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「神」について 二回目



 今回は「神」についてのやり直し回となります。




 PL(product liability:製造物責任)法という法律があります。



平成六年法律第八十五号

製造物責任法

(目的)

第一条 この法律は、製造物の欠陥により人の生命、身体又は財産に係る被害が生じた場合における製造業者等の損害賠償の責任について定めることにより、被害者の保護を図り、もって国民生活の安定向上と国民経済の健全な発展に寄与することを目的とする。

(定義)

第二条 この法律において「製造物」とは、製造又は加工された動産をいう。

2 この法律において「欠陥」とは、当該製造物の特性、その通常予見される使用形態、その製造業者等が当該製造物を引き渡した時期その他の当該製造物に係る事情を考慮して、当該製造物が通常有すべき安全性を欠いていることをいう。

3 この法律において「製造業者等」とは、次のいずれかに該当する者をいう。

一 当該製造物を業として製造、加工又は輸入した者(以下単に「製造業者」という。)

二 自ら当該製造物の製造業者として当該製造物にその氏名、商号、商標その他の表示(以下「氏名等の表示」という。)をした者又は当該製造物にその製造業者と誤認させるような氏名等の表示をした者

三 前号に掲げる者のほか、当該製造物の製造、加工、輸入又は販売に係る形態その他の事情からみて、当該製造物にその実質的な製造業者と認めることができる氏名等の表示をした者

(製造物責任)

第三条 製造業者等は、その製造、加工、輸入又は前条第三項第二号若しくは第三号の氏名等の表示をした製造物であって、その引き渡したものの欠陥により他人の生命、身体又は財産を侵害したときは、これによって生じた損害を賠償する責めに任ずる。ただし、その損害が当該製造物についてのみ生じたときは、この限りでない。

(免責事由)

第四条 前条の場合において、製造業者等は、次の各号に掲げる事項を証明したときは、同条に規定する賠償の責めに任じない。

一 当該製造物をその製造業者等が引き渡した時における科学又は技術に関する知見によっては、当該製造物にその欠陥があることを認識することができなかったこと。

二 当該製造物が他の製造物の部品又は原材料として使用された場合において、その欠陥が専ら当該他の製造物の製造業者が行った設計に関する指示に従ったことにより生じ、かつ、その欠陥が生じたことにつき過失がないこと。

(期間の制限)

第五条 第三条に規定する損害賠償の請求権は、被害者又はその法定代理人が損害及び賠償義務者を知った時から三年間行わないときは、時効によって消滅する。その製造業者等が当該製造物を引き渡した時から十年を経過したときも、同様とする。

2 前項後段の期間は、身体に蓄積した場合に人の健康を害することとなる物質による損害又は一定の潜伏期間が経過した後に症状が現れる損害については、その損害が生じた時から起算する。

(民法の適用)

第六条 製造物の欠陥による製造業者等の損害賠償の責任については、この法律の規定によるほか、民法(明治二十九年法律第八十九号)の規定による。

附 則 抄

(施行期日等)

1 この法律は、公布の日から起算して一年を経過した日から施行し、この法律の施行後にその製造業者等が引き渡した製造物について適用する。


(e-GOV 電子政府総合窓口より抜粋)




 これは要するに何かを作り、そこに致命的な不具合があれば、それを売った人や作った人にも勿論相応の責任がありますよ。というごくごく真っ当な法律です。


 無論、人間が作った法律で神を裁ける筈もありませんけれど、もしも、本当に「人を創りし神」が居るのならば、やはり全世界における初期不良的な不具合は、その神こそが責任を負うべきである。という論理が成り立ちます。


 しかし神が本当に責任を果たしたというお話を私は寡聞にして聞いたことすらありません。


 そして神が責任をとらないことを非難出来るのは、あくまでも神を「信じる」立場の人間が言えることであると私は考えます。


 それは同時に、神に対して体よく自分の責任をなすりつけるという大変卑怯なやり口でもあり、これは残念ながら個人の自由を自らの手で狭める行為に繋がります。


 一方、神を「信じない」という態度の人間は、当然神の負うべき責任もゼロとなりますので、自身の分を越えた自己責任の範囲が恐ろしいまでに広がり続けるという態度でもあります。


 しかしその自己責任が自己によって果たされた場合、その結果、その個人の自由が自らの手でグングンと広がり続ける原因にもなり得ます。




 私たちは何か大きな出来事にぶつかり、自分には何も為すすべが無いと悟った時、神に縋ります。


 普段は神など全く信じていないような人でも、いざ大事が起こり、自力ではどうしようも無くなった時、見苦しいまでに神に縋る人は沢山います。


 また普段は神を信じている、いないに関わらず、何か大きなことが成った時、心からの感謝を神に捧ぐ謙虚な人々も大勢います。


 どちらにせよ私たちが神を信じるということは、一々神に振り回されているということです。




 自己(製造)責任が帰結する先には自由があります。


 しかし、神を信じるその先には果たして何があるのでしょうか。


 歴史上、戦争しか起こっていませんね。




 そして本題です。


 なろう作品及び創作物における「神」ですが、それはやはりその作品の作者に他なりません。


 ここまで私は「神」という概念の定義を(敢えて)避けながらここまで書いてきました。


 その訳は未だ未熟な私のような凡夫でさえも、物語を紡ぐことでなら比較的安易に神となれるからです。


 ……小説。未だ稚拙ではあっても自分の小さな説を自分の手で創作することとは、大変楽しく、面白く、厳しく、辛いことです。


 自分自身が神ともなれば、自己肯定、自画自賛のやりたい放題が出来るのです。


 しかし安易にそのような事をやり過ぎると、巨大なブーメランが自分の後頭部にぶっ刺さったり、他の神(読者)から総攻撃を受けたりもします。


 今現在私はこうした問題点をクリア出来ていない為に、拙作を一年程エタらせている困った神ということになっております。




 最後に蛇足ですが


 えーっと、ね。チャネリングとかスピリチュアル系のお仕事でいろいろと語られている、お金儲けが目的の神々については論外とさせて頂きます。


 ──おっと、だれか来(笑)


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