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07 少年ハンス

 ここはどこだろう。と、ハンスは深い影の中で思った。

 恐らく尖塔の内部だということだけはわかっていた。掌を汚す土埃は錆臭く、昼に見た赤い壁を想起させたから。息を整えるために、そして不安を和らげるために背を預けた壁は、やはり、錆びた金属の板のようにざらざらしている。

 座り込んで膝を抱えてしまいたいが、そうしたらきっと、一歩も動けなくなる。

 嵌め殺しの細い窓から差し込む月光はごくわずか。翳した手指も影としか見えない。

 闇には強いつもりだった。幼い頃からの放浪で、野外で夜を明かすことには慣れていたから。

 ハンスは帝国の多くの土地の夜を知っている。この辺境の夜闇が、ひどく濃いということも承知していた。だが、どこまで続くとも知れない、荒れ果てた廃墟のような暗闇にただ独りでは、恐くない方がおかしい。

 父なんか放っておけばよかった。酒代を寄越せとか、そうでなくともどうせ碌でもない用事に違いないのだから。知らぬふりをしておいてもそのうち勝手に帰ってくる。その後、どうして探しに来なかったとハンスを殴るかも知れない。

 殴り返してやろうかと、ふと思いついたのは闇のせいだろうか。普段はそんなこと考えもしないのに。

 鼻先を、ぶん、と小さな羽が横切った。蝿か、蜂か、その小さな虫の複眼が、偶然のように月光を跳ね返す。

 ここがどこだか確かめなければいけない。錐の城の立ち入り禁止区域では、時折、行方不明者が出るという。このままでは、自分もその一人になる可能性がある。それに、先ほど襲ってきたあの男が、まだこちらを探しているかも知れない。

 早く安全な場所に行かなければ。とにかく、ここではないどこかへ。

 壁から身を離し、嵌め殺しの窓に近づく。掌に唾を吐いて、辛うじて月光を通すだけの汚れた硝子を拭った。

 遙か下に、小さな灯火が点のように見えた。昼に覗いた窓よりずっと高い。

 月の位置からして既に深夜だ。灯は少なく、建物の形は殆ど見えない。

 とにかくここは塔の中だ。降りる階段を探せばなんとかなるかも知れない。

 再び歩き始めると、靴の裏で砂が擦れる、もうすっかり聞き慣れた足音が大きく響いた。二歩目は、できるだけ、ゆっくりと、出来る限り無音で踏み出す。暫くそうして歩いてみたが、一向に進んだ気がしないことに焦れて、次第に大胆になっていった。手で壁を探り、足元の段差に気をつけながら、進む。

 生物の気配に惹かれているのか、先ほどの虫がついてきているようだ。時折、羽音が聞こえる。ハンスは何度か目を凝らしたが、居場所はわからなかった。

 刻々と激しさを増す夜風が、不意に強く吹き付けた。

 ――ァアアアアアア……!

 その響きに、背筋が凍った。顔を上げるが、視界は闇に覆われていた。

「……え」

 慟哭のような風に含まれた、それは確かに人の声と聞こえた。壊れて潰れた喉が、それでも鳴らす悲嘆の叫び。たった今聞こえたそれが、噂に囁かれる亡霊だと直感した。

 跳ねる心臓に邪魔されながら耳を澄ます。

 低く唸る風の音だけが鼓膜を擦る。

 叫び声は、もう、聞こえなかった。

 壊れた塔を吹き抜ける風が、人の声のように聞こえたのだろうと、頭の冷静な部分では理解していた。だが、この暗闇の中では、もしかしたら、と思わずにはいられない。

 舞い散った砂埃が目に入り、痛んだ。思わず手の甲で瞼をこする。じりじりとした違和感は消えきらない。

 その時、視界の隅に光がちらついた。

 そして、こんこんと、足音が近づいてきた。

 ハンスは息を詰め、じっと様子を窺った。

「この辺だね? ……うん、うん。わかった。見つけたらまた連絡する」と、暢気な声。灯を手に角を曲がって姿を現したのは、左腕に籠手をつけた非対称な人影だった。<隻腕>は、三叉路であるらしいその場に立ち止まり、行く手に迷うように首を傾げる。

「ハンスくん、いるー?」

「……<隻腕>?」

 ハンスが恐る恐る声を上げると、「よかった!」という歓声が返ってきた。

「こんなところで何をしていたの? お仕事が終わる時間に厨房に行ったのに、いなかったから、心配したよ。誰に聞いても行き先を知らないしさ」

 <隻腕>は左手で吊るした硝子灯を上げ、闇の中のハンスを見て笑う。

 ハンスは昼に抱いた違和感の正体に気づいた。硝子越しの火に照らされ、猫のように瞳孔を細くする左の眸。化物退治の異痕だろう。そういうものを持つ戦士を、ハンスは旅の間に何人か見たことがあった。

「……父さんを探しに。そしたら、襲われて」

「襲われた?」<隻腕>は不思議そうな表情をした。「幽霊でも出たの?」

「違います! 人間に」

「……え?」

 <隻腕>は疑問の声を上げ、それから近づいてきた。

 ハンスは動かずに彼を待ち、それから、暗闇の中での出来事を話した。

 混乱していたが、言葉にしてみると単純なことだった。父を探しに塔の方へ向かい、人気のない場所で見知らぬ男に襲われて刃物を突きつけられ、逃げ延びたが迷い込んだ。

 聞き終えた<竜眼>は首を傾げた。

「ハンスくんを襲った人は、急に腕を掴んで剣を突きつけて、そのまま質問したの? 実際に殴られたり、誘拐されそうになったりはしなかった?」

 ハンスは状況を思い出そうとした。男は剣を使ってハンスを脅そうとしたが、それ以上はしなかった。

「でも顔とかは見えませんでした」

「素人かな」

 <隻腕>が呟いた。

「え?」

 ハンスは思わず問い返した。何のことだろうか。剣の扱いか、それとも脅迫か。

 <隻腕>は首を横に振った。

「無事でいてくれただけでいい。ご飯の時、食堂にいなくてごめんね、気がついたら一緒に来たのに……フレッドおじさん、さっき西棟の廊下で寝ているのを見たよ」

「……そうですか」

 ハンスは不機嫌に頷いた。

「うん。あ、とりあえずエルに連絡しないと」

 これ持ってて、と硝子灯を渡される。ハンスは無言で受け取った。

 <隻腕>は掌に収まる程度の金属の板を取り出し、その表面に並ぶ凹凸の幾つかをいじくった。ざざ、と、砂を擦るような低い音がハンスのところまで漏れ聞こえた。<隻腕>は金属板に向けて囁く。

「エル? ハンスくんを見つけたよ。今から帰るけど、ちょっと問題が――」

 <隻腕>は小声でハンスの証言を伝え、最後に「そっちも気をつけて」と付け足した。

「ご苦労」と、奇妙に掠れた声が応えた。ぶつんという何かを断ち切るような響きを最後に、金属板は沈黙した。

 <隻腕>は「よし」と満足そうに頷いて金属板をしまった。

「……今のは?」

「少しの時間、ここにいない人とお話できる道具。古い魔術の産物らしいよ」

「旦那様の声ですよね」

 錬金術師を囲っての古い魔術の研究と実践は、代々の辺境伯の伝統として城内ではよく知られている。特に今代のエアハルト公は熱心らしく、城内の白い灯もその一環だ。

「うん。エルに借りてきたんだ」

 <隻腕>は青い眸を細めて無頓着に笑い、ハンスに左手を差し出した。

 ハンスは硝子灯を渡しながら、青年の金属製の指先が人のものと変わらず細く、なめらかに動くのを見て、ぎょっとした。籠手だと思っていたが、違う。鉄の手だ。

「……あの、その腕」

 <隻腕>は、ああ、と声を上げた。

「これも古い魔術の品。地下の遺跡から掘り起こした鉄人形の腕を、錬金術師が魔法で無理やりくっつけてくれたんだよ。この城に来たのも元々は整備のためでね」

 <隻腕>は硝子灯を受け取った左手を、くるくると動かした。光が踊る。

「本当に隻腕?」ハンスは問い返した。

 <隻腕>は薄く笑った。「昔はね」

「今は、両手があるのに、<ヘルフテ[半分]>?」

「半端者って意味らしいよ、フォルケくん曰く。違和感があるなら<竜眼>って呼んでね、最近はこっちの名前で営業しているから」

「竜眼って、東国の香辛料ですか」

 ハンスが訊ねると、金髪の傭兵は「物知りだね」とハンスの頭を撫でようとした。

 ハンスは顔をしかめてその子供扱いから逃れ、歩く速度を上げた。

「厨房の棚に瓶があるんです」

「あー、そっか」彼は逃げられた手を少し寂しそうに見下ろしてから言った。

「あ、そういえば、昼間、あの騎士様に負けちゃったから、厨房から何か食べ物をくれないかな」

 ハンスは一蹴した。「厨房長に言ってください」

 やっぱり負けたんじゃないか。

「俺に言われても困ります。下端だから」

「残念」

 <隻腕>――改め<竜眼>(ハンスとしてはどちらでもいいが、本人の希望なら)は苦笑した。

 それから彼は不意に視線を上げ、わずかに目を細めた。

「……」

 硝子灯の火がゆらゆらと陰影を刻んでいる。風は相変わらず鳴っている。

「……父さんは、なんでこんなところへ来たんだろう」

 こぼしたのは、会話が途切れて訪れる沈黙を恐れたからだ。声を潜めるのを忘れる度に空洞に響く白々しさにも背筋が寒くなる。

「いつも、うろうろしてばっかりで」

「……ねえ」

 傭兵が口を開いた。無造作な声音に、ハンスは顔を上げた。

 眥に朱を引いた青い眸の鋭い光。殆ど吐息と変わらない囁きが落ちる。

「誰か、いる」

「……え?」

「そこの影に一人、隠れているよ」

 ハンスは泳ぎかける視線だけで、どうするんだ、というようなことを伝えたつもりになった。

 <竜眼>は思案の表情を浮かべた。が、数秒の後には「面倒くさい」と思考放棄を宣言した。

「ちょっと」ハンスは緊張で強張った声を上げた。「今、なんて……!」

「ごめんね、また持っててちょうだい」と硝子灯を押し付けられる。

 受け取った感触に違和感を覚えて見下ろせば、硝子灯と一緒に、鞘に収められた短剣があった。いざという時は戦えということだろうか。冗談じゃない。

「そこにいるのは、誰かな?」

 <竜眼>は無造作に問いかけながら、ゆっくりと進んで行く。

 返事はない。風音の隙間に、息を詰める呼吸音が聞こえたのは幻聴だろうか。

「ずっとそこに隠れててもいいけど、君がこの子にしたことを城主さまに話したら困るよね? あの"奥方"のことを知りたがっているんだって?」

 ハンスは短剣を確かめた。旅の間に貧相な追剥を追い払ったことくらいはある。しかし、剣を持っている相手に、短剣一本で何ができるだろうか。横の傭兵が相手より強いことを願うしかない。

 闇から返答はない。長い沈黙。

 ハンスは視線を彷徨わせたが、自分達以外に動くものを見つけることはできなかった。それどころか、本当に誰かがいたのだろうかという疑念さえ抱く。

「いなくなっちゃったみたい」

 <竜眼>が白けた口調で呟いた。

 彼は「ちょっと探してくる」と言って、直前まで話しかけていた闇へ足を踏み入れようとした。

 その眼前を白刃が閃いた。

 上体を反らして避けた<竜眼>が「わあっ」と声を上げた。

 舌打ちと共に横薙ぎの二撃目。鉄の腕が剣を受け、金属音が風を割る。

 襲撃者は後退したが、<竜眼>は一歩で距離を詰め、服の影から小剣を抜き様に斬り上げる。切先は襲撃者の右腿を裂き、翻って左肩を貫いた。罵声に似た悲鳴が上がる。

 硝子灯の光が届くぎりぎりの縁に、ハンスは初めてその男の姿をはっきりと見た。頭巾つきの外套で顔は見えないが、輪郭から判断するに、青年と呼ばれる年頃だろう。旅用の外套の下は至って平凡な服装だ。城内だけでも、似たような格好をしている使用人は幾らでもいるだろう。握られた長剣の方が場違いじみている。

「残念でしたー。駄目だよ、知らない人が言うことを信じたら」

「……く、そが……傭兵風情に……」

「口が悪いね」

 <竜眼>は男の腹を蹴り、その体を壁に叩きつけた。男の肩から刃が抜け、血が溢れる。

 男は息を詰まらせたが長剣は手放さなかった。灯を受けて濃い影になった頭巾の下で、彼は歯を軋ませた。

 がたがたと震える右手は剣を掴んだままだが、切っ先のやり場を見失ったように揺れていた。

 血を流しながら懐を探ろうとした左手が<竜眼>の剣に貫かれる。悲鳴が上がった。

 ハンスは半ば呆然とその様子を眺めていたが、視界の隅で何か光るものを見た気がして周囲を見渡した。

 赤く錆びた壁と床。嵌め殺しの窓の外は暗闇。

「吝嗇な内通屋が欲を出して慣れない脅迫なんてしちゃったのかな? せっかくだから顔を見せて頂戴? 暴れたら、首を切り落として勝手に見るよ」

「…………、る」

 男が、小声で何かを言った。<竜眼>は問い返したが、繰り返された唸り声も、やはり聞き取れないようだった。

 ハンスは光の正体を見つけた。少し床に小さな銀盤が転がっている。土埃は被っていない。男か傭兵の持ち物が、先ほどの短い剣戟の間に落ちたものか。

 ハンスはゆっくりと近づき、短剣を硝子灯とおなじ手に持ち替え、それを拾い上げた。

 表面には魔法の印が刻まれている。それ自体はありふれたものだ。決められたきっかけで効果を発するしかけのようだ。

 ハンスは銀盤を掲げた。

 男が頭巾の下で視線を巡らせた。頭巾の影の中で、彼の目がハンスの手元に釘付けになったのがわかった。その喉から引きつった笑い声がこぼれる。「そこにあったか」

 その様子に、<竜眼>もハンスを横目にした。その表情から余裕が消えた。

 嫌な予感がした。

「捨てて! それ、たぶん爆破用の魔法盤!」

「え……えっ!?」

 ハンスは慌てて銀盤を手放した。きん、と澄んだ音を立て、金属片が床を跳ねる。

「“炸け――”」言いかけた男の喉から血が迸り、続く言葉は泡と化した。

 それでも銀盤の印は赤く輝いた。<竜眼>が血染めの小剣を投げ出して駆けてくる。その手がハンスを捕まえる直前、ハンスは倒れ伏す男が最期に痙攣する腕を動かすのを見た。血泡を吐く音。殆ど皮だけで繋がっていた頭が転がる。その口元は絶望的に笑っていた。

 炎と爆風が通廊を荒らし、衝撃の中で、足元が崩れるのを感じた。

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