10 模擬戦闘
「兄さんの近くをウロウロしてたと思ったら今度はボクの所にきたの?」
面白いというような表情のルーチェ様に何も言えなかった。
昨日のことがあったからシン様の所へは行けそうもなくて、後は当事者となり得るルーチェ様の近くにいることしか選ぶ道はない。
ルーチェ様の近くにいるのは危険だと思うけど、シン様に昨日のような冷たい目で見られることもまた怖かった。
ソファーに座って様子を見ている私をルーチェ様は目を細めて見返してくる。
紙面に走らせていたペンが止まり、ルーチェ様の指先でクルクルと回っている。
「ボクは面白いからいいけど。――でもキミって変わってるよね。自分の兄を狙ってるような人の近くにくるなんて、さ!」
「ひ……っ!」
ヒュッと耳をかすめる音とガッと何かがぶつかるような音がして恐る恐る後ろを向いた。
後ろ――扉には少し前までルーチェ様の指先で回っていたペンが刺さっていて背筋が寒くなるのを感じる。
「命中! ボクってこういう才能あるのかも!」
ケラケラと笑う声を聞きながらも私の目はペンに釘づけで。
自分に刺さっていたらと思うとゾッとした。
「はい! こっちの書類の仕分けもよろしくね!」
「はい……」
朝から輝くような笑顔のルーチェ様が、山のようにまとめられた書類の束を私の前にあるテーブルの上にドサリと置いた。
その量に顔が引きつりながらも鼻歌を歌いながら執務机に戻るルーチェ様を見る。
数日の間ルーチェ様の近くにいても驚くくらい何も起きない。
何故か書類の整理を任せられているのは別として、それ以外は元気で明るくて、シン様を狙うような様子は見えない。
山につまれた書類を一枚一枚分けながらルーチェ様の考えがどんどん分からなくなっていく。
出かけたあの日以降シン様を見かけることはほとんどないし、試験はしばらくお休みとなっていた。
雨は連日静かに降り続いていて、洗濯物の乾きが悪いとメイさんは嘆いていたなぁ……。
仕分けが半分ほどすんだ頃に扉がノックされ、ルーチェ様の返事と共に開かれる。
「ルーチェ様、失礼いたします」
やってきたのはティーセットを持ったクレアさんだった。
「クレアさん!」
久しぶりに会って思わず嬉しくなってしまう。
「お久しぶりです!」と声をかけると、目を丸くした後に細めて「お久しぶりです」と返してくれた。
「メイが心配していますよ。カルドーレ様がルーチェ様のお部屋から戻ってきませんと……」
「それはすみません……」
シン様の部屋に連日行っていたのに急にルーチェ様の部屋へ行きだした私を、メイさんはとても心配してくれている。
だけど、あの日の夜のことはどうしても言えなくて……。
「お時間がありましたら構っていただけると彼女は喜びますので」
用意してくれた紅茶をもらいながら頷く。
構うって話しかけたらいいのかな……?
何て話しかけようかと紅茶を飲みながら考えていると後ろの扉が荒々しく開けられて肩がはねる。
「失礼するよ」
耳に届く声に体が固まった。
前は恥ずかしくて緊張したりすることはあっても怖くて緊張したことはなかった。
私の横を通って歩く姿が視界に入り、数日振りにシン様の姿を間近で見ることになる。
シン様は私を見ることなく真っ直ぐルーチェ様の執務机の前で立ち止まった。
「どうしたの? 兄さんが朝早くからボクの執務室にくるなんて珍しいね!」
「お説教なら間に合ってるよ?」と笑うルーチェ様と無言のシン様の温度差が激しく感じられ、私はカップをソーサーの上に戻した。
肌に感じる異様な空気に紅茶は喉を通りそうにない。
「今日は模擬戦闘があるから改めて伝えにきたんだよ。お前ならサボりかねないからね」
「ひどいなー。兄さんと剣を交える貴重な機会なんだからサボるわけないよ!」
「それならいいんだ。開始は午後からだから忘れないように」
早口で言い切るとシン様は颯爽と部屋を去って行った。
一瞬の静寂の後、ルーチェ様がはじけるように笑い出す。
「兄さんの顔見た?」
「いえ……」
「すんごい顔してたよ! 親の敵を見るような顔しちゃって。ボクら同じ親なのに!」
ケラケラと部屋に笑い声を響かせるルーチェ様を見ても私はちっとも笑えなくて。
震える体をごまかすようにカップに残っていた紅茶を一気に飲みほした。
「あー楽しみだなぁー。今日は頑張って午前中で仕事を終わらせちゃおうっと!」
紅茶を飲み終え、ルンルンといった様子で仕事を再開するルーチェ様を見ながら、私は不安で胸がいっぱいになった。
模擬とはいえ戦闘なんて私の知ることのない世界。
何も起きませんようにと願うことしかできなかった――。
部屋で昼食をとり終え、一休みしていると興奮した様子のメイさんが部屋に入ってくる。
「カルドーレ様! そろそろ王子様方の模擬戦闘が始まりますので鍛練場へまいりましょう!」
「公開式なのでシン様のご勇姿をお近くで見られますよ!」と笑顔で勢いよく私の腕を引くメイさん。
行きたい気持ちと行きたくない気持ちが私の中でグルグルと回っている。
もう一度シン様に冷たい目で見られたら、きっと耐えられず大泣きしてしまう。けれど、行かないことでシン様に何かがあるのはもっと耐えられなくて。
歩みを止めて迷う私を見たメイさんは引いていた手を緩め柔らかく笑った。
「カルドーレ様がシン様と何かおありだということはわたしにも何となく分かります。――ですが、このまま仲違いをしたままですとわたしは悲しく思います。カルドーレ様もシン様も大切なお方ですから笑ってほしいのです」
「メイさん……」
「カルドーレ様のお気持ちを伝えたらきっとシン様も分かって下さいます」とメイさんは優しい声色で励ましてくれて。
その言葉に少しだけ勇気が生まれ、お母さんがよく言っている言葉を思い出した。
私が迷う度に言ってくれる。「やらないで後悔するより、やって後悔するんだよ!」って。
「まいりましょう?」と促すメイさんに片手で目尻を拭いながらコクリと頷いた。
鍛練場に入ると中は熱気が漂い、独特な雰囲気が流れていた。
真ん中にシン様とルーチェ様が距離を置いて向かい合い、それぞれの手には立派な剣が握られている。
二人を取り囲むように観る人であふれていた。
私はメイさんに連れられて人の間を通り、シン様の近くの位置におさまる。
私の近くにはカリーナさんとティアさんもいて、瞳が輝いているようだった。
「ラナさんはきていないみたいですね……」
私が聞くとメイさんは眉を下げて悲しそうな表情を浮かべて頷く。
「まだ体調が万全とはいかないみたいです」
「早く治るといいですね」と二人で話しているとシン様が話し出したので、会話を止めて部屋の中心を見た。
「珍しいね。ルーチェが模擬戦闘で真剣を使いたいだなんて」
「たまにはいいでしょ? 本物っぽくてさ!」
二人で交わされる会話に耳を疑った。
模擬戦闘なのに本物の剣を使うの……?
「メイさんっ。模擬戦闘なのに真剣を使うんですか……!」
小声でメイさんに問えば笑顔で頷きが返ってくる。
「はい。時々実戦を想定して真剣で訓練されていますよ」
「――!」
心配になって二人の方を見ていれば、向こう側に立っているルーチェ様がこちらを見てニヤリと笑みを浮かべた。
――どうしよう! ルーチェ様はこの場でシン様の命を狙っているかもしれない……!
ガタガタと震え出す私をあざ笑うかのように模擬戦闘は始まってしまった。
合図と共に二人は間合いをはかり、剣を交える。
――中止をお願いする?
理由を聞かれたら答えられない。
――ルーチェ様がシン様の命を狙っていると知らせる?
そんなことを言ったら私が不敬罪に問われるだけだ。
――真剣の使用を反対する?
普段から使われているなら多分聞き入れてもらえない。
どうしよう、どうしようとグルグル考えていると聞こえた一際高い音にハッとして中心にいる二人を見た。
ルーチェ様が上から押さえつけるように剣に体重をかけてシン様を圧している。
「……いつになく本気だね」
「兄さんこそもう息切らしちゃってどうしたの?」
「気のせいだ……!」
シン様が腕に力をこめて押し返し、弾くように剣を動かした。
シン様の剣先がかする前にルーチェ様は後ろに飛び退いて距離をとる。
「いいや気のせいじゃないね。すごい汗だよ? もしかして考えごとして寝不足とか?」
「――!」
シン様の動きが一瞬止まる。
その瞬間をルーチェ様は見逃さず一気に間をつめて剣を薙いだ。
「く……っ」
遅れをとったシン様の受け身は間に合わず、白い袖に赤がにじむ。
「無様だね。隙だらけだよ……!」
痛みに顔をしかめるシン様にたたみかけるよう、ルーチェ様はシン様が持つ剣を弾き飛ばしてしまった。
「前から気に入らなかったんだ。先に産まれたからってみーんなにもてはやされてさ」
「ルーチェ……っ……!」
何も持っていない状態のシン様を斬りつける様子にみんながざわめき出す。
大声、小声、悲鳴。たくさんの声の中でもルーチェ様は止まらない。
「あはははは! 蛇神様の後継者も形なしだね? でも安心して。兄さんの後はボクが継いであげるから――!」
――肉を斬る音と剣から持ち主の手が離れるのはほぼ同時だった。
恐怖に見開いたままだった私の瞳は一瞬でルーチェ様が後ろの壁に激しく叩きつけられるのを映す。
「な……っ」
誰がこぼしたか分からない声が聞こえる中、ルーチェ様の体が人形のようにズルズルと壁を伝って床に落ちていく。
「僕も甘く見られたものだね……」
シン様のほうを急いで見れば、血に染まりながらも右手をルーチェ様に向けて伸ばした状態でフラフラと立っていた。
左側のお腹のあたりの白がみるみる赤くなり、左腕からポタポタと伝う滴が床に円を作る。
「そ、いうところが、腹立つ、よ……あぁっ」
壁に背をあずけ、床に座りこんだ状態のルーチェ様が途切れ途切れに言葉を放つと、シン様は伸ばした右手を握った。
するとルーチェ様は苦しげに首もとを両手で押さえ、やがて意識を失ったようで倒れこんだ。
「弟と言えど裏切り者だ。――地下へ連れて行け」
シン様が低くそう命じればどこからか現れた数人の人がルーチェ様の体をロープで縛り、鍛練場から運び出して行く。
まるで作られた物語を見ているようで、目の前の光景が現実なんだと理解しながらも心では違うのではないかと思ってしまう。
お父さん達の手を借りて歩いていくシン様の姿を、私は泣きながら見ていることしかできなかった――。
「カルドーレ様……どうか泣き止んで下さい……」
部屋に戻ってメイさんにそうお願いされても、私の涙は次から次へと流れていた。
シン様が怪我をしたのは私のせいだ……。
私が早くに言わなかったから……!
そう思いがめぐり、めぐるほどに涙が止まらない。
傷だらけで赤く染まったシン様の姿が私を問うように頭から離れない。
何よりシン様が無事なのか一刻も早く知りたくて、両手を合わせてぎゅっと握りしめた。
日が暮れて運んできてくれた夕食はほとんど食べられず、ひたすらシン様の無事を祈り、心の中で謝罪を繰り返す。
涙がかれたのか出なくなってしまった頃、お父さんが部屋を訪ねてきた。
「お父さん! シン様は……!」
ソファーから立ち上がって早口で聞くとお父さんはゆっくりと頷く。
「とりあえず、命に別状はないよ」
「よか……っ、よかった……!」
安心したらまた涙があふれてきて、力の抜けた体はまたソファーに沈んでいく。
「でも怪我の状態が悪くて気を失ってしまったんだ。数日は意識が戻らないかもしれない……」
眉を下げた表情で告げるお父さんに、体の熱が下がっていくのを感じて自分で体を抱きしめる。
「そんなに悪いの……?」
「あれだけの怪我をされたし、その状態で力を使っていたからね。普通の人ならもっと重傷なんだよ」
「私のせいだ……。私がルーチェ様のことを言わなかったから――!」
不敬罪に問われても伝えればよかった。
そうしたらシン様は怪我をしなかったかもしれないのに……!
思い出したお母さんの言葉を全然実行できていない。
噛み締めた唇から血の味がしても構わない。シン様はもっともっと痛い思いをしているのだから。
「カルドーレ、自分を追いつめてはダメだ」
横に座ったお父さんが私の肩に触れてくる。
肩から伝わる人の温かさに力がゆるみ、ゆっくりとお父さんを見た。
お父さんは肩に置いた手を動かして流れる涙を拭ってくれて。優しい瞳に少しだけ心が落ち着いた。
「ルーチェ様のことはワタシ達ではどうすることもできない。これは王族の方達の問題だ」
「でも、私はルーチェ様がシン様のことをよく思っていないのを知ってたんだよ……!」
「それでもだ。ワタシはお仕えする身だし、カルドーレは婚約者候補の希望者という曖昧な立場だから、ルーチェ様が裏切り者だなんて言えないだろう?」
「仕方がないことなんだよ」と頭をなでてくれるお父さんに、落ち着くまでしばらく泣きながら抱きついていた。