05 少年ハンス
ハンスが戻った時には既に夕刻だった。仕事にかかろうとしたが、アルフレートに「中途半端に戻って来るな、邪魔だ」と追い出され、ついでに父が自分を探していたことを教えられた。
等間隔に蝋燭や魔法の光が灯る廊下を歩きながら、うんざりと考える。
ハンスにとって父とは――
父はハンスの給金を掠め取り、酒蔵番に握らせる。そして泥酔して徘徊し、喚き散らし、時にはハンスに手を上げる。最後の暴力は四日前で、丁度、鎖骨の上を強打された。その箇所は打撲となり、動かす度に痛む。痕はまだ残っている。
父は呂律の回らない声で、度々ハンスに言う。「罰当たりの阿婆擦の股から這い出た癖に、真当に生きられるなんて思っていないだろうな」
幼い記憶の始まりは既に放浪だった。親子三人で寄り添って旅を続けていた。貧しかったが、愛はあった、と思う。凶作の年の冬までは。
飢えのために画材を売り払って尚も飢え、母が死んだ。以来、父はハンスが肩越しに除いていた彼の世界を捨て、同時に未来さえ捨ててしまった。飲まなかった酒を浴び、撫でる代わりに拳を握った。
だが今は少なくとも、飢える危険も、凍える恐怖も、ない。後は貨さえあれば、とハンスは思う。母はもう戻らないが、貨さえあれば、何かが変わるかも知れない。
ハンスにとって父とは――いや、考えるのは、もう、やめよう。
夕食時の食堂にハンスが足を踏み入れるのは、数月ぶりのことだった。
食事の開始前から厨房は慌しく機能し続ける。出来上がった料理を運ぶのも、空の食器を持ち帰って来て綺麗に拭うよう指示するのも、もっと地位の高い召使だ。ハンス達は普段、ひたすら厨房の中で働き続ける。
夕の食事の際には、その用意をする一部の召使や歩哨の当番などを除いた城中の人間が、昔は大広間として使われていた天井の高い食堂に集まることになっている。
城主は襲位と共に多くの決まりごとを変えたが、この古い習慣はそのままにした。嘗ては、化物が活発化する夜に備えた軍議の場でもあったのだと、以前、兵士か誰かから聞いた覚えがある。酒を飲みながら戦いの話をするとは、昔の人間は随分と剛毅だったものだ。
ハンスは周囲を見渡したが、喧騒の中に父は見つからなかった。どこかの卓子に落ち着くか、それとも父を探しに出るべきかと悩んだのは一瞬のこと、鼻先を掠める腸詰の匂いには抗えなかった。
杯を片手に席を立った男と入れ違いに人の間に滑りこみ、大皿の腸詰に手を伸ばす。麺麭と共に頬張れば、腸詰の皮が破れ、口の中に肉汁が溢れた。噛み締め、嚥下する。普段よりも早い夕食だが、昼間の探索で空腹だった。それに、卓子の上の料理は、ハンスが好きなだけ食べてもなくなりそうには見えなかった。
城主の言う通りクラウス・ミリガン卿は横暴ではなかったが、目的のわからない探索自体が不気味だった。
初夏の森を抜け、ハンスが案内した広場には矢を受け絶命した馬が横倒しになっていた。
踏み荒らされた下生えは何者かが争った形跡にも見えたが――それを昨日の出来事、クラウス卿が、<奥方>を伴って訪れたこととあわせれば、想像できる筋書きは単純だった。供を連れた奥方が何者かに襲われ、それをクラウス卿が助けて城へ来たのだろうと。その、奥方が襲われた場所の調査に来たのだろう。どうして城の騎士達ではなく、クラウス卿がその役目を負ったのかはわからないが。
結局、クラウス卿はハンスに森の様子を聞きながら周囲を歩き回り、矢を持ち帰った。随分と長い矢で、通常よりも大きな弓で引くものと見えた。彼が探索を有意義と見たか徒足と見たかは、落ち着いた物腰からはわからなかった。
矢に、生産した工房ごとの特徴があることはハンスでも知っている。狩人や狙撃手ならば、自分の印をつけることもある。実際、今朝あの傭兵が持ち込んだ山鳥にも、白い矢羽に一筋朱を入れた太矢が刺さったままだったし、クラウス卿がまじまじと見聞していた大矢にも、尤もらしい特徴があった。
ハンスは食事を続けた。満腹になるまで食べるのは久し振りのことだった。厨房の下働きの食事が少ないのは、食堂に会する人々が食べ過ぎるせいではないだろうかと思いながら、ハンスも今日はその食べ過ぎる一人として存分に腹に詰め込んだ。
どっと起こった笑い声に振り向くと、少し離れた場所で、傭兵達が騒いでいた。
屈強な男が杯を手に立ち、もう片手に武器を持つ仕草で、空中を相手に立ち回りを演じている。武勇譚に歓声を上げる女中の腰に、別の一人が腕を回す。誰かが演説に野次を入れ、また笑いが起こった。
彼らの輪に、昼間のあの派手な若者の姿はない。父が厨房を訪れた時、ハンスが彼に連れ出されたことは誰かから聞いたはずだ。父は彼に会ったかも知れない。遠目にも目立つあの傭兵は、父を直接探すより見つけやすいように思えた。まずは彼を探そう。
ハンスは最後に麺麭をもう一切れだけ水で流し込み、立ち上がった。どこからか弦楽器の音が聞こえてきたが、楽師ではなく、酔っ払いが私物を弾いているだけのようだ。調子外れの音階は女の悲鳴のような高音に変わり、多方から罵声が上がった。奏者が殴られたのか、鈍い音がして音色が途切れる。
厨房が戦場と化している時間帯、食堂では毎日このような騒ぎが繰り広げられているのだろうか。溜息をついてその考えを振り払い、再び、傭兵達に視線を向ける。
勇気を出し、近づく。五歩の距離まで寄った時、輪の外側で騒ぎを眺めていた何人かが振り返った。
「何の用だ? 入隊希望か? 細すぎるな、もうちょっと食わねえと戦えねえぞ」禿頭の大柄な男が勝手に言って勝手に頷いた。酒が入っているらしく、機嫌はよさそうに見えた。ハンスは彼の太い首から肩、服越しにも筋肉の隆起がわかる腕までの輪郭を見て警戒した。殴られたら痛そうだ。
「とんでもない」ハンスは慌てて首を横に振った。「あんた達の仲間の……派手で、鉄の籠手をつけてる人、どこにいるか知らないですか」
禿頭の男は一瞬、顔をしかめた。「籠手? ……<隻腕>か? 金髪の、頭の螺子が足りてなさそうな若造だろ」
ハンスは正直に頷いた。「そう、その人」
「あいつは俺らの隊じゃねえ」別の一人が、手酌で麦酒を注ぎ足しながら割り込んだ。ハンスより三つか四つしか離れていない年頃の少年だ。ただでさえ細い眼を細め、その表情はあまり友好的ではない。が、どうやらハンスに向けられた不機嫌ではないようだ。
「隊長の周りをちょろちょろしてるが、仲間じゃねえ。一匹狼を気取ってやがる嫌味な野郎だ」と、彼は酒気を帯びた口調で毒を吐く。
禿頭の男が呆れ声で言った。「フォルケ、まだレギーナ嬢のことを根に持ってんのか。ありゃ手前が早まりすぎたんだ」
「うるさい! 次に顔見たら殺してやる」
禿頭はますます呆れ顔をした。「ちょっと黙ってろ。で、坊主、<隻腕>がどうしたって?」
唖然としていたハンスは、急に話を戻されて慌てた。引きつった顔のまま答える。「父さんを探してて。あのひとなら、知ってると思ったんです」
「なんだ、つまんねえ」ぼやいたフォルケを、禿頭が殴って黙らせた。すごい音がした。
「<隻腕>はゲーデ公のお気に入りだ。だいたい公の近くに……」禿頭は立ち上がり、ハンスの目線よりずっと高い位置から食堂の上座を見渡した。「あれ、いねぇな。親父ってのは?」
「画家。酔っ払いの」
「昼に隊長が見たって言ってたな。今は知らんが」
禿頭は仲間に声をかけ、画家を見なかったかと訊ねた。傭兵達は白けた顔で一様に知らないと答えた。続けて、<隻腕>は、と訊ねたが、おなじような反応だった。
「邪魔したな」禿頭が手を上げると、何事もなかったかのようにまた騒ぎが再開する。その切り替えの早さはハンスを感心させた。
徒足かと思い踵を返しかけた時、麦酒の追加を持ってきていた給仕の少女が声を上げた。
「画家なら、塔の方へ行くのをさっき見たわよ。なんだかわけのわからないことをぶつぶつ言っていたわ。気味が悪い」
彼女は顔をしかめてから、ハンスに気がついて「あっ」と声を上げた。
「本当のことだから」ハンスは苦笑いを返した。
同僚や顔見知りから、父について何かを言われることには慣れている。今の父を庇う言葉をハンスは思いつけない。そして現状を変える方法もわからない。貨さえあれば。本当に、それだけか?
“真当に生きられるなんて思っていないだろうな。”
「あまりうろつかないように言っとく。ありがとう、探して来ます」
ハンスは早口で言って踵を返した。
食堂から薄暗い廊下へ出た途端、胸にすとんと自己嫌悪が落ちてきた。
父ではなく<隻腕>というらしいあの傭兵を先に探そうと思ったのは、父に会うのを先延ばしにしたかったからだ。そしてついでに、一緒に来てくれることを期待していたからだ。彼の馴れ馴れしさは、そういった都合のいい想像にぴったりだった。
父は、他人の前ではハンスを殴らない。
本当は会いに行きたくもない。しかし、探さなければ、後で、いつも以上に殴られるだろう。
ハンスは肩の痣に手をやった。歩きながら目を瞑る。再び開いたところで目の前の景色は変わらない。
通廊をぼんやりと照らす灯は壁に埋め込まれた古い機関で、年月によって永く失われたそれらの輝きが甦ったのは、一年半前、ハンスが働き始めてすぐのことだ。騒ぎ嫌いの城主が、点灯式と称して、城内の者と技師だけで朝まで宴に興じたことを覚えている。初めての修羅場に焦って鍋をひっくり返しかけ、アルフレートに怒鳴られたことも、未だ薄れない記憶だ。
ハンスは途中で、誰かが置き忘れたらしい手燭を借り受けた。父はどこまで行っただろうか。ある程度進んで、見つからなければ引き返そう。
やがて目の前に現れた手付かずの暗闇は、城主が引いた目に見えない境界線だ。管理されている区域と、そうれない場所と。塗りつぶしたような闇は、他のどんな標印よりも、はっきりと人を拒絶する。ハンスは暗闇と父親の恐怖を天秤にかけ、結局、更に進むことにした。
昼の記憶を辿りつつ、丁字路を左に曲がる。塔までの道筋なら、実際に見れば思い出せる程度に覚えている気がした。前を行く傭兵に警戒していなければ、周囲を見渡す余裕もあったかも知れないが。
蝋燭の火がゆらゆら揺れ、削り取られた陰影が踊る。己の足音しか響かぬ通廊を二十歩も歩いた頃には既に、来たことを後悔し始めていた。それでも進み、幾つかの岐路を折れ、階段をのぼる。時には探検家の真似事をして昼の足跡を探したが、度々砂埃を乱して残るそれらの殆どはハンスの靴によるものだった。原色の装束で前を歩いていた若者は果たして生身であっただろうかと、不意に考えてしまったのは、暗闇と静寂のせいに違いない。
些細な思いつきは連想の鎖で幻を引き上げる。数多の戦を経たこの城でどれだけの者が死んだのだろう。城内まで攻め込まれた戦もあった。無惨に蹂躙された人々の血の跡は、そのままにされているのかも知れない。無数の回廊、無限の部屋には、見つからぬまま風化した屍すらもあるかも知れない。
例えば、その亡霊が、ひっそりと背後を。
朽ちた腕を今にも伸ばし――
妄想の指先がハンスの首先に触れようかという瞬間、背後で聞こえた音は現実のものだった。
誰かが砂埃を踏みしめる軋み。
「……っ!」
本能的な恐怖。悲鳴は声にならなかった。駆け出す体を抑えられない。手燭の火が激しく踊る。
舌打ちが聞こえた。父ではない! だが、生身の人間だ。
距離を取ったつもりで振り返った瞬間、乱暴に手首を捕まれ、背から壁に叩きつけられた。
息が詰まる。灯色に照り反る鋭い光。刃物だと悟り、今度こそハンスは叫び声を上げた。
取り落とした手燭が甲高い音を立てる。折れた蝋燭の先で火がまだ揺れている。逃げ出そうと暴れたが、鳩尾に膝を叩き込まれた。息が詰まり、盛大に咳をする。鈍痛と吐き気。反射的に腹に力を入れたのは、暴力に慣れた無意識の癖だった。父に感謝する気など起こらないが。
「静かにしろ」知らない男の声が囁いた。「殺されたくなければ、質問に答えろ」
首筋に刃を当てられ、ハンスは息を飲んだ。灯火に、男の影が浮かび上がっている。顔は見えなかった。
どこか遠くで風が哭き、壊れた喉が奏でる悲鳴のような音階が回廊を渡っていく。
「何、を」
「騎士と森へ出かけたな」
「知らない」ハンスは掠れるような声で答えた。「何も見てない」
冗談じゃない。口の堅い人間を探している、とは、こういうことか。こんなのは聞いてない。
知ったことか――ああ、でも、喋ればきっと殺される。どちらにせよ黙っているしかない。
「答えろ!」
男は怒声を放ち、刃を押し付ける。皮が切れる痛みを感じた。これでは喋れないと思ったが、当然、指摘することもできない。酔った父が向けてくる害意よりもずっと研ぎ澄まされた冷たい威圧に血の気が引いていく。
何を問われているのかと、助かるために自然と考える。森で見たもの。横倒しの馬。鴨羽の矢。踏み荒らされた形跡。木々の匂い、野林檎の白い花。高い空と、鳥の影。それだけだ。
「――あの女の正体を、見たか」
ハンスは唖然として目を見開いた。答えられない問いを放たれ、命と沈黙の価値を計る天秤が無意味になった。
「誰、のこと」当たる刃は焼けるように痛む。皮が切れただけだろう、と祈るように考えた。襟元に染みた血が冷えていく。
「奥方と呼ばれている女だ」
「……知らない。俺は、案内を命じられただけで。あの人は、領主様が連れてきた……」
珍しくも狩りを企て、乙女の森を訪った城主が、あの黒髪の女を連れ帰ったのは、春の終わりのことだった。
如何にして彼が女を見出したのかは誰も知らない。供が霧に撒かれ、主の姿を見失っていた間のことだったという。
正体の知れない、だがぞっとする程に美しい女は、城主から金の指輪を与えられ、城に暮らし始めた。
ハンスが知っているのはそれだけだ。その話だって本当かどうか疑わしい。貴人が道楽で囲っている愛人の素性なんてハンスには関係ないし、興味もない。何故、それを、他の貴族でも誰でもなく、ハンスが知っていると思うんだ?
「知らない。俺なんかがそんなこと」もう一度、言う。声は震えていた。
「では何故、お前が選ばれた?」
「森へは、よく、出かけるから。香草を采りに」
答えた途端、ひどく強い夜風が轟と駆け抜けた。
蝋燭の火が、揺れ、消えた。亡霊じみた風の雄叫びに襲撃者が怯む気配があった。
抑える手と剣からわずかに力が抜けたことを感じるなり、ハンスはでたらめに相手を蹴り付けて駆け出した。後押ししたのは勇気ではなく恐怖だった。
振り払おうとして振り回した手が襲撃者に当たり、爪が皮膚を抉る感触があった。罵声か、呻きか、どちらかが聞こえたが、意味は判然としなかった。
ハンスは、もつれかけた脚で、何も見えない闇の中を逃げる。