたがり』。日本のみで症例が確認された、国家機密とされている奇病であり、彼らに根付く異能の根本的な原因だ。主に精神疾患を元に発病する傾向があり、国によって規定された三つの症状が顕れるのが特徴だ。

 まず最初に初期症状――目眩や頭痛、吐き気などの症状に見舞われ、やがて発病、その後、彼らに訪れる最初の症状として、感情の崩壊が起こる。人間を支える柱のような存在である喜怒哀楽やその他の感情が、発病と共に徐々に崩壊していくのである。この症状は進行が比較的遅く、崩壊に気付く事が非常に少ないため、知らない間に感情が崩壊している場合が多い。

 次に、身体に異常をきたし、突然変異が起こる。身体の一部が変化し、非現実的な能力を得るのである。これは症状が顕著であるため、発病の判断は主にこの症状の有無で行う。罹患者の中には、外見そのものが変化するために閉じ籠もってしまう者も多く、後述の症状に拍車を掛ける可能性もあると見られている。

 そして三つ目は、殺戮の欲求である。これが一番厄介な症状なのだが、どういうわけか罹患者は自分以外の誰かを執拗に殺したがる。感情崩壊の時に憎悪などの感情のみが残存し、殺戮の欲求を駆り立てているのではという推測もされているが、原因は未だ不明のままである。

 彼らの症状や進行速度は多種多様ではあるが、病状の形式を、補助型、生成型、抑制型の三つに分類することが出来る。

 補助型は、主に日常生活を行う上で障害となる身体部位を持つ者に多い、障害となる身体部位を補うように他の身体能力が上昇する場合を言う。昨日遭遇した少年などが、これに分類される。

 生成型は、本来の人体に存在しない未知の部位、或いは能力を持つ場合を言う。リュウはこれに分類される。

 抑制型は、感情の崩壊や殺戮の欲求を抑えるように身体が変異する場合を言う。そのため、この形式だけは他とは違って身体の突然変異しか症状が出ず、殺戮を行うことも少ない。主に脳に変化が生じることが多く、カケルはこれに分類される。因みに、カケルの能力は、脳の発達による知能上昇だ。

 この病気の原因は、まだ解明されていないが、罹患者の共通点から一つの仮説が立てられている。彼らは皆、発病前に肉体的な、或いは精神的な、何らかの障害を抱えていた。そして皆が発病の瞬間に、同じ言葉を頭に思い浮かべていた。

 彼らはその瞬間、

 ――死にたい

 と、思っていたのだ。

 この事実から立てた、或る医者の仮説はこうだった。

 彼らは自身の抱える障害を苦に感じ、『死にたい』と心に強く念じ、自殺を試みる。ところが、いざ死のうとすると、死への恐怖のためか生への未練のためか、自殺を拒絶する思念が無意識の内に浮かび、自殺を躊躇してしまう。だが、それは自殺への欲望が治まったわけではないので、心の中で強く葛藤する。死にたいけど、死にたくない。苦痛から開放されたいが、まだ生きたい。

 両者の思念は互いに強まり、やがて精神に影響を与える。それに耐え切れない身体は初期症状に見舞われ、身の危険を察知した脳はそれらの思念やその原因に過剰に反応、防衛する。『死にたい』という思念を別の方向に仕向け、そのように思ってしまう原因をも否応なしに排除してしまうのだ。つまり、脳は『死にたい』を『殺したい』に無理矢理変更、妨げとなる喜怒哀楽や良心、理性なども排除し、自殺概念を完全に消し去る。また、『死にたい』と思った原因である、自身の持つ障害を排除するために、新しい部位を形成、或いは正常な部位を強化し、障害が残っていても問題無く生活出来る状態にしてしまうのである。

 要するにこの特異性精神身体変性症は、精神的に虚弱な者が“死にたがる”時に(かか)る精神病である、と仮説は言っているのだ。この病気の通称である『死にたがり』とは、この仮説からきている。その結果、彼らは感情を失い、身体の異変に苦痛を感じ、ただ殺戮を繰り返す人形と化してしまう。そして、原因が不明であり治療法が確立されていない現在では、被害を最小限に抑えるために彼らを殺すしかないのだ。

「……だけど、殺さない方法が、まだあるかもしれない」

 カケルの容赦ない鋭鋒(えいほう)に、一瞬目を鋭く細めて彼を見るリュウ。だがすぐに表情を戻し、僅かな希望を暗澹たる声色で言葉にする。『助ける』ではなく『殺さない』と言い表す部分が、彼の心情の表れであるようにカケルは感じた。単に殺戮に対する嫌悪なのか、救済に対する諦念なのかはさすがに分からなかったが。

「それも難しい。リュウも見ただろう。別の方法で救おうとした時に、その患者がどうなったか」

 以前に何度か、殺さずに救う方法として挙げられた案を実行した事があった。治療法が確立するまで眠らせたり、幽閉したり……。患者には苦しい思いをさせるが、救うためには我慢してもらうしかなかった。そして――それらは全て失敗に終わり、患者はリュウ達が処分、患者を見張っていた監視官十数名が死亡という、最悪の形で計画は封印された。

 彼らには、麻酔剤や監獄などのまがい物は通用しなかった。麻酔剤を打てば、それを中和するように身体が急激に変化、それに伴う激痛によって患者は暴走、監視官が犠牲になった。地下二十階の監獄に閉じ込めると、鋼鉄で出来た壁をも壊す怪力を持つ化け物となり、やはり監視官が犠牲になった。

 彼らは外部からの急激かつ人為的な刺激を受けなければ変異は起こさないことは既に確認されているので――原因不明の病気であるため、確実とは言えないが――、彼らの対処法として現在挙げられているのは『殺害』のみなのである。

 その時に、暴走した罹患者を殺したのは他でもない、リュウなのだ。故に、殺すしか方法が無い事は、彼が一番分かっているはずなのだ。恐らく、彼は無意識の内に言葉にしてしまったのだろう。もし助けられるとしたら、という実現するはずの無い、願望を。それは自分の存在に対する罪悪感からきているのかもしれない。

 彼は十数人いた罹患者の内、唯一の例外であった。彼だけは何故か感情を失わず、殺戮行動に移る事も少なかった。原因は分かってないが、自分だけが例外となり、殺害対象に選ばれない事に罪悪感を感じているのかもしれない。

「辛いのか、リュウ」

 リュウは無言のまま俯き、苦痛に顔を歪ませているようだった。そんな彼を見ていられず、思わず問いかけてしまうカケル。その言葉に奮起したのか、リュウは立ち上がり、

「そんなことは、無い。心配無い。ちょっと、めんどくさく感じただけだ」

 そう、断言した。そして――彼は入り口に向かって、歩き出した。

「そろそろ行く。資料ありがとうな、カケル。じじい。扉直したら、金置いて待ってろよ」

 言い終わると同時に、彼は扉に手をかける。彼の言葉に、二人は返答しなかった。彼が扉を外すと光が射し込み、陰鬱な空気が消え去る。

 彼は扉を横に立てかけ、いつもと変わらぬ様子で出ていった。

 彼の背中は大きかったが、逆光のためか暗く見えた。


 いくつかの小説――主にライトノベル――の影響をかなり受けた作品ですが、いかがでしたか。感想や助言等を頂けると非常にありがたいです。

 実はこの作品、元々連載で投稿する予定だったのですが、諸々の事情からそれを断念し、短編で投稿する事にしました。もし連載版を見たい方がいらっしゃるなら、教えてください。執筆速度は変わりませんが、やる気は変わるかもしれません。因みに現在の予定では、連載の方は五年くらいかかるかなあ、と……。早く書く方法を、どなたか伝授してください。アイデアはこの作品にかかわらずたくさん出てくるのですが、文章力がてんでダメですね。何とかしたいです。

 誤字脱字があれば、すぐに教えてください。出来る限り早く直します。こんなヘタクソな作品を読んでくださり、ありがとうございました。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ