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間 回想:従士クラウス・ミリガン

 アウラ伯が定めた禁猟区の奥の奥、ひっそりと佇む館には一人の姫君がいる。

 クラウスがその存在を知ったのは、彼の主君である老いた騎士が、半年間、その城館の警護の任を受けた時だった。

 尊い女性であるということだけを知っておればよい。老騎士は、若き騎士見習いであったクラウスにそう忠告した。伯は当時既に高齢であったが、多くの妾を囲っており、その正確な数を常に知る者は誰もいなかった。

「情婦を守るのですか」クラウスは若者らしい潔癖さから訊ねた。

 老騎士は「違う」と答えた。「我々がお守りするのは、高貴な乙女だ」

 その声の重々しさはクラウスの疑念と反論を封じた。

 そして実際に謁えた女は、その言葉通りの存在だった。墨のごとき黒髪を丁寧に結い上げ、折れそうに細い首筋には控えめな銀鎖がかけられていた。形のよい顎、淡い紅の唇。瑞々しい蕾の年頃の穢れなさで、彼女は微笑んだ。男を知る女とは思えなかった。

「まあ、なんて立派な騎士様方でしょう。どうぞよろしくお願いいたします」

 音楽の軽やかさと春風の可憐さを併せ持つ声が、耳に残った。

 女は森に囲まれた城館の中でもひっそりと息を殺すように生活しており、世話を焼く数人の侍女以外に姿を見せることはなかった。誰も女の素性を語らず、ただ、侍女達は休憩の茶会で「可哀想な方」と、哀れみと嘲りの声音で笑った。「こんなところに幽閉されて、文句も言わず」「馬鹿なのよ」「綺麗なだけのお人形」「楽でいいけれど!」

 クラウスが咎めると彼女たちは漣のように笑った。

 退屈な日々が過ぎ、長い冬の終わりが見え始めた四月の初め、中庭の様子を見に出たクラウスは、頭上から注ぐ小さな歌声を聞いた。不審に思い視線を巡らせば、あの女が、高い窓際で歌っていた。

 ――“嘗て、トゥレに王あり 生涯にわたり誠実な王"。

 古い叙事詩だった。クラウスは半ば呆然とその歌を聞いた。

 やがて女はクラウスに気づくと頬を染め、そそくさと硝子窓を閉じてしまった。クラウスは暫くの間、閉じられた硝子を見上げたままでいた。

 二度目の出会いは、やはり中庭でのことだった。今までにその気配も感じたことのない危険から女を守るために、城館の内部と周囲を一回りすることを日課にしていたが、窓を見上げることだけは、あれから避けていた。

「あら、お若い騎士様」

 女は、前とおなじように驚いた顔をした。が、彼女は前と違って、控えめに咲く白い花に囲まれ、クラウスとおなじ高さに立っていた。閉じられるべき硝子はなかった。

「歩き回っていては、おつとめの邪魔になりますかしら?」

「……いえ、とんでもありません。こちらこそ気がつかず、ご無礼を」

 クラウスは拝跪しようとしたが、女は「立っていて」と言った。「いいの。でも、このことは誰にも言わないで? 侍女は、わたしは部屋で編み物をしていると思っているから」

「承知いたしました」

 クラウスが答えると、女は安堵の息を吐いた。

「ありがとう、騎士様」

 クラウスは己がまだ騎士ではないことを女に伝えたが、女はくすくすと笑うだけだった。

「わたしには、あなたはお若く立派な騎士に見えますわ。ここでは俗世の位などわからないもの」

 女は甘い声音で、言う。

「ちゃんと、お名前も覚えておりますのよ。あなたがクラウス様、もう一人の小父様が――」と、初めの挨拶に一度しか聞いていないはずの二人の名を言い当てた。身分の高い女が一介の騎士の名を覚えているなど、あるはずのないことだった。

「身に余る光栄です、お嬢様」クラウスは愕然と畏まった。「しかし……」

「騎士様では気に障るのでしたら、クラウス様とお呼びしてよろしいかしら?」

 女が笑うと、華奢な喉元の窪みで、髪飾りの銀鎖が揺れて輝いた。

「お嬢様……」クラウスは、その音と光に眩暈を起こしながら、衝動的に口を開いた。「あなたが私の名をお呼びになるのなら、どうか、私にも、あなたの御名をお呼びする許しをいただけませんか」

「それは」

 女はわずかに躊躇った。クラウスはすぐに己を恥じた。女が身分を隠さねばならぬことは重々に承知していたというのに。

 クラウスは拒絶と叱責を覚悟した。

 しかし女は周囲の花々を示し、腕を広げてみせた。

「わたしのことはブランシェフルールとお呼びになって。異国の言葉で、白い花という意味です」

「ブランシェフルール……」

 クラウスは小さな声で繰り返した。呪文か、或いは祈りのような響き。穢れなき純白の花。

 そうよ、と女は笑った。ねえ、クラウス。またここへわたしに会いにいらして、この名を呼んで。



「クラウス、わたし、結婚するの」

 女は夏薔薇の蕾に手を添え、怯えた眸で微笑んだ。

 それは二人が人知れず会い始めてから二月が経った頃だった。他愛ない思い出話、騎士物語、古い歌。様々な言葉を交わした中庭は、六月の日差しの下で、色鮮やかに輝いていた。

 クラウスは言葉を失って女を見た。淡い藍の衣装、艶やかな黒髪、完璧な造形の乙女。二月の間に親しみを増した甘い声が、その時だけは、見知らぬ他人のもののように遠く聞こえた。

「夫は立派な城主様なのですって。その方と、わたしを保護してくださっているアウラ伯の間で話が決まって、昨日、書簡と指輪が届いたわ」

「……まさか」言葉の意味を理解するにつれ、胸がざわめき、血の気が引いた。クラウスは呟いた。「会ったことも、ない相手と?」

「ええ。見て?」

 クラウスは従った。女が胸元に掲げた掌の上で、黄金の指輪が輝く。

 思えばそれは貴族の女の宿命だ。決して特別なことではない。一介の騎士見習いであるクラウスに、その是非を発言する権利はない。だが、跪いて祝いの言葉を述べなければならないと思いながらも、体を動かすことができなかった。

「五日後に迎えがくるわ。この庭ともお別れね」

「ブランシェフルール……」

「わたしは」

 女は震える声で言葉を紡いだ。

「わたしは……」

 聞いてはいけない、と思った。だが、クラウスは黙ったままでいた。

「あなたが好きよ、素敵な騎士様」

 冗談めかして笑おうとした女の眸から、一筋、涙が伝った。

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