七瀬美月は仲違える。
目が覚めると、そこは僕の部屋だった。 眠気眼な目を擦りながら僕は起き上がり、掛け布団を押し退ける。
「……」
あくびをしながら部屋を出て、廊下を抜けて、居間に出るとそこに恋愛脳はいた。
エプロンを着込んで、長い黒髪を後ろで一本に纏めた彼女は、まるで当たり前であるかのように、僕の家に居座り込んでいて、トントンと小気味よく朝食の具材を切っていた。クツクツと温められている味噌汁から、良い匂いが部屋中に漂っている。
「ん、あ、おはよー」
味噌汁の味見をしている最中に、僕に気づいた恋愛脳は破顔すると、味見用の小皿を手渡してきた。僕はそれを受け取って、注がれている味噌汁を飲む。
「どう?」
「うん、おいしい」
口元を緩めながら小皿を返すと、恋愛脳は「えへへー」と嬉しそうにはにかんで、朝食作りを再開した。
なんの変哲もない、ぱっと見付き合いたてのカップルのような僕らの関係。
しかしその実、僕と彼女は出遭ってからまだ三日ほどしか経ってない。
更に言えば僕は彼女の名前を知らない。
彼女が僕の名前を知らないように。
知っているのは僕が自殺志願者で、彼女が人殺しであることだけ。
それ以外、僕らはお互いの事を全くと言っていいほど知らない。
「私はそれでも構わないけどねー」
出来た朝食を机の上に並べながら、恋愛脳はそんな事を言った。
「それでもって、知らなくてもいいってこと?」
「違うよー」
恋愛脳は首を横に振る。
「これから知っていけるって事。何も知らないから、知っていけるんだよ。だから、いいの」
「……」
なるほど。そういう考え方もあるのか。
「だからまず、名前、教えて?」
「やだ」
くてん、と首を傾げながら尋ねてくる恋愛脳に、僕は端的に答えて白米を口に含む。
簡単に教えると、変なニックネームをつけられかねないからだ。
「えー、なんで。じゃあ私はなんて呼べばいいの?」
「……お前?」
「やだ。面白くない」
「面白くないって……とは言っても僕自身……えっと、きみをなんて呼べばいいのかさっぱり分からない」
「ハニー?」
「じゃあ僕の事はダーリンって呼んでよ」
「ねえ、ダーリンご飯美味しい?」
「美味しいよハニー」
「えへへー」
「あはは」
「ねえダーリン」
「なんだいハニー」
「これやめない?」
「同上」
聞いてても話しててもむず痒い会話だった。
結局、恋愛脳は「いつか教えてもらうからね」と口を尖らせながら、食事についた。
二人での食事も段々と当たり前となり、話す事もなく、飲み物を渡しあったりできるほどに、以心伝心できるようになった。無言のうちに、飲み物を渡す度、恋愛脳は嬉しそうに口元を緩ませる。
ホント、人殺しでなければ彼女はきっと、良い人と出会って、幸せな生活を送れたに違いない。
「……」
ふとした疑問。
どうして彼女は──否、彼女たち人殺しは、人を殺しているのだろう。
殺したいから、殺している。
きっと赤の他人に聞けば、そう返されるであろう疑問。
しかし僕は知っている。何人もの人殺しに遭ってきた僕は知っている。
そんな──人をやめすぎているのは、最初にあった殺人鬼だけだ。
坂本さん曰く『人は人を殺す。殺しすぎる人がいても、おかしくはない』らしいけれども、その人を殺しすぎる人にも、理由は必ず存在するはずだ。
存在しなければ、殺すのが理由なのであれば、彼らは殺すだけに留まるはずだ。
食べたり、売り捌いたり、解体したり、願ったり、愛したりしないはずだ。
理由があるからこそ、彼らは行動を起こす。
「……」
僕は、目の前で自分が作った味噌汁を美味しそうに飲んでいる恋愛脳の目を見た。
恋愛脳は「ん?」と首をかしげる。
僕は息をのんで、彼女に問いかけてみる。
「どうして、お前は人を殺すんだ?」
「ん……んー?」
恋愛脳はしかし意外なことに、僕が想像したように速答する訳でもなく、少し悩むような素振りを見せて、彼女は絞り出すように答えた。
「好き……だから?」
「……え?」
「えっとね、私は好きだから人を殺すの。好きで好きで大好きで、昔の彼が誰かと付き合ってたとかそんなのは全く気にならないくぐらい。むしろ今の彼を、今、私が、大好きな彼を形成してくれる経験の一部になってくれるのだから、ありがたいというか、なんなら、その彼女の今の幸せを願ってもいいぐらいだよ……けどね、未来はダメ。先はダメ。私をふって、別の彼女と付き合って──私が過去の一部になるのはダメ。過去の思い出になるのだけは、ダメ。それだけは──許せない」
「だから……殺す?」
「え、あ、違うよ。そんな暗い理由じゃないの」
我を見失ったかのように淀みなく流暢に話続ける恋愛脳に、僕は尋ねると、彼女は恥ずかしそうに腕を伸ばしてぶんぶんと、手のひらを振った。
「私はね、幸せだから殺すの。幸せで、幸せで、幸せだから、殺すの。その最大級で最大限で最高級な幸せで思い出を固定するために殺すの」
「……えっと」
僕は言葉をつまらせながら言う。
「つまり、好きな人との最高の記憶をそのままに留めておきたいから、殺す?」
つまり、ジェットコースターで昇りに昇り詰めたてっぺんで止めたいから、殺すと。
その後降下しているのが、思い出が劣化するのがイヤだから、殺すと?
恋愛脳はそれが当たり前であるかのように、恋する女の子なら絶対そうすると言わんばかりに、頷いた。
……。
僕は、その答えに対して、真っ当に思い浮かんだ疑問を吐露した。
「えっと、でもそれって……殺す必要ないよね?」
「うん?」
「思い出を思い出として残しておくのに……別に相手を殺す必要なんて、ないよね?」
「うーん……まあ、そうだね?」
首をかしげながら、まあ分からなくもないけど……みたいなニュアンスで、最後に疑問符がつきそうな感じで、恋愛脳は答えた。
なんというか。脳みそのネジが二本、三本抜けているというか……神様が彼女を作るとき、パーツAとパーツBだけを交換してしまったような。基本的には何らおかしくもない、ただちょっと恋に恋してるだけの女の子のはずなのに、どこかおかしい。一部分だけ狂っている。
だから彼らは人混みに紛れられる。小さな小さな一部分を除けば、彼らは普通なのだから。
「…………」
そんな理由でお前は人を殺したのか。
それに対する答えは不答だ。
人を殺していい理由なんてないけれど。殺してはいけない理由もない。
納得できる訳もないし、逆に納得できない訳でもない。
だから不答だ。
生涯分からないし、分かってもいけない。
そいつにしか、理解できないなにか。
そいつ自身も、理解できないなにか。
なんて。
なんて、身勝手なんだろう。
なんて、自分勝手なんだろう。
嬉しそうに嬉々として、頬を赤くしながら自分の内面を語る恋愛脳を俯瞰しながら、僕は思う。
身勝手で、自分勝手で、好き勝手で、我が儘で、一方的で、独りよがりで、独善的で、エゴイスティックで──僕らしい。
死ぬ必要がないのに死のうとしている、僕らしい。
「どうしたの?」
「……いや、なんだか死にたくなっただけ」
「え、大丈夫? 困ったことがあるなら相談にのるよ?」
「大丈夫……いや」
大丈夫じゃないか。
今日初めて、生まれて初めて、理由が明確な自殺志願だ。
自己嫌悪。
僕は、自己嫌悪で死にたくなってる。
「……ホントに大丈夫?」
「……うん、大丈夫」
僕は心配そうな顔をしている恋愛脳に向けて、笑いかける。
生気の抜けた笑みを向ける。
「ありがとう、本当に良い奴だな……そんな所が、好きだ」
「ほあ……」
恋愛脳の顔がぼっと、熱せられたように赤くなった。恥ずかしそうに頬を手に当てて、体を捻りながら、喜んでいる。
「えへへ……うれしーなーうれしーなー、やっとデレてくれたよ。やったやった、うれしいなー。私スゴく幸せ、やっぱり人に愛されるって、人間にとって最高の一面だと思うの」
頬を紅潮させながら恋愛脳は、僕の体にしなだれかかってくる。首に腕を回して僕の体に全身をくっつけるようにして、絡まってくる。
「嬉しいなぁ、幸せだなぁ……!?」
彼女はそのまま、いつの間にやら手に持っていた包丁をーー力無く、僕の体にもたれ掛かった。彼女の背中には、深々と包丁が突き刺さっている。
「な、なんで……?」
口から血を吐きながら、恋愛脳は僕の顔を見る。彼女の目に写る僕の顔は、心底疲れきっているような顔をしていた。
みるみる内に、真っ青になっていく彼女の耳元に僕は口を近づけ、囁く。
「恋愛脳、僕の名前はね……」
顔を離すと、彼女は嬉しそうに微笑んでいた。血が溢れる口を、弱々しく開きながら彼女はニコリと笑う。
「あっくん、私の名前はねーー」
彼女は何かを言おうとしていたが、言い切れない内に事切れた。
変なニックネームつけられちゃったな、と思いながら僕は、彼女の体を僕から離して、床に寝かせた。
目を覚ましたばかりのおじいちゃんとおばあちゃんには悪いけど、彼女の事は二人に任せることにしよう。
僕にはやらなきゃいけないことがある。