その100「牛肉を食べたがった・下」
それは緊急事態だった。
圧迫されている、我が家の経済状況。そこに、突如汐里が発した、「牛肉食べたい」発言。
「ぎゅーにくー……」
怯える、俺と深月姉。目の前には、恐ろしい呪文を唱える、小さな悪魔(5歳児)。
「ど、どうするの夕一……?」
「どうするって言ったって……」
実際のところ、赤身の牛肉くらいなら、なんとか買えないこともない。だが、たまの贅沢だからと簡単に振る舞えるだけの経済的余裕もない。汐里に牛肉を食べさせてやるには、多少なりとも犠牲が必要だった。
「なぁ、深月姉……」
「え、なに?」
「最近さ、太って困ってるって言ってたよな?」
「うん、チョコチップクッキー食べすぎちゃって。……それがなに?」
「テレビでこの前見たんだけどさ、断食って、痩せるらしいよ……?」
「………ダンジキ?」
一瞬、処理が落ちたようにフリーズする深月姉。だが、数秒して目を見開いた。
「えっ、無理無理っ!!私断食なんてしたら、干からびて干し芋になっちゃうよ!!」
「どんな過程でそうなるんだよ。ほら、なんか美肌効果とかもあるって海外のセレブが時々するとかって」
「セレブがどうとか関係ないもん!!私、セレブとは真逆を生きてる人種だもん!!」
断言する深月姉。どうやら、深月姉の食費から捻出するという策は却下のようだった。
「でも、そうしないと汐里に牛肉を食べさせてあげられないよ。あとは、深月姉が働きに出るしか……」
「それこそ無理だよっ!!私働きなんてしたら、干からびてビーフジャーキーになっちゃうよ!!」
「だからどんな過程でそうなるんだよ」
あと考えつくのは、安い豚肉かなにかを牛肉と偽って食べさせるくらいしかない。だが、残念なことに、過去にみんなで焼き肉を食べてしまったため、汐里は牛肉の味を覚えてしまっている。
「ゆーいち、なにをなやんでる?」
「いや、それはだな……」
「ゆーいちは、ぎゅーにくきらい?」
「いや、きらいっていうか、大好きでしかないんだけど……」
「なら、なぜたべないの?」
それは家計的な問題に他ならなかったが、それを汐里に話すのもはばかられる。どうしたものか悩まれた。
「でもな、汐里。一度考えてみてほしい。世界を見回してみれば、世の中にはたくさんの食べ物があるんだ。牛肉にこだわらなくったって、普段食べないものはたくさんある」
「たとえば?」
「えっと、たとえば……そう!中国なんかだと、ツバメの巣なんかが食べられたりしてるほどだ」
「え、つばめの巣が?」
「そう。つばめの巣だ」
少しの沈黙。おそらく、汐里は頭の中でツバメの巣を調理しているのだろう。
「しお、食べてみたい」
「えっ!?」
「ツバメの巣、食べてみたい」
それはそれで牛肉以上に困った話だ。ツバメの巣はどうしてか、高級食材となっている。
「えっと……この時期は在庫切れだ。ツバメがサイパンまでバカンスに行ってて巣を作らないんだ」
「そう……ざんねん……」
汐里はしょぼんとする。
「なら、ぎゅーにくがたべたい」
「うん、そうなるよね」
また振り出しに戻ってしまった。やはり、別のものに興味を促すにしても、食材自体がリーズナブルでなければならない。
「あ、そうだ。汐里はつまり、美味しいものが食べたいわけなんだろう?」
「そう」
「なら、チキンカツはどうだ?」
「ちきんかつ?」
汐里は首をかしげる。やはり、食べたことはないようだった。
「鶏肉に衣をつけて揚げて、上にウスターソースとかタルタルソースをかけて食べるんだ」
「あー、あれ美味しいよねー」
深月姉も隣で乗っかってくる。
「ちきんかつ……」
汐里も、見た感じどうやら揺れているようだった。
「美味しいチキンカツ、食べてみたくないか?」
「食べたい」
「だろ?」
俺と深月姉は、ほっと胸をなでおろす。これで、危機は脱出したようだった。
「でも、ぎゅーにくもたべたい」
「なに?」
汐里はまだ牛肉を捨てきれていないようだった。
「でも、チキンカツも食べて牛肉も食べるなんていうのは贅沢じゃないか?」
「たしかに……」
汐里は悩ましそうに頭を抱え込む。
「……ひらめいた。ぎゅーにくをカツにしたものをたべればいい」
「な……に……?」
それは汐里が編み出した逆転の発想だった。
「ゆーいち。しお、ぎゅーにくカツがたべたい」
ビフカツをするならステーキ肉を買わなければならない。そうなれば家計は吹っ飛んでしまう。
「ええっ、どうするの、夕一……?」
「どうするって言ったって……」
汐里になんとか話しかけようとする。だが、汐里は右手で俺を制してきた。
「ぎゅーにくカツ。しお、こればっかりはいっぽもひけない」
「マジか……」
さすがにここまで言われると、食べさせないわけにはいかなかった。
なすすべなく、俺たちはうなだれる。こうなれば、取れる手段は一つだけだった。
俺は携帯を手に取る。そして、電話帳からその名前を選び、電話をかけた。
「……あ、夏夜姉。実はちょっとお願いがあるんだけど……」