その80「夏夜姉がボールをくれた」
夕方。夏夜姉が来るとのことで、俺は夏夜姉のぶんも含めて、準備をしていた。
「あ、今日はカレーだぁ」
匂いにつられたのだろう、深月姉がキッチンまでやってきた。
「ちゃんと中辛にしてくれてる?」
「うん。汐里の分は別で作ってあるから」
「夏夜ちゃん、また人恋しくなる時期が来ちゃったのかなぁ?」
「いや、たぶん今回は暇だったからなだけだと思うよ」
夏夜姉は普段はクールで物静かだが、定期的に気分を落として人恋しくなってしまう時期が来る。昔からずっとそうだったので、ある頃から俺はその周期をだいたいはつかめるようになっていた。
インターホンが鳴る。それを聞いて、汐里もとたとたと玄関までやってきた。
夏夜姉はネイビーのダッフルコートを纏っていて、手さげの小さなバッグと、大きな紙袋を持っていた。
「いらっしゃい、夏夜姉」
「久しぶりね、夕一、汐里ちゃん」
「ええっ、夏夜ちゃん、私は!?」
俺の隣にいた深月姉が叫ぶ。
「ああ、姉さん。いたの?」
「そりゃいるよう!ディスイズマイホームだよう!」
「まぁまぁ。ともかく、上がってよ、夏夜姉」
汐里が夏夜姉の腕を引っ張って、部屋まで連れて行く。深月姉もむくれながら、その後をついていった。
夏夜姉は、ローテーブルの横に、上品に腰を下ろす。
「ふぅ……。落ち着くわ。まるで我が家にいるみたい」
「私にとっては我が家だけどね!夕一にとっても!」
自慢げに言う深月姉。夏夜姉はムッと眉をひそめた。
「……姉さん、今日もスウェットなのね。いくらなんでも、もう少し服装に気を使ったら?」
「へへん、夏夜ちゃんみたいにお金かければいいってわけじゃないもん。スウェットは、フォルムに無駄のない最高の普段着だもん」
誇らしげに胸を張る深月姉。夏夜姉はあざけるようにフッと笑う。
「まぁ、それもそうね。似合ってるわよ、姉さん」
「むぐ……全然褒められてる気がしない……」
深月姉と夏夜姉の仲は相変わらずのようだった。
「そうだ、今日は汐里ちゃんにプレゼントを持ってきたの」
先ほどまで持っていた大きな紙袋を、汐里に渡す。汐里は袋に潜り込むようにして、中身を取り出した。
「……ボール?」
「そう。たしか、持ってなかったでしょ?」
汐里は俺たちと同じでどちらかというとインドア派のため、人形やお絵かき帳はよく欲しがるが、外遊びの遊具はほとんど持っていない。砂遊び用のシャベルやバケツ、それに幼稚園で使うために買ったなわとびくらいだろう。
「やっぱり運動は大事よ。気づいたの。女の子でも、運動神経って大事だって」
深月姉も運動神経は悪いが、夏夜姉はそれに輪をかけてひどい。この前2人で卓球をしたときは、まともにサーブを打ち返すことすらままならないほどだった。
「なにかあったの、夏夜姉?」
「大学一年の、体育の授業のときのことよ。女の子11対11で、サッカーの試合をすることになったの」
その時点でだいたいオチは見えていたが、俺は黙って耳を傾けた。
「私は、ミッドフィルダーとして前の方に構えていたわ。そんななかで仲間が私にパスを出してきたの。私は受けようとしたわ。……でも、伸ばした足にボールが触れることはなかった。そしてその日出されたパス、計11回すべてが同じ結果に終わったわ」
部屋に、重苦しい空気が流れる。なんと声をかけたものか言葉が見当たらなかった。
「……それ以来、陰で『天然スルーパス』というあだ名がついたわ。そして授業内でトーナメントの大会が行われたときには、『敗退通知書』というあだ名に変わったわ」
「ネーミングが容赦ないね……」
「私は不思議でならなかったわ。ボールの来る位置を計算して、その場所にむけて正確になおかつタイミングを合わせ蹴るなんて複雑な動作、どうしてできるのかって!他の人たちは頭にICチップでも埋め込まれているんじゃないかって」
「その思考に至れるのが逆にすごいね」
「でも2年考えてようやく昨日結論が出たの!あれは脳内の処理速度が早いんじゃなくて、単に反射神経がいいんだって!!」
「わぁ、そこまでにずいぶん時間がかかったんだね」
おそらく夏夜姉のことだから、とんでもなく複雑でややこしい思考を重ねた結果のことなのだろう。深月姉もなにも言うことができないようだった。
「なつよちゃん、ありがとう」
ペコリ、と汐里が頭を下げる。そしてもらったボールをその場に置いて、人形やミニチュアハウスを引っ張り出してくる。
「汐里ちゃん、どうしたの?」
「これ、ちきゅうをはかいする巨大いんせき、ということにする」
「……汐里ちゃん、話、聞いてた?」
「汐里、多分人形遊びの小道具として買ってきたわけじゃないと思うぞ」
「……そうなの?」
誰から見てもそうだったが、汐里だけは不思議そうに首をひねった。
ボールに、可愛らしい目鼻と口を書き込んだ。
「名前は丸男にする」
「登場人物にするためでもないよ」
どうしても人形遊びに活用したいようだった。
「ねぇ夕一、明日はバイトは休み?」
「え、早朝からお昼まであるけど」
「私は大学が休みだから、明日汐里ちゃんが帰ってきたら、近くの河川敷でボール遊びをしましょう」
「……!!する!」
夏夜姉と遊べると知り、はしゃぐ汐里。深月姉は面倒そうな顔をしていたが、文句を言えば仲間はずれにされかねないからか、なにも言わなかった。
「私が汐里ちゃんを、スポーツ選手並みの運動神経に育て上げてみせるわ!」
自分が珠玉の運動オンチなのに、そんなことが果たしてできるのだろうか。
そんなことを思いながら、カレーを盛り付けるために俺はキッチンへと向かったのだった。




