08 傭兵テオドール・レンツ
普段ならばまだ寝ているような刻限(つまり、一般的に朝と呼ばれる時間帯)に、城主がお呼びだと叩き起こされた。言伝を終えた使用人はさっさと立ち去ってしまったので、テオドールは暫くぼんやりとしてから、顔を洗って着替え、自分より健康的な生活を送っている部下のところに寄ってから、城主の執務室へ参じた。
「よく来た。少し待っていろ」
城主は机上の書類から目を上げずに言った。
相変わらず色の白い男だ。乙女受けのよさそうな顔立ち、薄い金の髪。女々しさはないものの覇気や豪胆さを感じさせない輪郭。黒い上着を肩にかけ、つまらなそうに書類を眺めながら机に頬杖をついた姿は、だが、極めて細い金属の糸のような緊張感を感じさせる。
「御意に」
テオドールは平然と応じた。呼びつけた相手を待たせることは、権威を示す方法としてはありふれている。実際、テオドールもたまに部下に対しておなじようなことをする。
大きな窓は開け放されており、朝の日差しと涼やかな初夏の微風が室内へ注いでいる。
テオドールは壁際の本棚に並ぶ年代記の背表紙を一通り眺めるだけの間を置いて口を開いた。
「書類が多くなると国が傾くらしいですね」
「逆だ。国が傾くと書類が増える」城主は素気なく応じた。「昨日から城内を調べまわっているな?」
「ええ、まあ」
テオドールは肯定した。昨日の夜、部下に、クラウス卿の周辺を調べさるように命令したことは確かだ。
「不都合でしたか?」
「マティアスが私に詰め寄ってきた。お前に翻意があるのではないかと」
テオドールは若き貴公子の姿を思い浮かべながら応じた。古くからのゲーデの腹心、ボーデンハイム家。マティアス卿はその当主の長男であり、騎士の位を得たばかりの若者だ。今は自身の領土にいる父親の代わりに城に上がり、情報管理官を務めている。正直、役職にはあまり向かなさそうな実直で感情的な人物と思える。
問題は、彼が何故かテオドールを目の敵にしてくることだ。せっかく高貴な家柄に生まれ将来有望なのだから、もっと他のことに情熱を回せばいいと思うのだが。
「あの人は、何もしなかったらそれはそれで給料泥棒だと文句を言ってきそうですが」
城主は口の端を吊り上げた。「ただ飯喰らいに気が咎めるなら、国境警備に当ててやろうか。丁度、帝国領側の人員を増やそうと思っていた。退屈はさせんぞ」
テオドールは苦笑して「とんでもない」と答えた。冗談そのものの口調ではあったが、今の城主の発言こそ情勢次第では翻意とも取れるものだ。帝国属領たるゲーデ領が、主君の土地に向けて兵を構えるなど。尤も、誇り高く好戦的な東辺境の民が、平野の帝国ごときに本当に従属していると信じている者は少ないだろうが。
ゲーデ家は、征服帝フロリアン一世が帝位を簒奪――もとい天意に従い帝位を得た二十年前の大乱で、従属を求めた彼にたった一枚の書状で応えた。社交辞令と装飾語をふんだんに塗したその文書の内容は、要約すれば“見ててやるから、好きにしろ。お前が生きて玉座に辿り着けたなら帝位は認めてやる”。ゲーデも、笑い飛ばした皇帝も、どちらも正気ではない。
「さて、お前が本当に仕事熱心なら、昨夜のことも知っているだろう」
「塔の崩落ですか? なんでも首なし死体が発見されたとか」
先ほど、部下から報告を受けたばかりだ。
「惜しいな。頭部切断死体だ。頭は近くに転がっていた。正体も割れている」
「誰です」
テオドールは訊ねた。使用人の一人らしいという以上の情報は持っていなかった。
城主は書類から顔を上げ、翠の眸を細めた。
「マティアス卿が目をつけていた間者だ。その死と前後してお前が妙な動きを見せるから、彼はあなたを斬りたがっている」
「……疑っている、ではなく?」
実際は雑用ばかりしているとしても、一応は警備役として雇われているのだから、城内での事件を把握しておくことは当然だ。それを妙な動き扱いされても困るばかりだ。
「もう少しで背後関係を洗い出せたのを邪魔された、と」
「はあ。俺はやってませんよ」
テオドールは答えた。
「わかっている」城主は温度のない声で応じた。「さて、用件だが」
テオドールは姿勢を正した。「何なりと、可能な範囲で」
城主はその発言を鼻で笑った。
「クラウス・ミリガン卿の応対を頼む。折角の滞在なのだから市街を案内して差し上げたいが、昨夜の件で、手の空いている人間が減ってしまった」
予想していたことではあった。城内が騒がしい今、昼間だけでも客人を外に連れ出しておきたいのだろう。
「どこへお連れすればいいですか?」
「任せる」
城主は机上の紙をテオドールへ差し出した。
テオドールは机へ寄ってそれを受け取った。
漂白された高級羊皮紙は時代錯誤に仰々しい。
「……“この者の帯剣を許可する”」
「客人にもしものことがあっては困る」
城主は涼しい顔で言い、今度は普通紙の束を差し出してきた。
テオドールは受け取り、目を走らせた。部下に調査を任せていたこととほぼ同一の事柄が簡潔に記されている。
「仕事に熱心な警備役殿に、情報提供だ」
「それはありがたいですね」
テオドールは紙束から目線を上げて応えた。
こそこそ調べ回られるくらいなら、支障のない情報を与えて、それで納得させようということだろう。別に後ろめたいことをしていたわけではないのだが、まあ、何であれ、余所者の傭兵が城内を嗅ぎまわるのが気に食わない貴人もいる、ということだろう。
城主は笑った。その表情は陰惨にも見えた。
「高潔の騎士クラウス・ミリガン卿はここ数日の事柄への助力を申し出てくれている。表立って協力を要請すれば我が腹心の矜持を傷つけることになるが、客人の面子も立てねばならん」
テオドールは「はい」と答えた。外部の者の助けを借りるとなれば、城の騎士はいい顔をしないだろう。しかし、栄えある辺境伯閣下が一介の騎士の面子を気にするとは意外だ。
「彼には、ある人物の捕縛を依頼することにした」
「ある人物ですか」
城主の口ぶりからすればそれほど重要な人間ではないだろう。
言葉通り、配下の機嫌を損ねず、客人からの協力の申し出も受けておきたい、というだけの意図のようだ。
「さて、そこでだ。あなたには、彼の行動の補佐を依頼する。緊急の用には市街の間諜を使え。マティアスには言っておく」
「仰せのままに。閣下」
テオドールは貴族風の古典的な発音と、完璧な作法の礼で承った。
エアハルト公はうっすらと苦笑した。この手の悪い冗談が好きな人物なのだ。
テオドールが踵を返して退室しようと扉を開きかけた時、不意に城主が「そういえば」と声を上げた。
「昨夜からマクシミリアンの行方が知れない。見かけたら帰ってくるように言っておけ」
「え、ああ……<竜眼>ですか。俺も見てません。わかりました。会ったら言っておきます」
テオドールは今度こそ退室し、受け取った紙を折り畳んで上着の隠しに押し込んだ。
食堂へ向かうと、案の定、部下が六人、朝から集まって騒いでいた。居座って長くなれば定位置も決まるもので、どの時間に誰がどこにいるかもおおよその検討がつく。
「フォルカー」
テオドールが不機嫌を演じて声をかけると、札遊びに興じていた少年は肩を強張らせて振り向いた。
「なんすか、隊長」
「昨日さ、任せてください城主殿には気づかれず調査してきますとか言ってたろ」
「い、言ったし、慎重にやりましたけど」少年は細い目を見開いて、恐る恐る訊ねてきた。「まさか、見つかりました?」
「まさかだ。怒りを買って激戦区へ飛ばされそうになった」
テオドールは大袈裟に肩を竦めた。フォルカーの顔が蒼褪める。
禿頭のヘルマンが呆れた表情で二人を見た。副隊長兼参謀長の彼は最年長にして最古参の隊員で、歴戦の兵士だ。「で、この辺境のどこに激戦区なんかあるんだ、隊長? 実在するなら演習がてら遊びに行くから教えてくれ」
「嘘か!」
フォルカーが声を上げた。
ヘルマンが彼の頭を上から押さえつけて苦笑した。
「あの程度、嗅ぎまわるうちにも入らねえよ」
厚い掌の下で少年が暴れるが、副隊長の太い腕を押し返せない。
戦争孤児のフォルカーは同年代の(なおかつ、似たような境遇の)友人ではなく、年嵩の上官について歩きたがる。相手をするのが面倒なのでヘルマンに押し付けたが、どうやらうまくやっているようだ。少年期特有の気の強さはあるものの、武芸の上達が早く、頭も悪くない。本当の戦争に耐えられれば、いい兵士になるだろう。
「左遷ではなく町中での仕事を仰せつかった」テオドールは手をひらひらさせた。「高名な騎士殿の観光案内だ。光栄なことだぞ。俺は剣を取ってくるから、ヘルマン、何人か見繕っておいてくれ。出発は十時、西門で集合だ」
「あいよ。俺も行こう」
ヘルマンは禿頭を光らせ頷く。フォルカーがその袖を引いた。「俺、行くからな」
「あ、俺もいい? ただ飯食えるんだろ」他の隊員が名乗りを上げ、ヘルマンが「今度にしろ」と即答した。
テオドールはそれらのやり取りを聞き流しながら背を向けた。ヘルマンは、剣が必要だという一言で意図を読み取っただろう。少人数での行動に向いていて、最低限の礼儀をわきまえた連中を集めるはずだ。後者に関してそんな隊員はあまりいないので顔ぶれは予想できる。
部屋に戻り、上着を引っ張り出して、叩いて埃を落す。以前、輜重の少女から貰った洒落た革靴は、一度開けた箱のまま棚に押し込んであったが、ようやく使う機会が来た。爪先で床を叩いてまだ硬い革に足を押し込みつつ、曇った鏡の前で無精髭を剃り、ついでに髪に櫛をかけておく。
空腹だ。騎士殿と少しいい店で食事をして、請求書は城主に回そう。
テオドールは欠伸を噛み殺しながら剣を取った。包み布を剥がし、柄と鞘をまじまじと眺める。年代を感じさせる拵え、一角獣を模した精巧な細工。刃を半ばまで抜き、鋼に曇りがないことを確認して、収める。
上衣を羽織り、剣帯を掴んで部屋を出た。歩きながらそれを腰に回し、位置を調整する。すれ違う顔見知りの使用人と適当な挨拶を交わしながらゆっくりと食堂へ戻ると、ヘルマンとフォルカーだけが待っていた。
テオドールはヘルマンから候補者の名前を聞いた。予想通りだが、少ない。他は二日酔いか何かで倒れているのだろう。貴族の相手が面倒で逃げたのかも知れないが。
「よし、フォルケ。お前も準備してこい」
「はい、隊長!」少年が駆けて行った。その一瞬、普段は斜に構えようとしている横顔に浮かんだのは、期待に満ちた笑顔だった。若い兵がよく見せる表情だ。今回は死地へ送るのではないだけ気が軽い。
「急な任務だな、隊長」へルマンが古傷の残る厚い唇の端を歪めた。「城も騒がしい。危険そうか?」
そうであることを望む声だった。
ヘルマンは根っからの兵士だった。戦いを生業とし、戦いの中でしか生きられない人間。他の生き方を想像することさえできない。テオドールは元はそうではないと自覚していたが、あえて戦場に立ち続けているから、ヘルマンに言わせれば、自分以上の大馬鹿者だそうだ。
テオドールは笑った。
「さあな。聖堂、凱旋門、市庁舎広場、金物通りにフランシス夫人橋、後は美味い飯を食って、ご希望があれば娼館にでもご案内すればいい」
「いい計画だ。他人の金で食う飯は美味い」
へルマンはにやりと笑い返し、着替えてくると踵を返した。テオドールは肝心の騎士殿を探しに行くことにした。
趣味の悪い戦争画が飾られた回廊で、目的の人物と出くわした。
まだ早い時間だというのに完璧に身なりを整え、刈り込んだ口髭にさえ乱れのない様は、テオドールに、やはり高名な騎士ともなると立派なものだという感想を抱かせた。しかし一瞬の後で考えてみれば、先ほど会った城主はもちろん、部屋まで叩き起こしに来た使用人でさえ、身嗜みは完璧だったような気がした。
「おはようございます、騎士殿」
テオドールが声をかけると、クラウス・ミリガン卿は幾らか驚いた様子で立ち止まった。
「昨日の傭兵か。何の用だ?」
言葉は素気ないが、とりあえず声に拒絶の響きはなさそうだ。
「用件もそうですが、まずご挨拶を」
テオドールは姿勢を正した。
「クレイグ辺境伯麾下、クレイグ荘園及びその他の土地の警備役、宿木の矢隊[ミステルプファイル]隊長テオドール・レンツです。エアハルト公より貴方の案内役を任されました。よろしくお願いします」
「……テオドール・レンツ?」
騎士は訝しげに問い返してきた。
その口調には、疑問以上の不自然さがあるように思えた。昨日もそうだった。
まさか、と、テオドールは思った。もしかして、あれに会ったことがあるのだろうかと。
テオドール・レンツの名は、傭兵を中心とした戦場人が語る場合のみ、時折、御伽噺とは別の意味を持つ。
嘗て、密やかにその存在を恐れられた、一人の傭兵。一度剣を抜けば二十人を斬り倒し、時には単身で敵陣を蹂躙した最強の戦士。彼は隻腕ではなかったが、比類なき強さ故に、しばしば、あの勇者の名で呼ばれていた。もう二十年以上も前の話だ。
テオドールは「覚えやすいでしょう」と慣れた答えを返した。
「ああ。だが、案内役とは? 悪いが、今日は少しばかり用がある」
騎士はそっけなく応えた。
「エアハルト公は、ご滞在の内に、是非とも城下をご覧いただきたいと思っています。お疲れでしたら無理にとは言いませんが」
「閣下が?」
「ええ。東辺境は歴史のある土地です。遠いところからいらっしゃったお客様には、是非とも、市街を見ていただきたいと。」
騎士はあまり気乗りしないようであったが、城主の手配であればと誘いを受けた。
テオドールは苦笑した。
「何か気になることがあれば、後で食事でもしながら話しましょう。お手伝いの段取りなんかも」
我ながら遠回しな話し方だ、と思ったが、余所者の騎士と傭兵が組んで動くのだから、あまり大っぴらにはしたくない。それこそエアハルト公の言うような、矜持の高い騎士様方に聞かれたら面倒だ。
「……頼む」騎士は意図を理解した表情で答え、テオドールの剣を一瞥した。「帯剣を?」
「許可は得てます。必要でしょう、もちろん?」
騎士は頷いた。「よい拵えと見える」
「切れ味は悪くないですよ」
テオドールは肩を竦めた。
「十時の鐘が鳴った頃に西門まで来てください。迷うような位置にはありませんので案内はいらないでしょう」
「わかった。配慮はありがたく受け取ろう」
クラウス卿は苦々しく応じた。彼の方向音痴をからかったのではなく、この城の複雑な構造を考えての発言のつもりだったのだが、誤解されたようだ。言い訳するのは面倒なので不遜な傭兵という印象はそのままにしておくことにする。ついでに、不遜という言葉から思いついたので訊いてみる。
「騎士殿。とにかく派手な服の、若い傭兵に会いませんでした? 金髪で、左目に異痕があるやつ」
クラウス卿は胡乱な顔をした。
「見ていないが? その若者が事件と何か関係しているのか」
恐らくそうだろうとは思いながら、テオドールは「いや、どうでしょうね」と答えた。「エアハルト公の直属なんですよ。それが昨日の夜から行方不明らしくて。好奇心の強いやつなんで、騎士殿にちょっかいをかけに行ったんじゃないかと思ったんですが、見てないならいいです」
会話を切り上げ、テオドールはその場を後にした。
町中の間諜を使うからには、彼らを統べるマティアス卿にも話をしておいた方がいい。城主は「言っておく」などと軽く言っていたが、機嫌を取っておくに越したことはない。
テオドールは適当に謝って丸め込むまでの流れを頭の中で何度も想像しながら、その若い騎士の元へ向かった。どうにか誤解は解けるだろうが、間違いなく余計に恨まれる。
大貴族に生まれ、不自由なく育ち、約束された地位と権力を手に入れる。彼は何が不満で、傭兵風情に絡んでくるのだろうか。面倒だ。何が気に入らないんだ。やはり貴族などろくなものではない。
扉の前で立ち止まる。拳の裏で厚い木材を二度叩き、現れた侍従に愛想笑いで訊ねる。
「ああ、どうも。警備役のレンツです。マティアス卿は中にいますか? 昨日の言い訳をしに来たんですが……」