小太郎・・・3
その日は、二階から下りてきた私に対して珍しく、走ってお出迎えをしてくれた。
「小太郎。お母さんは?」
私の顔を見るなり、「あっち」という顔をして、玄関の方へ、爪を鳴らして駆けて行った。そういえば、今日は父母共に病院へ出かけると言っていたのを思い出した。そして小太郎は、一日中シュン太郎で、玄関と私の往復を繰り返しながら、クーと可哀想な声を出していた。一緒にいるのが当たり前の母がいないのが、さみしいらしい。
「おねーちゃん、お母さんが僕を放っておいて、どこかへいっちゃったよ」
耳をそばだて、外で自転車の音がするたびに、外の様子を確かめに行き、また私の元へ戻ってくる。シッポは元気なく垂れ下がっていて、ぶらぶらしている。
「僕知ってんねん。お母さん、ドライブしてんねん」
「なんで帰ってこーへんのさ」
「おねーちゃん、行こうやぁ」
小太郎の表情はどんどん切羽詰ってくる。くりくりの目玉は、いつもよりも情けなく、ピカピカ光っている。私は、時計を見て小太郎に言う。そろそろバイトの時間だった。
「ごめんな、おねーちゃん、バイトやねん。おにーちゃん、家におるからな」
私が立ち上がると、今度は期待に満ちた目がきらきら光った。小太郎は「キャンキャン」と言いながら、前足で私をピョンピョン押し始めた。「もちろん連れてってくれるよね!」懇願にも聞こえるその声を聞きながら、私はいつものように出て行こうとしていた。
弟も起きてきていたし、大丈夫だろうと思っていたのが甘かった。小太郎は扉を開けるなり外へ飛び出したのだ。とても上手に、私に気付かれず、私の足の間をすり抜けて飛び出した。考えてみれば、いつもよりさみしい声を出していて、その前兆は確かにあった。それに気付かなかったのがいけなかったのだ。
「小太郎ーっ」
正月早々、私の声が近所に響いた。本当を言うと、車の少ない正月でよかったと思う。小太郎はまわりのことなど全く気にせずに、走っている。もともとあまり車の通らない小さな交差点を、小太郎が横切るたびに私の肝が冷えたのは、彼の知らない事実だ。
しかし、全く大した奴だ。小太郎は家から結構離れているガレージに、まっすぐ向かって行くのだ。しかし、怖がりな性質はそのままだから、私の姿が見えなくなると、そこに立ち止って、私が来るのを待っている。そこが憎めないところと言えば、そうなのだが、その時の私にはそんな馬鹿犬に遊ばれているような、茶化されているような感じがして、自分が情けなくしか思えなくなっていた。
私は息を切らせながら、「待てやで」と言って彼に近づいて行く。しかし、もう一歩というところで、「おぉ、来たな」と彼はまた走り出すのだ。「もう、いいかげんにしてやぁ」バイトの時間は気になるし、息はあがるしで、最後には、もう走る気力も体力も私には残っていなかった。そして、もう、小太郎が走り出すことはないだろうということもあり、私はゆっくりとガレージの前まで歩いて行った。小太郎はガレージの前で、ちゃんとお座りをして、「遅かったなー」とでも言いたげに私を出迎えた。
しかし、もちろん母がそんな中にいるはずがない。
「へー、大変やったんやなぁ」
帰ってきた父母にそのことを話すとかなり他人事だった。そして、小太郎に話しかけるのだ。
「そんなことしたんか?」
「小太郎はさみしかったんやなぁ。今度は一緒に行こうな」
小太郎の話持ち切りで、食卓に花が咲く。張本人の小太郎はというと、何の反省の色もなく、疲れた顔でぐっすり眠っている。疲れたのは私の方、そう言いたいところだが、そんな彼を責めるというよりも、なぜか、微笑ましい気持ちにさえなってしまう。そんな私も彼に騙されている一人なのだ。
「ほんまに大変やってんからな」
一応念を押して言っておく。