その102「深月姉が思い直した・下」
目の前にあるのは、アイロンと、アイロン台。それに俺が昨日着たチェックのシャツ。
「あのさ、アイロンがけの練習をするのはいいんだけどさ……。このシャツ、まだ洗濯してないんだけど?」
「夕一はこれからすぐ仕事があるんでしょ?なら洗濯してる時間もないし、仕方ないでしょ」
「まぁ、それはそうなんだけど……」
「夕一、時間ってさ、普段思ってないだけで、すごく貴重なものなんだよ?」
「まさかニートの深月姉からそんな言葉が出てくるとは、てんで思いもしなかったよ」
深月姉はご機嫌な様子で、アイロンを右手に持つ。
「さぁ、これから始まるよ!私の洗濯スキルがめちゃくちゃ向上する瞬間が!!」
「うん。できるなら、手短に向上してもらえると助かるんだけど」
深月姉は、気合十分にスイッチを入れる。それからアイロン台の上にシャツを広げる。そして、手に持つアイロンをそのシャツにあてがった。
「さぁ、始まるよー!私の奇跡の瞬間が!!」
「さっさと始めてくんないかな」
深月姉は、高いテンションを維持したまま、シャツをアイロン台に広げ、アイロンを握る。
「まずは、この胸元のあたりから制圧してくぞー」
「なるほど」
アイロンをシャツの胸元にあてがい、そして丁寧にスライドさせる。すると、みるみるとシャツについたしわが……。
「……あれ?」
……取れなかった。相変わらず、シャツの胸元にはくっきりとしわが残ったままだった。
「伸びてないね」
「そうだね」
「このアイロン、反抗期なのかな」
「んなわけないだろう」
深月姉は、ピシピシとアイロンに チョップを加えるが、特にこれといった変化は見られない。
「……あ、深月姉。これコンセント刺さってないよ」
「え……?」
見ると、アイロンのコンセントが、どこにもつながれていなかった。
「……あ、あははー。これ、電気の力を利用するタイプのアイロンかー」
「すべてのアイロンはそれしかないよ」
深月姉は仕切り直すように、ごほんと咳をした。
「さて、電力を供給したところで、改めてするよっ!」
深月姉は再びアイロンをシャツの胸元にあてがい、そして丁寧にスライドさせる。すると、みるみるとシャツについたしわが……。
「……あれ?」
……取れなかった。相変わらず、シャツの胸元にはくっきりとしわが残ったままだった。
「伸びてないね」
「そうだね」
「もうさ、このアイロン、『ポンコツ』って名前付けていいかな」
「それは好きにしたらいいけどさ」
「あ、でもそれだと若干可哀想だから、『ポンちゃん』にする」
「なんだっていいから早くしようよ」
色々言いたかったが、バイトの時間が迫っている以上、いちいち付き合ってる暇はない。
深月姉はアイロンに再びチョップをくらわしていたが、あるとき声をあげた。
「あ、光ってる!」
深月姉はアイロンについた小さなランプを指さした。見ると、オレンジに光っている。
「夕一、ポンちゃん光ってるよ!」
「そうだな」
「これはポンちゃんなりのオシャレ?」
「んなわけないだろ。それは準備中のランプだよ。アイロンは使えるようになるまで、ある程度待たないといけないんだよ」
「へぇー……」
関心しながら、深月姉はポンちゃんを眺める。それから1分ほどで、ランプが消えた。
「よーし、今度こそやるぞー」
アイロンをシャツの胸元にあてがい、そして丁寧にスライドさせる。すると、みるみるとシャツについたしわが……。
「……取れてる!」
くしゃくしゃのシャツの、アイロンをかけたところだけが、きれいにしわが取れていた。
「ポンちゃん、やればできる子!」
「深月姉ができてなかっただけなんだけどな」
深月姉は機嫌を良くして、すぐさままた縦横無尽にアイロンをかけていく。
「そういえば、アイロンがけって、細かな部分からやっていくといいらしいよ。襟のとことか、肩の部分とか、袖のボタンついてるとことか」
「なるほど!」
言われた通り、深月姉は襟の部分をかけていく。手つきはぎこちなかったが、見た感じしわは伸びていた。
「お、やればできるじゃん深月姉」
「んー、でも、さっきの胸元のとことか、アイロンをかけても、新しくしわができちゃったりするんだよね」
「それは、直線に動かすといいんだってさ。深月姉みたいに気ままにかけてったら、しわになりやすいんだよ」
「おお、なるほど!夕一詳しいね!」
「昔調べたことがあったんだよ」
それから、俺がサポートをしながら、深月姉シャツと格闘すること十数分。途中深月姉が左の人差し指ごとアイロンがけしてしまうハプニングはあったが、結果シャツのしわはきれいにすべて取り除かれた。
「できた……!!」
できあがったシャツを手に取り、広げる深月姉。その顔は、珍しく達成感に満ちたものだった。
「おお、いい感じだね」
「でしょー?これも夕一のおかげだよー」
このシャツは洗濯されていないので、結局はアイロンがけの意味はないのだが、だが深月姉がなにかをやり遂げたのを見るのは、こちらとしても気分のいいものだった。
「ねー、がんばったらのどかわいた。カフェオレつくってー」
「はいよー」
俺はキッチンに向かい、マグカップを用意する。深月姉はテレビを付けた。ちょうど、昼のニュース番組が始まったところだった。
「………へ?」
このニュース番組を、俺はほとんど見ることはない。何故なら、この時間はいつもバイトが入っていたからだ。
「やばいっっ!!!大遅刻だっっ!!!」
慌ててバッグをひっつかみ、玄関へ走る。
「え、ご褒美のカフェオレは!?」
「自分で入れろ!!」
俺は部屋を飛び出て、自転車を全速力で漕いだ。だが、もう既に仕事開始の時間を過ぎている以上、間に合うということはない。
その後、店長に叱りの言葉を受けたのは、言うまでもない。