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杞憂の薔薇

作者: 想田 紡

白崎大地(しらさきだいち)が家に着いたのは午後8時を少し回ったところだった。都心から少し離れた所にある一軒家は今年で築30年を迎える。ドアを開け、リビングに向かう。祥子(しょうこ)が座って煙草を吸っていた。口紅はいつもより濃い。

「ただいま」

大地が声をかけるが祥子に反応はない。

「またあいつが来てたの?」

祥子が一度大地の目を見て、反らした。新しい煙草に手を伸ばす。

「あんたには関係ないでしょ」

長く吐いた煙が換気扇を作動させる。

「和香は?」

「知らないわよ、早く部屋に行ってちょうだい」

「あぁ、そうするよ」

大地は母を見ずにそう答えた。


[1]


「和香、入るよ」

大地はノックをせずにドアを開けた。白崎和香(しらさきわか)はベッドに腰掛けていた。

「乙女の部屋なんだから、ノックくらいしてよ」

そう言って和香は、はにかんだ。

「あぁ、悪かった」

「冗談。お帰りお兄ちゃん。今日は早かったんだね」

「ただいま」


大地は和香とは血は繋がっていない。大地の父、圭一(けいいち)は5年前に亡くなった。圭一の浮気相手、間宮有紀(まみやゆき)と共に火事に巻き込まれたのだった。和香はその間宮有紀の連れ子だ。圭一と有紀はかなり前から親密な関係にあり、身元がいなくなった和香は、5年前に家にやってきた。しかし、祥子は和香を全く受け入れようとしなかった。

「あいつは死んだ時、あの女といたのよ。地獄に落ちて当然よ」

祥子はそう言い放った。正直、大地も圭一にはほとほと呆れていた。死んで当然、そうも思う。ただ、和香の事が気がかりだった。血は繋がってないにしろ、自分の不甲斐ない父親のせいで、この子の人生をめちゃくちゃにするわけにはいかない、そう思った。和香に一緒に住もうと声をかけたのは大地だった。それから祥子の生活は一変した。

辞めていた煙草を再び吸い始め、酒に溺れ、男を連れ込むようになっていた。親っていうものが何なのか、大地にはわからなかった。


「今日は学校どうだった?」

大地は和香の横に座り込んだ。

「なにそれ、別に普通だよ」

そう言って和香は笑った。

「お父さんみたいなこと言うんだね」

「俺に父親はいないよ、なんなら母親も」

「お母さんなら1階にいるじゃない」

「あんなのは母親でもなんでもない、ただのクソ女だ」

「口、悪いよお兄ちゃん…」

眉間に皺が寄っているのが自分でも明確にわかった。

「和香、この家を出よう。俺と2人で暮らそう」

虚をつかれたように和香は目を丸くした。

「どうして?そんな事したら祥子さんがーーー」

「これ以上、あんな女の側に居たくない。夜な夜な聞こえるあいつの喘ぎ声を聞くと吐き気がする」

そして何より、そう大地は続けた。

「和香にこれ以上辛い思いをさせたくない」

「私は別にどうってことないよあの事件だって小学生の頃だしもう私だって高校生になるんだしーーー」

「じゃあ聞くけど、最後に母さんと話したのはいつだ?」

和香が口が止まった。言葉に詰まる。

「俺は和香に生きている実感をして欲しいんだ。これ以上この家で暮らすことは、死んだように生きてるのと同じなんだよ。俺達2人がいなくなろうが、あの人には何ら問題もないんだよ。むしろ喜ぶ。広い部屋で時間も気にせずもっと男を連れ込めるからな」

「お兄ちゃん…私はどうしたらいいの…」

「俺を捨てた親を、今度は俺が捨てるだけだ。最初からあんな人はいなかった事にしたらいい」

大地は和香の頭を撫でた。

「心配しなくていい。和香は俺が守ってやる。高校にも行かせてやる。俺が高校を出たら、一緒に暮らそう」

な?と目配せした。涙交じりの声で、和香はこくりと頷いた。そっと抱き寄せた。小さく震える和香を

守ると決めた。世界中の誰からも、何からも。


[2]


「本当に決めたんだな、大地」

隣に座り、奥村康介(おくむらこうすけ)が言った。

「あぁ、もう随分前から考えてた事でもあるからな」

大地と康介は幼馴染だった。

「そーか。それで、どこに住むんだ?」

「具体的にはまだ決めてない。和香も高校生になることだし、友達と離れるのが可哀想だと思うけど、遠くへ行かないと意味がないからな」

そうだなあ、と康介は空を見た。気分が乗らない時はこうして屋上でさぼるのが2人の日課だった。

「俺も寂しいわ、正直」

康介から思いがけない言葉が出た。

「なんだよ、気色悪いよ」

大地が肩をグーで叩いた。

「俺は昔っからお前のことを知ってるし、お前に起こった事も全部知ってる。だからこそ、だからこそだよ」

「相変わらず話が下手だな、そんなんで教師になれんのかよ」

「なっ、お前何でその事」

康介の頬が赤くなる。照れている証拠だ。

「全部知ってるのがお前だけと思うなよ」

そう言い大地はにかっと笑った。釣られて康介もはっはっはっと笑い声をあげた。

「お前なら大丈夫だよ大地。お前は人間で1番大事な強くて固い芯を持ってる。絶対折れねえ。大丈夫だ」

康介が大地の肩をさっきより強めに叩いた。

「暑苦しいな本当昔っから」

大地が目を反らす。

「大地」

康介はしっかりと大地の目を見た。

「あぁ、ありがとう」

昼休みの終わりを告げるチャイムが校内に鳴り響いた。

「午後、さぼるかあ」

賛成と、大地が言った。


[3]


「母さん、話がある」

その日、大地が家に着いたのは午後21時を少し過ぎた頃だった。

「何、私忙しいんだけど」

溜まった洗い物を一瞥し、どこが忙しいんだよと思った。

「高校を卒業したら、この家を出る。和香を連れて」

祥子の眉がぴくりと動いた。

「どうして?何が不満なの」

「あんたの全てが不愉快なんだよ、わからねえのか」

無意識に語尾が強くなる。

「何よ偉そうに」

祥子が目を反らす。そして、勝手になさいと続けた。

「お金も一切いらないから、あんたとはもう交わらない別の人生を歩むから」

「わかったわよ」

「俺はあんたやクソ親父とは違う、何の罪もない和香を守るために生きてやる」

「だからわかったって言ってるでしょ」

「あんたは今まで俺たちにしてきた事を懺悔しながらこれからも生きていけ。決して許される事のない、俺らに与えた苦痛を、噛み締めながら一生背負いながらこれからの人生をーーー」

「だからわかったって言ってるでしょうがっ!」

祥子が灰皿を手で払った。ガラス製の灰皿が床でパリンと割れる音がした。息が切れそうだ。

「あんたと親父の子供に生まれて、後悔しかねえわ」

そう言うと大地は乱暴にドアを閉めて、部屋を後にした。


「あぁ、今日は康介の家に泊まるよ。ーーーうん。そうだな、明日はそのまま学校に行くから、ーーーうん、お前も早く寝ろよ、じゃあ」

和香との電話を終え、大地は康介の家へ向かった。


「珍しいな、そんなにお前が爆発するなんて」

缶ビールを開けながら康介が言った。

「まあ、言いたい事言ってやったって感じ?てかお前酒辞めたんじゃなかったの?お前の好きな子、あー、なんつったっけ、まゆみちゃん?がいきって酒飲む人きらーいとか何とか言ってたからって」

そう言いながら大地も缶ビールを開けた。

「あーまゆみちゃんね。あの子彼氏ができたんだよ。だから俺も酒復活ってわけ」

「んなこと言ったって未成年だけどな俺たち」

「んなもん今更だよ」

「今更か」

大地が悲しげに笑った。

「あんだよ、どうした?」

「いや、お前から聞くと、違う意味に聞こえんだけど、嫌いな言葉なんだよ。今更って」

康介が大きくため息をつき、大地を叩いた。

「あんなぁ、男ならうじうじ過ぎたことに捉われてんなよ。決めたんなら最後までやり通せ。お前はそうするって俺に話してくれたばっかだろうが」

虚を突かれたように大地は笑った。

「おら、わかったら飲め」

「あぁ、悪い」

そう言うと大地は缶ビールを一気に飲み干した。

「やっぱり苦い」

「クソガキめ」

2人して笑ったその夜を大地は一生忘れないでいたいと思った。


[4]


「じゃあ、もう出るから」

卒業式当日を迎えていた。大地はいつもより早く支度を済まし、家を出ようとしていた。洗い場には洗い物がいつものように溜まっている。とても一晩で片付く量ではなかった。

「あんた、それで家はいつ出るんだい」

玄関で靴を履いている大地に祥子が言った。

「3日後だよ」

「そうかい」

「何だよ、早く出てって欲しい?」

カマをかけてみた。祥子の表情は塵一つも変わらない。

「あぁ、1日でも早くね」

ははっと大地は笑った。もちろん、面白くて笑ったのではない。呆れ笑いだった。

「安心しろよ。もうすぐあんたからも卒業すっから」

いつもより強くドアを閉めて家を出た。

「お兄ちゃんっ」

愛しい声に呼び止められた。2階の窓から和香が顔を出していた。

「おーどうした」

大地は辺りを見渡した。

「なんだ、忘れもんか?」

「ううん」

そう言って和香が窓の枠から消えた。首を傾げながらしばらく待つと、再び和香が現れた。

パァンと音が鳴り、和香がクラッカーを鳴らした。満面の笑みだ。

「卒業おめでとう、お兄ちゃん」

正直驚いた。まだ朝の8時だぞと思った。

「ありがとう、和香」

顔がにやけているのが自分でもわかった。和香はいってらっしゃいと続けた。軽く手を挙げて、大地は歩き出した。この子がいれば、何もいらないと思った。

一歩一歩踏みしめる足が未来へと向かっているような気がした。



「支度、できたか?」

大地はノックをせずに和香の部屋に入った。卒業式から3日が経っていた。遂に今日は出発の日だった。

「うん、私は大丈夫だよ。お兄ちゃんは?」

「ああ、俺も大丈夫だ。ーーーじゃあ、行くか」

こくりと和香が頷いた。1階に降り、リビングに居る祥子を見た。いつも通りのノースリーブを着て、タバコを吹かしている。

「じゃあ、俺たち行くから」

悩んだ末に声をかけた。返事がない事くらいはわかっている。

「祥子さん、さようなら」

和香も続いた。返事はなかった。大地は行くぞ、と言い振り返った。

「ごめんね…」

声がした。祥子の声だった。大地と和香が同時に振り返る。

「なんだよ、今更…遅いんだよ…」

下を向いて呟いた。そして、目線に何かが入った。テーブルの上のスマホが光っていた。大地が近づく。スマホには通話中、佐々裕司(ささゆうじ)と表示されていた。祥子の今の恋人だった。

大地はダァンと机を叩いた。祥子が大地を睨む。

「ごめんね…って、こいつに電話で話してただけかよ」

「ちょっと電話してるんだから、あっち行きなさいよ」

全身の力が抜けた。怒りを表す気にもならない。呆れて言葉も出なかった。

「あぁ、出てくよ。じゃあなクソ女」

行くぞと声をかけ、和香の手を引いた。自然と力が入る。

「お兄ちゃん、痛い。痛いっ…!」

和香が手を振りほどいた。

「えっ、あぁ、ごめん」

「お兄ちゃん…」

「ごめん、和香。本当にごめん…」

そう言いながら大地は涙を流した。この涙が何の涙なのかは自分でもわからなかった。ただ、涙だけが際限なく流れていた。


[5]


「大地ー、先方に電話入れたかー?」

森田茂樹(もりたしげき)が近づいてきた。タバコをくわえている。

「はい、予定通りで12時でいいとの事でした」

「よし、そいじゃぼちぼち向かうか」

はい、と言い大地はトラックの助手席に乗り込んだ。あれから2ヶ月が経っていた。大地は高校卒業と共に引越し会社に就職していた。森田は大地の直属の上司で、バディとして仕事をする事が多かった。大地の過去の事も知っており、とても信頼できる存在だった。

「どーよ、さすがに慣れてきたか」

森田が車を動かしながら話した。トラックからは今日もゴトゴトと音がする。

「えぇ、慣れました。最近じゃ、明日ここが筋肉痛だなって事とかもわかるようになりましたよ」

「はははっ、俺も若い頃はそうだったわ。紙にどこがどう痛いとか書いたりもしてたわ」

森田は50を過ぎているが見た目は若く、意外に几帳面だ。クスッと大地は笑った。

「何笑ってんだよ」

「いや、森田さん見かけによらずマメだなあって思って。ガタイはごついし、最初は怖いイメージだったのに。甘いものとか好きですもんね」

「別にいいじゃねーか、そうだよタルト大好きだよ」

「一気に親近感湧きましたもん俺」

右折待ちが長い。森田は相変わらずここは見にくいなぁと言いながら、曲がるタイミングを伺っている。

「俺も最初は驚いたよ。高卒でここにくるやつはそう珍しくもないが、和香ちゃんのことを聞いた時もそーだがな」

「いや、でも真剣に聞いてくれたんで、助かりました本当に。俺、森田さんと星野さんにしか話せてないですもん」

「まあ、星野も高卒でうちに来たからなあ。境遇は全く違うが、あいつも苦労してるのには違いねえよ。ーーーあ、お前今俺は苦労してなさそうとか思ったろ?ぶっとばすぞ」

「いや、何も思ってませんよ」

はははっと森田は笑った。相変わらず、どこかの仙人のような大きな笑い声だ。

「お、世間話はここまでみてぇだな、倉橋さん、あの家だな」

右手に赤い屋根の家が姿を現した。大きく綺麗なこの屋根が目印らしい。

「はい、間違いないです」

「うっし、今日も気合い入れてくぞ」

はい、と力強く答えた後、大地は軍手をはめた。


彼女の名は倉橋奈々(くらはしなな)と言った。長く茶色い髪は肩まで伸びていた。手入れが行き届いているのであろう、髪の毛にはツヤがあった。大きな瞳で大地を包み込むように見ていた。

「よろしくお願いします」

ぺこりと奈々が頭をさげた。

「本日担当します森田です」

森田がクイッと顎を大地の方へ向けた。

「同じく白崎です」

「それじゃあ、早速運んじゃいましょうか」

「はい、よろしくお願いします」

今日の仕事は人手が足りていたので、午前と午後で二つの班に分かれて行っていた。家から新居に荷物を運び、そして荷物を運び入れる、この仕事だった。大地たちは後者に当たる。

「しばらく1日仕事が続いてたから、まあ楽だな今日は」

森田がよっこらしょと言いながらダンボールを運び入れていく。大地も後ろに続いた。

「それにしても美人な奥さんだなあ、なあ大地」

大地は不意を突かれたような反応をした。

「えっ?あぁ、そうですね。綺麗な方です」

「なんだよ見とれてたのかお前」

「いや全然違いますよ、ちょっと考え事してただけです」

「ふうん、おかしなやつだな。っし、とっとと運んじまうか」

はい、と答え、作業を再開した。

2人とはいえ、仕事は多かった。あれからほとんど森田と会話をすることはなく、淡々と荷物を運び入れていった。そのせいか、予定より幾分か早く作業が終わった。

「お疲れ様でした。ありがとうございました」

奈々がコーヒーを淹れてくれた。豆から挽いているらしく、香ばしい香りが漂った。

「美味しいです。ご馳走さまです」

大地はぺこりと頭をさげた。

「お兄さん、お若いですよね?歳はおいくつですか?」

奈々が覗き込むように訊いてきた。

「18です。高校を出てすぐこの仕事をしています」

「やっぱり、若くてフレッシュな方だなあと思ってたの」

そう言い、奈々は手を合わせた。

「いや、あの倉橋さん。それ以上はちょっと」

嫌な予感がする。大地は森田の方を見た。案の定、こちらを睨んでいる。

「それじゃあ倉橋さん、我々はこれで失礼します。くれぐれもお疲れが出ませんように。ご利用ありがとうございました」

そう言い森田が立ち上がり会釈をした。大地も急いでコーヒーを飲み干し、森田の後に続いた。

「あの、本当に美味しかったです。コーヒー。

失礼します」

「よかったら、また飲みにいらしてください」

そう言い、奈々はにこっと笑った。

「機会があれば」

大地はドアを閉めて、森田の元へと駆け寄った。最後に見た奈々の笑顔が何故か頭から離れなかった。


[6]


「お兄ちゃん、ご飯できたよ」

和香が居間に大地を呼びにきた。

「あぁ、今行くよ」

食卓にはカレーとサラダが並べられていた。いい匂いが漂っている。

「料理、美味くなったよな。和香」

虚を突かれたように和香が目を見開く。

「急にどーしたの?そんなこと言われると調子狂っちゃう」

喜んでいるのが一目瞭然だ。

「今日ね、美幸ちゃんと2人でショッピングに行ったんだけどね、美幸ちゃん今の彼氏と初めてのお泊まりだからって張り切っちゃって。高い下着を買うって意気込んでたの。おかしいでしょっ?」

ふふふっと和香が笑った。

「それで、お前は何が欲しいんだ?」

「え?何もないよ」

「今日、何か欲しいものがあったんじゃないのか」

「ううん、私は今あるもので充分だよ。ありがとお兄ちゃん」

空の皿を持ち、おかわり入れてくるねと和香は席を立った。和香に我慢をさせてしまう自分が腹立たしかった。自分はどんな思いをしてもいいが、昔からそうだったが、親の愛情というものを受けて育っていないからだ。だから和香にだけは我慢をしてほしくなかった。


「お兄ちゃん、明日もお仕事頑張ってねっ」

そう言って笑うこの愛しい姿を守る為なら俺は何だってやれる。どんな狂ったことだって、できる。そう思った。


[7]


駒野美幸(こまのみゆき)はいつも通りの帰り道を歩いていた。白崎和香と話しこんでいたため、いつもより少しだけ時間が遅い。時刻は18時をまわっていた。

美幸が足を止めたのは、後ろから聞き覚えない声に呼び止められたからだった。

「驚かせてごめん、怪しいものじゃない」

その男性は真摯な目でこちらを見ており、作業着らしき服を身に纏っていた。言葉通り、怪しい人には見えなかった。

「どちらさまですか?」

「本人には内緒にしてて欲しいんだけど、白崎和香の兄の大地です。駒野美幸ちゃんで間違いないかな?」

美幸は驚いた。和香のお兄さんだったとは。

「はっ初めまして」

「ははっそんなに改まらなくていいよ、今ちょっと時間あるかな?っていっても俺もすぐ戻らなきゃ駄目なんだけど」

美幸は、はいと答えた。それから2人は近くの公園に移動し、ベンチに座ることにした。

「急にごめんね、驚いたでしょ」

「いやっ、大丈夫です。それで私に用って?」

「この前、和香と買い物に行ったって言ってたよね?和香から話を聞いてさ」

「はい、行きました。それがなにかーーー」

そう言うと美幸の顔がみるみるうちに赤くなっていった。

「あの…和香から、何か聞きました…?」

大地はあの下着の話を和香から聞いたかと尋ねられてるいるのだと気付いた。

「いや?買い物に行ったって事しか聞いてないけど?」

伏せておくことにした。

「あぁ、そうですか。よかった」

大地は首を傾げておいた。我ながら良い演技だ。

「それで、その時に和香が1番長く見てた物とかわからないかな?これ欲しいって言ってた物とか」

「わぁ、プレゼントですか?」

美幸はパチンと両手を顔の前で重ね合わせた。

「うん。あいつ、俺が聞いても言わないからさ」

「素敵です。和香は長い間この店を見ていて、このカバンが気に入ってたんみたいですよ」

有難い事に、そのカバンを凝視している和香の姿を美幸は写真に撮っていた。本人曰く、可愛かったかららしい。大地は激しく同意だと思った。

大地は写真に書かれた店の名前とカバンの特徴などをスマートフォンに打ち込み、メモとして保存した。

「ありがとう、ほんとに助かった。あ、さっきも言ったけど和香には内緒にしててね」

スマホで時間を確認してから大地は立ち上がった。今日はもう一仕事残っている。

「いえ、全然です」

「それじゃあ仕事に戻るよ、美幸ちゃんにもお礼はいずれさせてもらうね」

立ち去ろうとしたが、美幸の「あのっ」という声に呼び止められた。大地は目で尋ね返した。

「和香…本当にいい子なんです。私、和香のこと大好きです」

何故そんな事を言ったのかわからなかった。もう少し大地と一緒に居たかっただけかもしれない。

「知ってるよ、ありがとう」

大地はふはっと笑い、出口から駆け足で去っていった。美幸ちゃんにもお礼はさせてもらうね。そう言った大地の声が頭の中でこだました。いずれっていつだろう?そんな事を考えながら、しばらくそのままベンチに座っていた。すっかり日が暮れてしまっていたが、オレンジ色の空の余韻が、この目にはっきりと映った。


[8]


「お疲れーい!」

森田が大声を発した。大地と星野は続けて乾杯と呟いた。重ねたジョッキからカチンと音がした。

星野隼人(ほしのはやと)は大地のひとつ歳上だった。同じく、高卒でこの仕事をしており、歳も近いせいか、よく話が合う仲だった。

「てゆーか俺まだ未成年なんですけど」

「気にすんなよ大地、俺もまだ19だから」

星野を一度見た後、大地は笑ってビールをもう一口飲んだ。程よい苦味が、労働の後の至福の時だった。


「それでよう、こいつだけ褒められてんだよお若いですねって。ふざけんじゃねえって話だよ、なあ星野」

森田はこの間の倉橋奈々の話をしていた。

「まあまあ森田さん、致し方がないことですよ。それに彼女は歳下だから可愛いって思っただけであって、本当は森田さんみたいな渋い男性が好きに決まってますよ」

星野が森田を即した。よくこんなにスラスラと言葉が出てくるもんだと大地は思った。

「さすがわかってるなあ星野よ、大地はまだまだ若いだけで調子に乗りやがって、ったく」

「いや別に調子に乗ってるってわけじゃ」

飲み会では森田はすぐに頬を赤らめる。酔ってるわけではなさそうだが気持ちよくなるのが早いのだろう。

「んなこと言ったって大地。この前の倉橋奈々さん。美人だったろう、それでその後何かしらあったのか?押し倒したか?」

「そんなわけないでしょ、俺まだ18だって言ってるじゃないですか。あれ以来もちろん会ってもいませんよ」

「ほうほう、焦らして攻めるタイプかガキなのになかなかやるなお前」

「いや、だからそんなんじゃないですって」

実際、奈々の事が気になってないと言えば嘘になる。正直なところ、すぐにでも会いたいくらいだった。コーヒーを口実にして。

「まあでも大地は妹にぞっこんだもんな」

星野の声で正気に戻った。同時に和香の顔が浮かんだ。大地はかぶりを振った。

「それにしても大したもんだよな、2人で暮らそうなんて、なかなか言えることじゃないよ」

「いや、そうですかね。これ以上あの家に妹を居させたくなかったんで」

「暴力とかはなかったのか?」

枝豆を手に取りながら、森田が言った。

「はい、暴力はありませんでした。父母の間ではわかりませんが」

「妹に彼氏とかできたら、お前すっげえ怒るんだろうな」

「同感です。どうなんだよ大地」

2人とも笑いを堪えている。

「いや、そんなのわかりませんよ。毎日楽しく生きてくれたら、俺としてはそれでいいですから」

そう吐き捨てながら、全く逆の事を考えていた。和香に彼氏?考えてたくもない。和香を守るのは自分の役目のはずだ。途中で降りるつもりはない。

「まあとにかくお前も早く大人になるこったな。俺たちがついてるから、何かあったら言ってこいや」

森田が大地の頭を叩いた。ケラケラと笑っている。かなり酔いがまわってきたようで、その力はそこそこ強かった。

「でも本当だよ大地。森田さんはもちろん、俺だって力になってやるからな。1つしか歳は変わらないけど、何でも頼ってこい。な?」

「おふたりの気持ちはわかってますよ。本当に感謝してます」

大地は軽く頭をさげた。

「あーなんか涙が出そうになったわ今。よし大地、酔っ払いはほっといて飲むか」

大地は笑いながら頷いた。この職場に来て心からよかったと思った。


[9]


翌日、大地は例の買い物に来ていた。駒野美幸が教えてくれた店だ。中はちょっとしたショッピングモールになっており、その店を探すだけで骨が折れた。

お目当の店を見つけ、スマホのメモと照らし合せた。ばっちり合っている、ここで間違いなさそうだ。

黒く長い髪の店員がこちらを見て笑いかけた。どうぞご覧になって下さい。声はあまり聞こえなかったが、雰囲気でそう読み取った。意を決して大地は店に入っていった。さすがに店内は女性客ばかりで、少し緊張する。美幸からもらった写真を見ると、和香が足を止めて見ていたのは赤というよりは真紅に近い色のカバンだった。左側にディスプレイされている様々なカバンの中から、その色を見つけ出した。大きさが3通りほどあり、首を傾げた。だいたい、何故女性はあんなにもでかいカバンを持ち歩くのだろう。ふとそんな事を思った。男なら持ち歩くものなんて携帯と財布、それくらいだ。それに加え女性は化粧品などいろいろなものがあるとは思うが、どう考えてもスペースが余るだろうと思った。そうこう悩んでいるうちに先ほどの店員が忍び寄ってきた。

「プレゼントですか?」

少し小声で話しかけてきた彼女に接客の良さが見受けられた。男が1人で入りづらい店なので、あまり注目を浴びないように小声で話しかけてきたのだ。そういった配慮が感じられた。

「ええ、はい。妹がこれを欲しがってるらしくて」

大地は頭を掻いた。何だか照れくさかった。

「なかなか目の付けどころが良い妹さんですね。こちらはこの店で1番長く置いてある商品なんですよ。

ーーーあ、でも、もちろん売れてないとかそういう意味ではなくて、歴史ある商品ということです」

なんだかおかしくなった。別に何も反論はしてないのに、彼女は自分で自分を弁解している。その姿が可愛かった。ふと見ると胸にある名札には槙田と書いてあった。

「これにしようとは思うんですけど、大きさが。この中くらいのやつで大丈夫ですかね」

槙田はにこりと笑い、3つのカバンを手元に持った。

「妹さんは普段はお化粧は?」

「いや、あんまりわからないんですよ。ちょっとしてるのかもしれないし、もしかしたら何もしてないのかも」

「とてもお綺麗な方なんでしょうね」

そう言って槙田はもう一度微笑んだ。彼女の笑顔には人を惹きつける魅力があった。

「ではこのサイズでよろしいかと思います。収納性にも優れておりますし、持ちやすさや、大きさをとっても、ピッタリだと思いますよ」

槙田が手に取ったのは大地が中くらいの大きさと名付けていた形だった。

「やっぱり、じゃあこれにします。色々とありがとう」

「お買い上げで。ありがとうございますっ」

槙田はこちらへどうぞと言い、奥のレジへ案内した。


「妹さん、誕生日か何かなんですか?よろしければメッセージカードなどを無料でお付けできますが」

手際よく包装をしながら、槙田が訊いてきた。

「あ、いやそういうわけじゃないんですけど、今月はお金が少し浮いたので、単にプレゼントしようと」

「わあっ素敵ですね!私は一人っ子なのでそういうお兄ちゃんに憧れてたんです」

そう言いながら槙田はパチンッと両手を合わせた。

それから、喜んでくれるといいですね、と付け加えた。大地ははにかみながら頷いた。

会計を終え、槙田は店の出入り口まで商品を持ってくれた。店員からしたら当たり前の事のようだが、大地にはよくわからない。ただ、彼女が運んでくれるのが嬉しかった。

「ありがとうございました。またのお越しをお待ちしております」

商品を受け取り、大地は笑顔でありがとうと言った。

「また、お時間ございましたら妹さんの反応をお聞かせくださいね」

と、槙田は最後に耳打ちした。エスカレーターに乗る際に、一度だけ振り返った。槙田はまだ頭をさげたままだった。和香へのプレゼントを買い、一刻も早く渡したいところだったか、何故かエスカレーターが進むのが早く感じた。もう少しゆっくり動けよと思いながら、視界から槙田の姿は消えてしまった。


[10]


この日の仕事は遅くまでかかってしまった。いつもは遅くても20時には家に帰れるのだが、今日は書類の整理など仕事が山積みだったため、会社を出た時には21時をまわっていた。和香には連絡を入れたが、ここまで遅いのは何しろ初めてなので、少し心配しているかもしれない。少し、足早に帰路に着いた。会社の車を運転し家に向かった。免許は18になってすぐに取っていた。高3の時のことだった。

車を駐車場に駐め、階段を上がった。インターホンを鳴らすと、すぐにドアが開いた。愛しい和香がそこに立っていた。

「おかえりお兄ちゃん。今日は遅かったね」

この瞬間に、仕事の疲れが全て吹っ飛ぶ。良薬は口に苦しというが、苦くも何ともない。

「遅くまでご苦労様でした。先にシャワー浴びる?私はご飯もう食べちゃったから、あっためなおしておくから」

うんと答えるしかないような的確な指示だった。いつも思うが、こうしていると本当に夫婦みたいだ。自分以外の他の誰かが和香と暮らす事なんて考えもつかない。


シャワーを浴び終え、テーブルに座った。そこで、大地はある事を思い出した。カバンだ。カバンを渡す事を思い出したのだった。

夕食を温めなおしている和香の目を盗み、部屋に向かった。

「あれ、お兄ちゃんここにいたと思ってたのに」

居間に戻り、和香が言った。カバンは身体の後ろに隠してある。

「和香、プレゼントだ」

そう言って、包装してあるカバンを和香の元に差し出した。和香は目を丸くして驚いている。どうやら店の名前だけで何かわかったらしい。

「ええっ、何これ?私に?どうして?本当にいいの?ええっ?」

あたふたとする様子がたまらなく可愛い。少し照れながら、あぁ。と答えた。

「やっぱり、このカバンだ…どうしてお兄ちゃん知ってるの?私がこれ欲しかったなんて」

「バカヤロ、兄ちゃんをなめんなよ」

我ながら勝ち誇った顔をしてしまった。少し恥ずかしい。

「わあ、本当に可愛い…ありがとうお兄ちゃんっ大切にするね!」

和香はそう言い、バタバタと部屋に戻りスマホを取ってきた。写真写真とつぶやいている。

「美幸ちゃんに写真送る!」

はしゃぐ和香の姿と同時に、駒野美幸の事が頭に浮かんだ。そして、改めて感謝した。今の和香の笑顔があるのは彼女のおかげだ。

和香がスマホの画面を見つめたまま動きを止めた。いや、泣いていた。こみ上げるものがあったのだろう。

和香っと小さく声をかけた。

「いやっ、これはあのっわさびが辛くて目に染みて涙が…」

素直じゃない和香はいつも言い訳にこう言う。もちろん今日の食卓にわさびを使う料理はない。

大地はクスッと笑った。可愛すぎるだろ。

スマホが光った。大地のものだった。森田からメールが届いたようだった。

「すまん大地、明日6時に来れるか?」

といった内容だった。本来の出社時間は明日は8時と聞かされていた。色んな角度から写真を撮る和香の姿が目に入り、笑った。そして森田に返信を返した。

「了解。5:30には行きます」

和香の頭をポンと撫でた。そしてビールをひと口飲んだ。何時間でも働いてやる。そう思った。


[11]


その日、大地が家に着いたのは0時を回っていた。土曜日なので恒例の飲み会に行っていたのだ。飲み会といっても、星野と森田だけだが。大地は少し酔っていた。久々のアルコールということもあって酔いがまわるのが早かった。アパートに着き、鍵を開け階段を登る。このアパートには厳重に鍵がかかっていた。普通なら部屋にしか鍵は設置しないだろう。そんな珍しい厳重なセキュリティがあることにも惹かれたのは事実だ。家を開けることが多いと思ったため、ちょうど良かったのだ。

ふいに、今日の星野のセリフが蘇った。

「大地、何かいい女とかに出会ったりしねえのかよ」

その時大地は別に、とだけ答えた。だが、頭には2人の女性が浮かんだ。ショップ店員の槙田と、仕事で一度携わった、倉橋奈々の事だった。何故だが知らないが星野は知っていたのだろうか。それとも、自分の顔に出ていたのか。なんてことを考えているうちに、部屋の前に着いた。和香を起こさないように、静かに鍵をまわし、ドアを開けた。

その時、大地のスマホが着信を告げた。幸いマナーモードにしていたので、音は鳴らなかった。画面には板倉学(いたくらまなぶ)と表示されていた。板倉は祥子の旧姓で、学は祥子の兄だった。

「もしもし」

父が死んで以来、少し疎遠だったので声が緊張した。

「もしもし、大地くんかい?夜遅くにすまない」

いえ、と軽く答えた。

「どうしたんです?」

「落ち着いて聞いてほしい」

学はそう前置きした。おおかた、家を出て行ったことを問い質されるんだろうと睨んでいた。

「祥子が自宅で首を吊った。さっき発見されたんだ」

言葉を理解するのに少し時間がかかった。一瞬時間が止まったような気がした。


[12]


変に早く目が覚めた。それか、一睡もしていないかのどちらかだ、と大地は思った。キッチンに出ると、和香が起きていた。

「お兄ちゃん、おはよう昨日先に寝ちゃっててごめんね?」

「あぁ、大丈夫だよ。俺も遅くなったから」

そっかと、言い和香は朝食作りを再開した。

学とは昨日電話で、和香には明日話すから、それから明日そっちに行きますと伝えて電話を終えた。

朝食を食べ、和香に事情を話した。心が重かった。といっても和香と祥子は血が繋がっていないのだから、反応に困るだろうなと思った。ところが、和香は泣き出した。正直、大地は驚いた。声をあげて泣く和香の姿を見て、大地も目頭が熱くなった。そして、泣いた。声をあげて泣いた。あんなやつでも母親だった。この世で1人の母親だった。いつか幸せな家庭を築いて、自慢してやろうと思っていた。でもそれも叶わないとなった今、どうしていいかわからなくなった。


大地が和香を乗せた車を駐車し終えたのは14時を少し回ったところだった。久しぶりに見る、昔自分が住んでいた家だった。学がその音に気付き中から出て来た。どうやら学も先程着いたらしい。

「久しぶりだね、大地くん。大きくなったな」

学はTシャツにジーパンという出で立ちだった。子供の頃以来会ってなかったからなのか、心なしか少し痩せたように感じた。

「お久しぶりです、ーーー和香です」

大地は和香を一度見て、それから学に紹介した。

「あぁ、君が…」

学が和香を一瞥した。

「わざわざありがとう」

学は軽い言葉でそう告げた。和香が会釈する。

一度学の家にお邪魔することにした。色々話したい事があるらしい。

「和香、ごめんな」

和香は何が?と聞き返した。

大地は答えずに、和香の頭をポンと撫でた。


「家族葬にしようと思っているんだ」

学のアパートに着き、人数分の麦茶をテーブルに並べたところで学が切り出した。

「家族葬ですか。確か、家族だけで行う葬儀って事ですよね」

学があぁ、と答えた。

「死に方が死に方だけにね。それにあの事故以来、祥子を気にかけてる人はほぼいないも同然だったしね」

あの事故というのは大地の父、白崎圭一と浮気相手の間宮有紀が起こした火災事故の事だろう。

「わかりました。じゃあ今晩ですね」

「うん、それで申し訳ないんだけど…」

「わかってます、和香は家に帰らせます」

「あぁ。そうしてくれるかな、ーーーごめんね」

ごめんねは、和香に向けられた言葉だった。

和香は無理矢理納得したといった表情を浮かべた。

「それか、この家で待っててくれてもいいんだけど」

「どうする?和香」

和香が答えに迷っていると、大地が続けた。

「正直、僕もそうしてくれる方がありがたいです。明日も仕事があるので」

「わかった。じゃあそれでいいよお兄ちゃん」

「うん、じゃあそれでいこうか。ごめんね和香ちゃん」

いえ、と和香は答えた。


それから学は、大地と2人で話がしたいと切り出した。和香には席を外してもらうことにした。

「祥子は、最近連れ込んでた男と一緒に薬物に溺れていたみたいなんだ。名前は佐々裕司。1日に摂取する量の限界を超えたみたいだった。全てわからなくなり、混乱し、首を吊った。もちろん、警察も自殺と判断した」

「佐々裕司が薬物を使用していたのは薄々気づいていました。たまに母さんから匂いがしてたから。ーーー

まあ確かにこんな話、和香には聞かせらんないな」

学が一口麦茶を飲む。

「いや、この話がメインじゃないんだ。遅かれ早かれ、祥子がこんな形で命を絶つことは僕にもわかっていた。でもそれが、あいつが選んだ人生なら、僕には止める事が出来なかった。君たちが家を出て行く時のことだってそうだ。僕は君たちの親じゃないからね」

えぇ、と大地は頷いた。

「これを見て欲しい」

そう言うと学は、引き出しからあるものを取り出してきた。通帳だった。

「開いても?」

学は黙って頷いた。大地は目線を通帳に移した。シラサキショウコと書いてある。そして中を開くと数字が記されていた。大地が心の中で0の数を数える。300万だった。

「これは?」

「1番最後に、メモがあるだろう」

ページをめくると、最後のページにメモが挟んであった。そこにはこう書かれていた。

[大地 和香 生活費]

大地は目を疑った。目頭が熱くなった。

「あいつは全部お見通しだったんだ。薬でおかしくなる自分の姿を、大地くんたちにはっきりと見せたくなかった。だから君たちが出て行くように仕向けたのかもしれない」

頭の整理が追いつかない。何だよ、そんな人間じゃなくなったろあんたは。心の中で祥子に問い質した。

「最後の振込み日を見てみてくれ」

学が言った。目は合わさずに通帳に目を向けた。最後の振込み日は昨日の日付が記されていた。

心が熱くなった。

「あいつは身体がボロボロになっても、振込みだけは続けてたんだよ」

学の言葉は大地の耳には届かない。涙を流していた。

「和香ちゃんには言わなくていい。ただ、君に覚えていて欲しいんだ。君の涙で濡れたその紙切れに記されているお金は」

学が大地の肩を叩いた。

「祥子がいつまでも、君の母であり続ける公約だ」


[13]


家族葬を終え、大地は和香と共に帰路についた。

「僕は昔も変わらず大地くんの味方だからね、何かあっていつでも頼っておいで」

帰り際に学に言われた台詞だ。

色々と整理がつかない事が多いが、一度心の奥に全てをしまうことにした。と、同時に和香にだけは悲しい思いはさせたくない。そう強く思った。

「お兄ちゃん、星が綺麗だよ」

助手席の和香が窓を開けた。

「あぁ、そうだな」

「お兄ちゃん。辛いね。辛いよね」

和香にそう言われて自分の表情に気付いた。視界が滲む。ワイパーを出しているが、いっこうに晴れる気配はない。そうしてようやく、雨が降っていない事に気付いた。大地は路肩に車を停めた。そして、自分の目に触れた。涙だった。幼い頃の思い出がフラッシュバックしてきた。祥子と行った街のお祭り、運動会、動物園。大地は後悔した。あんたの子供に生まれて後悔しかないと言ったことを後悔した。祥子が注いでくれた愛をあんな形で自分から手放してしまった事。

涙に形を変えて、流れた。

和香が大地の手を握った。

「大丈夫。私がずっとそばにいるから。お兄ちゃんのそばにいるから」

本当だよ、と和香は続けた。

和香は星が綺麗だと言った。大地には綺麗かどうかもわからなかった。

さよなら、母さん。心でそう呟いた。


[14]


槙田斗真(まきたとうま)はその日、決意を固めていた。同じクラスの白崎和香に一緒に帰ろうと声をかける事を。入学して3ヶ月。いつも和香を目で追っていた。肩まである長く黒い髪。大きな瞳に白い肌。全てが斗真の五感を激しく刺激していた。幸いクラスは同じになれたのだが、おはようだとか、また明日とか、まるで業務連絡のような会話しか出来ていない事が現状だった。

ホームルームが終わると、和香は真っ先に駒野美幸の元へと駆け寄る。どうやら家が近所らしくいつも一緒に帰っている。タイミングを逃すと、すぐに駒野に和香をかっさらわれてしまう。普通に駒野も可愛いとは思うが、斗真にとっては無粋な邪魔者だった。

ホームルームが終わった。唯一のメリットは駒野よりも斗真の方が和香の席に近いと言う事だった。意を決して声をかける。シミュレーションは何度もした。大丈夫、台本通りだ。

「白崎っ」

思った以上に声が上づった。違和感を自分でも感じた。

「槙田くん、どうしたの?」

落ち着け。まだ取り返しはつく。台本通りだ、一緒に帰らないか?とフラットに聞くだけだ。

「いやっあのっ、あれだ。今日、早く終わったなホームルーム」

心で自分の頬をつねった。何言ってるんだ俺は。

「えぇー?そうかなあ、いつもと同じだったよっ」

いちいち語尾が跳ね上がるような喋り方がたまらなく可愛い。

「和香ー。ーーーん?あー、お取り込み中?」

駒野美幸が現れた。斗真にとっては野生のモンスターのように感じた。

「いやっ何でもねぇよ、じゃあまた明日な」

脳内の本部より撤退命令が出た。今日は分が悪いまた後日出直そうと思った。これで撤退は何度目だろうと考えた。

「槙田くん、よかったら一緒に帰らない?美幸ちゃん今日からバイトらしくて、帰り1人なんだ。槙田くんが嫌じゃなかったらだけど…」

9回2死満塁から逆転ホームランを打った気分だった。

「え、あぁ俺は全然構わないけど」

「よかったっ。じゃあ美幸ちゃんまた明日ね」

「うん。槙田、和香のことよろしく」

待って、何をよろしくされたんだ俺は?

「あぁ、バイト頑張って」


「えぇ、槙田くんのお姉さんショップ店員さんなの?」

一か八かで仕掛けた話題が思ってたよりも良い反応だった。やっぱり女の子はこういう会話が好きなのか。姉のアドバイスに心で感謝した。

「うん、大学を出てすぐにそこに就職したよ。まあ学生時代からバイトはしてたみたいだけどね」

「へーえ、私バイトした事ないからそういうの羨ましいなあ」

「まあまだ入学して3ヶ月だからなぁ、もう少し慣れてきたら始めてみたらいいんじゃない?」

「そーだね。槙田くんは何かしてるの?」

「入学する少し前から引っ越し屋のバイトたまにいってるよ、日払いだから休みの日とかにちょこっとね」

「引っ越し屋さん?私のお兄ちゃんもそこで働いてるよ!高校を出てすぐ就職したの!」

おいおい、この話題もヒットかよ。幸せすぎて死ぬんじゃないか俺。

「すごいなお兄ちゃん、高卒で就職なんて、今の時代なかなか厳しいと思うよ」

「うん、やっぱりそうだよね。大変だと思う。でも…」

斗真は目で尋ねた。

「いや、何でもないの。お兄ちゃんすっごく頑張ってるよ」

何かをはぐらかされたように斗真の目には映った。目は合っているのに、合っていない気がした。そして、踏み込むべきではないとも察した。

「そーいえば槙田くん家どっち?」

気づけば十字路まで来ていた。斗真はここで左に曲がるが、和香がまっすぐ進むことは知っている。

「家は左だけど、ちょっと今日は寄るところがあって、真っ直ぐいくよ」

我ながらベタな言い分だと思った。

「あ、じゃあ一緒だね。何だか、家まで送ってくれてるみたいで嬉しいなっ」

意識が飛びそうになったのを堪えた。可愛すぎるこの子、何これ。

「責任持ってお送りさせていただきます」

そう言い敬礼のポーズをとった。

「はははっ、よろしくお願いします」

和香も斗真の真似をした。

これって、良い感じじゃないのか?ふとそんな事を思った。得てして、告白ってこんな時にするもんじゃないのか?自問自答を繰り返した。

「あのっ、白崎」

んー?と歩きながら和香が言う。

その時、クラクションが後ろから聞こえた。徐行で車が近づいてくる。

「お兄ちゃんっ!」

あーなんだ白崎のお兄ちゃんか。え?お兄ちゃん?

「和香、もー学校終わりか?俺もちょうど今日は早く終わったんだ」

「そーなんだ、お疲れ様。お腹空いたよお兄ちゃん」

「まだ夕方だろ。まあいい、たまにはどっか食いいくか」

そう言うと和香は車に乗り込んだ。いやいや、俺との帰り道は?家まで送ってくださいっみたいなあの淡いやりとりは?え?無効?いやいや。

「じゃあね槙田くんまた明日ー!」

「あ、またあしたー」

何とも力ない声が出た。運転席の男は一度もこちらを見ずにアクセルを吹かして去っていった。

あれはお兄ちゃんって言うより、恋人同士みたいじゃねーかと思った。


「あれ、同じクラスの子か?」

「うん、槙田斗真くんっていうの。美幸ちゃん今日からバイトだから一緒に帰ろうってなって」

「だからって何で男なんだよ、他にも女の子の友達とかいるだろ」

「だってお兄ちゃんがなるべく1人で帰ってくるなって」

「だからって男と帰れとは言ってないだろ」

「はーい、わかりましたよーだ」

「何だよその返事、俺は和香の事を思ってーーー」

「もうわかったって!」

しばらく、沈黙が2人を包んだ。

「今日やっぱり家で食べよう、気分じゃなくなった」

「同感だよ」

激しくUターンをし、家に向かった。車から流れるラジオの音がなぜかいつもより大きく聞こえた。


[15]


「え?いやー、それはどうだろうね」

美幸が言った。

「だってわかんないんだもん」

「確かに、お兄さんからしたら、和香が1人で帰ってくるのも危ないと思って言ってるんだと思うけど」

「それなのにあんなに槙田くんに過剰に反応する?子供じゃないんだしさ」

「まぁ、大地さん優しい人だし心配してるだけだって」

「本当にそうなのかなあ。それよりお兄ちゃんの名前言ったことあったっけ?」

美幸はぎくりとしたが、表情には出さなかった。

「え、あぁ、前に和香が言ってたよ」

ふうんと和香はすましてみせた。

大地が美幸に接触したことは内緒にしててくれと言われたのをしっかり覚えていた。危ない、ボロが出るところだった。改めて美幸は、大地のことを素敵だなあと思った。

「きっと妬いてるんだよ、大地さん」

「ええっ、兄妹なのにそんなことある?」

「だって、血が繋がってる訳じゃないし」

「あ、そーだよね」

和香が俯く。

「いやっ違う、そういう意味じゃなくて…」

「いいよ美幸ちゃん、私だってわかってるから」

「本当に心配してるだけだって、そんなに考え込むことじゃないよ」

「うん…そーだよねっごめんね変な話して」

ううんと美幸はかぶりを振った。

「お兄ちゃん、仕事で疲れてるのかなあ」

本当に和香は大地の事が好きなんだという事がひしひしと伝わってくるような気がした。


[16]


「大地ー、今日バイトの子が来てるから午前お前が見てやってくれな」

軍手をはめながら森田が言った。

「バイトの子?珍しいですね、まあわかりました」

ロッカーに向かうと、明かりが点いていた。早速バイトの子とやらが来ているのかと思った。

ドアを開けると見た事ある姿が作業着に着替えているところだった。

「おはようございますっ!」

青年は深々と頭をさげた。声色からして歳が近そうだ。

「おはよう、今日担当することになった白崎大地です、よろしく」

青年はゆっくりと顔を上げながら、白崎大地…?と復唱した。

「あ!やっぱり!和香さんのお兄さんですよね?」

大地もその顔には見覚えがあった。

「確か、和香と同じクラスの…」

「そうです!槙田斗真です!よろしくお願いします!」

おお、元気だな。

「和香さんからお兄さんが引っ越し業者で働いてるって事はお聞きしてたんですが、まさかこことは」

「まあこの辺はそんなに引っ越し会社多くないからな」

よし、と大地は仕切り直した。

「雑談は後だ、とりあえず仕事しにいこうか。ーーー着替えおわった?」

はい!と大きな返事が返ってきた。本当に元気だなと思った。少し可愛く思えてきた。


「よし、じゃあ休憩入っていいぞ、槙田くん君も」

森田に声をかけられて、大地は手を止めた。

「はい、いってきます。森田さんいつものいります?」

「いや、今日はいいやもう少しかかりそうだしな」

了解です、と言い大地は斗真の元へ駆け寄った。

「槙田くん、休憩いくよ」

「あ、はい!」

「何か飯は持ってきてる?なかったらどっかに食べにいくけど」

「あ、何も持ってきてないです」

「おっけー、じゃあ外に食いにいこう」


吉野家に入り、牛丼特盛を2つ注文した。斗真は水を2つ入れてくれた。なかなか気がまわるなと思った。

「そんなに気使わなくていいのに」

水を一口飲み、大地が言った。

「いえ、これくらい当然ですよ」

そして、お待ちっと言いながら店員が牛丼を運んできた。まだ湯気がたっている。

「和香は学校でどんな感じ?」

「どんな感じ…?そうですね、本当に明るくていつもニコニコしてます。クラスの皆とも仲良くて、可愛くて、完璧ですよ本当に」

「すごいベタ褒めだな」

「いや、でも本当にそうなんですよ、欠点が見つからないと言いますか」

「ふうん、まあ妹を褒められて悪い気はしないね」

大地が紅生姜を牛丼に乗せる。少し多いくらいが美味いのだ。

「和香のこと、好きなの?」

ゴホッと斗真がえづいた。漫画のようなリアクションだ。

「何ですか、急に」

「いや、あんだけ褒められると誰だって思うよ。

なあ、どうなの?」

「いやっあのっえっと…好きとかそういうのではなくて」

「大好きだって?」

「いやそうじゃなくて」

「え、じゃあまさか嫌い?」

「違いますそれは断固違います」

こいつ、面白いな。大地はそう思った。

「冗談だよ、からかっただけ」

「はぁ、やめてくださいよもう」

「でも、和香を好きになるのは意味ないよ。あの子は恋人なんかつくらないから」

斗真の箸が止まった。わかりやすいやつだ。

「どうしてですか?」

「こっからは家族の問題だから、黙秘権だ」

「そうですか、でも俺簡単には諦めませんよ」

「まあその辺は勝手にしたらいいけど、オススメはしないね」

「わかりました…」

「さぁ、戻るよ。さっき連絡があって、午後からも俺が君を見ることになったから」

「はい、よろしくお願いします」

斗真はあからさまに元気をなくしていた。少し言い過ぎたか。いや、でも真実を言ったまでだ。

和香は誰にも渡さない。俺が幸せにする

この二言だけは揺らいだ事はない。

2人分のお会計を済ませ、店内を後にした。

「ごちそうさまです、すみませんご馳走になっちゃって」

「それくらい気にしないでいいよ、働きにきてるのにお金使ったらもったいないだろ」

すみません、と斗真はもう一度頭をさげた。

「さーあ、もうひと頑張りしにいくぞ」

はい!と返ってきた。少し元気が出てきたのか。

それともやせ我慢か、大地は考えるのをやめた。


[17]


斗真と和香は帰路についていた。前のような緊張はなく、自然と帰りに誘えるようになっていた。

「この間、お兄さんとバイト先で会ったんだ」

「ええっ、引っ越し屋のバイトで?」

そうそう、と大地は相槌を打った。

「色んな話してくれたよ」

「へーえ、やっぱり世間って狭いんだね」

「ははっ、そうかもね。ーーー良いお兄さんだね」

「うん、いつもお仕事頑張ってる。会社に泊まって帰ってこない時だってあるよ」

「マジか、すごいな、歳3つしか変わらないのになあ」

「ずっと大人に見えるでしょ」

「そう、もっと歳上に見える」

「昔からそうだよ、考えが私よりずっとずっと大人。

だから助けられてるんだよ、お兄ちゃんに」

和香の表情から哀愁が漂ってきた。

「それでさ、お兄さんと白崎の話になったんだけど」

「私の話?なになに気になる」

少し食い気味で聞いてきた、やっぱり女の子だな。

「お兄さん、和香は恋人をつくらないって、言ってたんだ。理由を聞くと家族の問題だからこれだって」

斗真は指でばってんをつくり口の前にあてがった。

「はあ、やっぱりそんな事か。お兄ちゃんそういうの多いんだよね。美幸ちゃんが言うには単にヤキモチだって言うんだけど」

「待って待って、じゃあお兄さんが勝手に言ってるだけ?」

「何を?」

「いや、だから恋人をつくらないって話」

「あぁ、そうそう。勝手に言ってるだけだよそんなの、私言った事ないもん」

斗真は心の中の居城が崩れ落ちたような安堵感があった。

「マジかあー。あー、よかった」

「何で槙田くんがそんなに安心してんのっ」

クスクスと和香は笑っている。天使だ。

「じゃあさ、好きな人とかいないの?」

「おー直球だねえ、そうだなあ。気になってる人はいるかな」

あ、これあれだ。振られるやつだ完全に振られるやつだ。

「そーなんだ、上手くいくといいね」

「ふふっ、何だか今日の槙田くん変だね」

「そんなことない、いつもと一緒だよっ」

こんなやりとりをしているだけで幸せだと思った。何も、自分から壊すことをする理由なんてない。

そうこうしてるうちに和香の家に着いた。今日はこれまでのようだ。

「いつもありがとう、送ってくれて」

「いや、だからいつも言ってるじゃん、こっちに用があるんだって」

「あははっ、毎日用があるんだね」

「うん、そーだよ」

あーだめだ。またこの良い感じ風が吹いてきた。誤解するからやめてくれ。

「じゃあまた明日学校で」

「うん。またねっ」

通り過ぎ、歩き出したが和香の声に呼び止められた。

「明日も、こっちに用事ありますか」

少し照れながら和香が聞いた。

「えっ、あっ、はい。あります」

和香は、にひっと笑って手を振った。

「また明日ねっ」

そう言うと足早に階段を上がって帰っていった。

整理がつかないが、さっきまで目の前にいた天使の頬が、少しだけ赤かった事だけを思い出せた。振り返り夕日のせいだろと、言い聞かせた。


[18]


大地が例のショッピングモールに着いたのは、午後2時を少し過ぎたところだった。別に買い物をしにきたわけじゃない。和香へのカバンを買った時の、槙田という店員に会いに来たのだった。確か彼女は、また妹さんの反応を聞かせてくださいと言っていた。別に、やましい理由じゃない、ただ、彼女がそう言ったから律儀に約束を守りにきただけだ、そう言い聞かせた。

エスカーレーターを上がり、あの店が見えてきた。

槙田の姿はまだ見えない。もしかしたら休みかもしれない。

とりあえず店内に入ってみることにした。たかだか2回目なのに、不思議と前のような緊張と葛藤はなかった。

不意に、棚の隙間から女性が出てきた。忘れるわけもない、槙田だった。

「あ、あの時の…!」

「どうも」

「わー!もう来てくれないかと思ってましたよおっ」

語尾が跳ねるような口調が和香と重なった。

「妹に無事に渡せたんで、お礼を言おうと思って」

「そんな、お礼だなんて。私は何もしてないですから」

「確かに、ただ接客してくれただけかもしれないけど、それでも嬉しかったんです。ありがとうございました」

精一杯、平静を保って微笑んでみた。引きつってないか不安だったが。

「あの、よかったら私今日そろそろ上がりなんで、一緒にコーヒーでも飲みませんか?」

思ってもない提案だった。

「あ、はい大丈夫ですよ。じゃあ先に下で待ってます」

槙田は、はいと答えレジの奥に消えていった。

彼女が残した甘い香りだけが大地を包み込むように宙を舞っていた。


「あ、じゃあ僕もそれで」

槙田が頼んだのと同じものを注文した。名前はわからない。確かなんとかフラペチーノか何かだ。何が入ってるかも不明だ。正直怖い。僕たちはいわゆるスタバとやらに来ていた。和香とも来たことがない、初めてのスタバだ。注文したものがトレイに載せられてきた。

「お名前どうします?」

え、いや何言ってんの店員さん。

「ローマ字でEmiでお願いします」

え、槙田さん?何、名前をどうするの?

店員さんが書き慣れた様子でEmiと書いた。少しだけ崩し字になっていてなんだかオシャレだった。

「お連れのお客様は」

「あ、いや僕は結構です」

咄嗟に断ってしまった。横で槙田がクスクスと笑っている。

「まぁ、男性の方はこんなの書かないですよね」

よかった、咄嗟の判断は賢明だったようだ。


「改めまして、槙田絵美(まきたえみ)です」

思った通りの、美しい名前だと思った。面と向かって座るとすごく照れる。

「白崎大地です。歳は18です」

「ええっ、そんなに若いのっ!?歳上か同い年くらいだと思ってたよ」

「たまーに言われますそういうこと」

「私は23歳、大地くんから見たらもうおばさんだね」

あははっと絵美は笑った。軽く下の名前で呼ばれたことに、心臓が大きく脈を打った。

「僕なんかで、いいですかね」

え?と絵美が尋ね返す。

「あぁ、変な意味じゃなくて、せっかくこんなに早く仕事が終わったのに、僕とコーヒーなんか飲んでていいのかなって思って」

「そんなっ、私実はね、もう一度お会いしたいなって思ってたんです。あんなに妹さんの事想って、素敵な方だなあって思って」

「そんな風に言ってもらえて恐縮です。僕も、槙田さんにお会いしたかったんです。何か、この前すごい元気もらえて」

自分でもきもいと思った。こんな事を言うつもりはなかった。

「仕事柄そう言ってもらえるのが1番嬉しいですっ」

絵美は頬を赤らめながら、やったと呟いた。

それからも他愛ない話に花が咲いた。絵美には弟がいるらしく、大学を出て絵美は一人暮らしを始めているらしい。

「じゃあ、妹さんと2人暮らしなの?」

絵美が尋ねてきた。和香の話をしていたところだった。

「そうです。もう半年くらい経ちますかね、和香には大学も行かせてやりたいんで」

「すごいなあ大地くん。その歳なのに立派すぎるよ、何だか自分が恥ずかしい」

「いや、そんなことないですよ。槙田さんだって大学も卒業して、きちんと社会人やってるじゃないですか」

「うーん、そうだけどやっぱり色んな境遇って人それぞれだもんね。でも私も思うんだ、神様は試練は乗り越えられる人にしか与えないってね、まあ誰かの受け売りなんだけどね」

「人生で試練なんて思ったことは一度もないですけど、家を出たあの時が仮にそうだとしたら、和香と2人で乗り越えれたんだと思います。今の幸せはその延長線上です」

「うんっ、きっとそうだよ」

絵美はにこっと笑った。それを見て大地も頬が緩んだ。

絵美とは連絡先を交換して別れた。今度はご飯でも行こうと言った彼女の顔が脳裏に焼き付いていた。

飲み慣れない甘いものを飲んだせいか、何だかお腹が空いてきた。近くのパン屋に寄ることにした。

ショッピングモールの出入口付近にある、小さなパン屋さんだった。持ち帰りはもちろん、中で食べることもできる。大地はいくつかパンをトレイに乗せて、レジへと向かった。

「いらっしゃいませ、店内でお召し上がりでしょうか」

持ち帰りで、と答えて顔を上げた。名札には倉橋と書いてあった。そして、目が合いドキリとした。

大地と森田が担当した、倉橋奈々の姿があった。向こうは大地に気付いていない。胸の鼓動が早くなった。

久々に見た奈々はやはり綺麗で、ひときわ目立つ何かを放っていた。だが、次の瞬間大地は正気に戻った。

奈々の腹部に、膨らみがあった。どうやら妊娠しているのだろう。確かに、こんなに綺麗な女性があんな大きな家に1人で住むわけがないと思っていたが、やはりその通りだった。森田や星野に触発されて、会いたい気持ちはあったが、この瞬間に全て吹っ切れた。

そして同時に、絵美に対する感情が何かもわかった。

「ありがとうございました、またお越しくださいませ」

大地は袋に入ったパンを受け取り、奈々に差し出した。

「よかったら召し上がってください」

えっ、と奈々は狼狽を隠せない。

「おめでとうございます」

大地はぺこりと頭をさげ、出口へと向かった。

「引っ越し屋さんっ!」

奈々の声で振り返った。

「ありがとうございますっ」

奈々も深く頭をさげた。大地はにこっと笑い、振り返り再び歩き出した。

なんだか、絵美に会いたくなった。


[19]


駒野美幸が帰路についていたのは、午後17時を少し過ぎた頃だった。委員会が長引き、いつもより遅い時間になってしまっていた。

前方から歩いてくる人影を見つけ、息が止まりそうになった。白崎大地だった。あれ以来もちろん会っていない。大地が近づいてくる。まもなくすれ違う距離まできた。

「大地さんっ」

意を決して美幸は声をかけた。大地は虚を突かれたように顔を上げた。そしてにっこりと笑った。

「美幸ちゃん、久しぶりだね」

優しい顔で笑う大地に、胸の拍動が高鳴った。

大地はすぐ仕事に戻らないと言うのだが、少しだけ休憩していたところらしい。

「はい、どうぞ」

ベンチに座り、大地がコーヒー和香に渡した。

「ありがとうございますっ」

「こんな事しかできなくてごめんね。この間協力してもらったのに」

「いやっそんな全然大丈夫ですあれくらい。ーーー

和香、喜んでましたか?」

「そりゃあもう、すぐに写真撮って美幸ちゃんに送るって騒いでたよ」

へへっと大地がはにかんだ。

「写真きましたよ、すっごく喜んでましたね」

「うん、プレゼントした甲斐があった」

少しの間沈黙があった。

「あの、大地さん。和香の事どう思ってるんですか?」

美幸は意を決して切り出してみた。以前、和香と話していた話題だ。

「質問の意味がよくわからないな、和香は妹だよ。それ以上でもそれ以下でもない」

大地は苦笑した。

「血が繋がってないわけだし、結婚だってできるんですよ?」

「だから、和香をそういう風に見たことはないよ」

「じゃあどうして…」

そう言って和香は口をつぐんだ。大地が目で尋ね返す。

「いえ、何でもないです。変なこと聞いてごめんなさい」

ううんと大地は首を振った。

「まあ、そう思われても仕方ないか。和香から色々相談を受けてるんだろうしね、でも和香にはそういう感情は抱いてない。僕が思ってるのは和香を死ぬまで守り抜くことだけだよ」

それじゃあと言って大地は立ち上がった。

「暗いから気をつけてね、仕事に戻るよ」

「はい、わざわざありがとうございました。コーヒーもごちそうさまです」

「ははっ、いいよそれくらい。それよりこれからも和香の話を色々聞いてやってほしい。多分美幸ちゃんだけなんだこんなにあいつが色々さらけだせるのは」

「はい、わかりました」

「それじゃあ、気をつけてね」

そういうと大地は小走りで公園を後にした。

和香になんて話そう、そんな事を考えると少し気が重かった。ただ、和香に特別な感情を抱いていないという事実が唯一の救いだった。すっかり日が暮れた公園に錆びたブランコの音だけがゆっくりと響いた。


「20」


「え?」

大地は驚いてビールを置いた。槙田絵美も驚いて口をぽかんと開けている。2人は約束通り食事に来ていた。といってもただの居酒屋だが。

「そうそう、斗真は私の弟ですよ。ええっ、すごいこんな偶然が重なるなんて」

「名字が一緒の事にも気づかなかった。斗真くん、すごいよく働いてくれてますよ。そのままウチに就職したらいいのに」

なんてね、冗談ですと続けた。

「でも実際斗真は大学に行く意欲はあんまりないみたいで、かといって働きたいとも言わないし、よくわかんないですよね」

「まあまだ高校1年生だし、そんなもんでしょう」

「あ、でもね、最近好きな子の話をよくしてくれるの。何でも同じクラスの子らしくて」

絵美がたまに敬語じゃなくなることがたまらなくら嬉しかった。心を開いてくれている証拠なのか。

そして、斗真の好きな子、そのワードで和香の事だとわかった。仕事中に交わした斗真との会話からの推測だ。だが十中八九そうだろう。

「それ、多分僕の妹です」

「ええっ、本当に?」

「まだ確証は得てませんが、多分そうです。この間一緒に帰ってるところを見て」

「ふうん、すごいね本当に。じゃあ、槙田兄弟と白崎兄弟は出逢う運命だったんだ。何だかロマンチックだね」

「運命…ふふっ確かにそうかもしれないですね」

「あ、今クサイとか思ったでしょ」

「思ってないですよ」

「嘘だあ、自分でもクサイこと言ったって思ったのに」

「じゃあ、ノーコメントです」

「あ、ずるい!」

そうして2人で笑いあった。

「じゃあさ、斗真と妹さんが付き合ったりするかもしれないって事だよね?」

「どうなんでしょう、こればっかりは和香の気持ち次第ですからね」

「和香ちゃんって言うんだ」

大地はこくんと頷いた。

「じゃあさ、私たちも付き合っちゃう?」

「え?あっ、ええっ?」

「もし和香ちゃんと斗真がうまくいったら4人で遊びに行けるでしょ」

「いや、そういう問題じゃなくて、槙田さん酔ってるんです?」

「はーあ、もうわかってくれないかなあ。告白してんのっ、大地くんの事が好きって言ってんのっ」

一瞬、時が止まったように思った。頭で理解するのに少し時間がかかった。

「え、いや、あの、俺なんかでいいんですか?」

「うん、大地くんがいい」

「実は、俺も初めて会った時からーーー」

「うん、知ってる」

ええっと大地は声を出した。そんなに顔に出てたのか。

「冗談だよ」

「初めて会った時、好きになってたんだと思います」

「うん、私もだよ」

こういう時、何て言っていいのかわからない。

「じゃあ、これからよろしくねっ」

「はいっ、よろしくお願いしますっ」

「後は、うちの弟の背中を押すだけだ」


心臓が高鳴る。恋人ができた。それも、一目惚れした女性だ。こんな幸せがあっていいんだろうかと思った。帰り道、絵美からのLINEを見直す。

「日曜日、楽しみにしてるね!どこいくか考えといてよ〜〜」

まだ火曜日、今週は長く感じるなとそう思った。


「うん。ーうん。ーそう、お姉ちゃんはうまくいったよ。ー次はあんたの番だよ。ー頑張んな」

絵美は電話を切った。相手は斗真だった。


[21]


こっちに用がある。今日もそう言って和香を家まで送っている最中だった。昨日の今日では早いかもしれないが、タイミングを見て、今だという時があれば、言うつもりだった。

「そしたらね、美幸ちゃんがその時後ろにいてね、うわって驚かしてきたの、ひどいでしょ」

和香の話はあまり頭に入ってこない。今日と決めたわけじゃないのに、何故かいつもより緊張していた。

「もぉ、聞いてる?」

「あ、あぁ!聞いてる、聞いてるよ!それで、エリマキトカゲが何だって?」

「そんな話、してない」

和香は頰をぷっくり膨らませ、不満そうな顔をした。

可愛すぎる。この子は俺の心臓を破裂させるつもりなのか。

「そう言えば、お兄ちゃんから何か聞いてない?」

「何かって?別に聞いてないけど」

と、いうことは大地さんはまだ白崎に言ってないのか。

「なになに?気になる」

「いや、大したことじゃないんだけど、この前バイトでちょっとだけ失敗しちゃって、その事何か言ってないかなあと思って」

「なあんだ、そんなことか。お兄ちゃんはそんなことグチグチ言う人じゃないよ」

「そっか…そうだよね、ごめん変なこと聞いて」

嘘だった。我ながらうまく誤魔化せたと思う。

そうこうしているうちに、和香の家の前まで来た。

「いつもありがとう、じゃあまた明日ね」

言うんなら今じゃないのか?自分の中で葛藤した。こんな事を続けていても、今以上の関係には発展しないだろ。自分から足を踏み入れるしかない、そう思った。

「白崎、俺好きな子がいるんだ」

和香はきょとんとしている。斗真は続けた。

「その子はお兄さんと2人暮らしで、お弁当をつくったり、家事をしたり、とても大変だと思うんだ。

でもそんなことを感じさせないくらいに明るくて、可愛くて、俺はいつも元気をもらってる。だから俺はその子を守りたい。助けてあげたい。そう思ってる」

恐る恐る和香の方を見る。すぐに目があった。和香はずっと斗真の方を見ていた。

「うん」

そう静かに頷いた。

「だから、だから…」

「もう少し、頑張って」

笑いながら和香が後押しする。

「白崎が好きだ。俺と付き合って欲しい」

和香がその場にしゃがみ込んだ。そして両手で顔を隠した。

「はー、やばい。緊張して顔見れないよお」

この反応は、もしかしてと思った。自分が科学者で何年もかけて開発してきた物質が思い通りの反応を見せた時のような感覚はこんなものだろうと思った。

思考が脱線しかけた、元に戻す。

「私も、すき、です」

「本当に?うわー、やばいっ」

幸せの絶頂とはこのことだと思った。

「でも。ごめんなさい」

聞きたくない6文字だった。

「槙田くんと付き合うことはできない。お兄ちゃんが1人になっちゃうから、ごめん。だからこれからも友達としてーーー」

「うん、やっぱりそうだよね、うん、ごめんね急にこんな事言い出して」

さっきの長台詞を思い出して、恥ずかしくて死にたくなった。

「じゃあ俺帰るね」

「うん、また明日ね」

振り返って歩き出した。もうこっち方面に用をつくる必要はなくなったんだと思うと、涙が溢れてきた。


[22]


部屋の明かりが点いているのが外からでもわかった。和香はドアを開け、家に入った。奥からおかえり、と声がする。大地の声だった。

「早かったんだね、お兄ちゃん」

「おーう、今日は早出だったからな。早く終わった」

それより、と大地は続けた。

「今日も斗真くんと一緒だったのか?」

「なんで名前…私言ったっけ?」

「いや、ちょっと色々あってな」

「そう。うん、帰ってきたよ」

「何か、言われなかったか?」

「なに、お兄ちゃん見てたの?」

「ってことは何かあったんだな」

和香はカバンを下ろし、座り込んだ。

「告白されたの。それで私が断ったの。それだけ、お兄ちゃんには関係ないでしょ」

「どうして断ったんだよ」

「そんなこと、お兄ちゃんには関係ない」

「いや、関係ある。俺のせいだと思ってるからな」

大地が続けた。

「どうせお前の事だから、俺が1人になるからとか言って断ったんだろ?それと、前の事もあるから」

前の事とは、車の中で言い合いをした時の事だった。

「自分の気持ちに正直になって欲しい。俺が和香を縛ってたのであれば、それは俺のせいだ。もう、気にしなくていい」

「何で急に…そんなことっ」

「俺にも、恋人ができたんだ」

「え?いつの間に?」

「だから自分に嘘をつくな、和香。俺のことはもういい、逆に今まで悪かった」

大地が頭をさげた。

「そんなっお兄ちゃんが謝ることじゃなくて、私がただ自分でっ、今までお兄ちゃんが私を助けてくれたから、そのお返しがしたくてっ、ずっと」

「もう充分だよ和香。俺はお前が笑っててくれたらそれでいい」

大地が和香の頭を撫でる。

「まだ間に合うだろ。自転車で斗真くん追いかけてこいっ」

うんっと和香は答え家を飛び出した。大地はその姿を後ろから眺めていた。何故か涙が溢れた。


槙田斗真は肩を落としながら歩いていた。明日から和香にどう接したらいいのか、接しない方がいいのか。いや、でも振られたからといって全く拒絶するのも男として情けないし、そんなことを永遠ループで考えていた。

「斗真くんっ」

その声が聞こえたのはそんな時だった。聞き慣れた声だったが、聞き慣れない呼び方だった。振り返ると、和香が自転車で近づいてきた。

「やっと、追いついた」

「白崎っ、どうしたんだよそんなに急いで」

「私ね、斗真くんに伝えたいことがあるの、あのっ、さっきのこと、なんだけどっーーー」

和香の息が切れる。はあはあと息を吐く。

「ゆっくりでいい、ちゃんと聞くから」

和香が呼吸を整え、口を開いた。

「私も、斗真くんのことがすきっ!こんな私でよかったら、よろしくお願いしますっ」

斗真は狼狽を隠せなかった。

「本当に?冗談とかじゃなく?」

和香は無言で頷いた。

「え、でもお兄さんが、あれで、そのあれなんじゃなかったの?だから俺さっき、あの」

「もういいの、大丈夫だから」

「そう。え。本当に俺でいいの?」

「私のセリフだよ」

「ははっ、付き合った瞬間ってみんなこんな感じなのかな」

「どうだろ、わかんない。斗真くんが初めてだから」

どきりとした。やばい。

「俺も、和香ちゃんが初めてだ」

「うそぉ!じゃあ改めて、これからよろしくお願いします」

そう言うと和香は敬礼のポーズをとった。

「こちらこそであります」

その姿を見て2人して笑った。このまま時が止まればいいと思った。


[23]


「斗真ー、先方に電話入れたかー」

森田の声が社内に響く。

「はい!予定通りで大丈夫です!俺も大地さんも準備できてます」

槙田斗真が威勢良く答えた。

「っし、なら5分後出発」

了解と答え、大地の元へ向かった。

「大地さん、植野さんのところ5分後出発です。俺と森田さんチームで」

「おっけー、すぐいく。車まわしといてくれるか」

「わかりました」

あれから5年が経っていた。斗真は高校を出てそのまま大地と同じ引っ越し会社に就職した。和香は大地の願い通り大学へ進学した。


「和香とはどうなんだよ斗真」

「大地さん、何ですかいきなり」

「こいつみたいなチャラチャラしたやつ、手出しまくってんだろ、なぁ斗真」

「ちょっと森田さん、人聞き悪い」

「それより大地、お前の方が聞きたい事いっぱいあるぜ」

「何ですか」

「聞きたい事っていうか、遂に来週だな」

運転席の森田を見た。鼻がヒクヒクと動いている。嬉しい時の癖だ。

「えぇ。何だかあっという間でした」

「幸せにしろよ、そして幸せんなれよ大地」

「森田さん…ありがとうございます」

「あのー、2人とも俺いるの忘れてません?しかも相手俺の姉ちゃんだし」

「っせー、野暮な事で口出しすんな若造が」

森田が前を見ながら言った。

「森田さん、すみません」

斗真は気付いていた。森田が涙を堪えていることに。


[24]


遂に、白崎大地と槙田絵美の結婚式当日を迎えた。そんなに大きくない教会だったが、たくさんの人が駆けつけてくれた。

「うわー、似合わねえなお前」

そう言いながら部屋に入って来たのは奥村康介だった。

「康介、うるせぇよ」

そう言いながら2人はグータッチをした。

「遂に大地が結婚か。早いもんだよ」

康介は缶ビールを開けた。

「何でここでビール飲むんだよ」

「それにしても、やっぱり似合わない」

ぷっと康介が吹き出した。

「相変わらずだなお前は本当」

そこには2人だけの時間が流れていた。屋上で康介に打ち明けたことが昨日のことのように感じられた。

「幸せになってくれよ、大地。俺は、お前と和香ちゃんだけはこの世で1番幸せになって欲しいと思ってる」

「おいおい、急に真面目な話かよ。調子狂うな」

「ビール飲むといつもだよな。まあ本音が溢れるって事だよ」

じゃあ後でな、と言い康介は部屋を後にしようとした。

「ありがとう康介」

「何だよ改まって、親友の結婚式くらい来るっつーの」

「いや、そうじゃなくて。今日までのこと。お前がいてよかった」

康介の動きが一瞬止まる。そして、笑う。

「やっぱり…お前その格好似合わねえな」

そう言い残しドアを閉めた。涙を見られたくなかった。バーカ、と大地は静かに呟いた。


やっぱり絵美は綺麗だ。大地はそう思った。ウェディングドレス姿の絵美を見て、再確認した。

この人と結婚するんだ、一緒になるんだ。そんなことを思った。

「すごく似合ってる、絵美」

「ありがとう、何だか照れるな」

「俺はさっき親友に、似合わねえって言われたところ」

「そんなことない、大地もすごく似合ってる」

そして耳元で囁いた。

「かっこいいよ」

絵美がにひっと笑った。

僕は今でも、毎日絵美に恋をしている。


[終]


式が始まった。参列者を一瞥すると、様々な人の姿があった。奥村康介、森田茂樹、星野隼人ら見知った顔も。そして、板倉学の姿もあった。軽く目が合い、大地は会釈した。学は微笑みながら軽く手を挙げてそれに答えた。学は、祥子の遺影を抱えていた。大地は胸が熱くなった。

もちろん、槙田斗真の姿もあった。そして、隣には和香がいた。和香の姿を見つけて目頭が熱くなった。

今まで、和香を守るためだけに生きてきた。和香を養う為だけに働いてきた。でも明日から違う。今隣にいる絵美を一生守る為に生きていくのだ。そんなことを考えると、何故か気持ちが楽になった。肩の荷が降りたようなそんな気がした。


「はい、誓います」

神父の問いに答えた。続けて絵美もそう答えた。

そして、僕たちは口づけを交わした。

プログラムは進み、和香からの手紙が読み上げられることになった。和香が前に出て来て、マイクの前に立つ。しばらく見ない間に随分と綺麗になった。

「ただいまご紹介に預かりました、白崎和香です。新郎大地の妹にあたります。まずはお兄ちゃん、結婚本当におめでとう。 仕事着よりもかっこいいです」

会場に暖かい笑いが溢れた。

「突然ですが、私に父と母はいません」

今度は一変、会場の空気が変わる。

「私と、大地お兄ちゃんとは本当の兄弟ではありません。

色々…本当に色々あって行き場をなくした私を受け入れてくれたのが、大地お兄ちゃんでした。お兄ちゃんは私を進学させる為に、夢を諦めました。そして高校を出てすぐに働き始めました」

大地はどきりとした。大地の夢は小学校の教員だった。しかし、この事は康介にも、誰にも言っていない。和香はそれに気付いていたのだ。

「私はお兄ちゃんのおかげで、大学にも進学でき、何不自由ない生活を送ってこれました。だから、だからーーー」

和香の声が濁る。

「お兄ちゃんは、私の幸せばかりを願う人です。自分の事より私の事をいつも優先してくれる人です。

自分は1番低い位置にあるものしか求めない人です。

私はこんなお兄ちゃんを誇りに思います」

和香の目から、涙が溢れ出した。すみませんと言い、続けた。

「お兄ちゃんっ…ほん…とに…結婚おめで…とう…ございます…。世界で1番幸せになってね」

我慢の限界だった。大地の目から大粒の涙が溢れた。

会場は大きな拍手と、感極まった涙で包まれた。横に座っている絵美が、大地の涙を拭った。

「ちがうっこれは」

大地が自分の手で涙を拭う。

「わさびが辛かったんだ」

クスッと、絵美が笑った。





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