03 傭兵テオドールレンツ
諸用を終えて城に戻った傭兵隊長テオドール・レンツは、武具庫横の小広場で旧知の同業が騎士と打ち合いをするという話を聞いて、暇つぶしの一環として観戦することにした。
木剣で二本先取。真剣で受ければ戦闘不能か致命傷に到る一撃を寸止めするか或いは実際に叩き込むかすれば一本。大抵の場合は、真剣でないから手加減はいらないだろうという雑な認識の元で行われるから、常識的なようでいて大雑把に野蛮だ。
テオドールとその他の疎らな観衆の前で、騎士と同業は木剣を激しく打ち合わせ、同業が先に一本取った。勇猛で名を馳せる、熊のように大柄な騎士の喉元に、傭兵風情が切先をぴたりと寸止めしてみせる様は、気分のよい見せ物だった。しかし試合自体は一対二で騎士が勝利した。
騎士の剛直かつ正統な剣術と、傭兵の邪道だが見栄えがする剣技が対照的で、観戦向きの試合ではあった。テオドールとしては、同業が負けるのを見るのはおもしろくないが、勝つところを見たところで何か新鮮味があるわけでもない。
試合を終えた傭兵は兜を取ると、負けを気にした風もなく、敵手だったヴィルヘルム卿と一言二言、何やら楽しそうに話をしてからテオドールの方へと寄ってきた。
武具庫の落とす影から午後の光の下へ現れた彼の、黄金の髪と鎖帷子がきらきらと煌く。鮮やかな青の眸の片方、左眸だけが蜥蜴か猫のそれのように瞳孔を細くした。奇異な眸は昨年の化物退治の際に受けた異痕だ。
その眸と、古い魔術の遺産である鉄の左腕から、この若者は錐の城ではおおよそ、<竜眼[オージェ]>或いは<隻腕[ヘルフテ]> と呼ばれている。最近は<竜眼>の名を気に入っているようで、以前、是非ともそう呼んでくれと言ってきた。それだと、異痕が消えた後は、また新しい呼び名に変えないといけなくなりそうなものだが。
「わざと負けたな」
テオドールは小声で言った。
古い馴染みだ。実力はよく知っている。
「そう?」
<竜眼>は首を傾げた。その姿にはもう、試合の名残は何もない。
「何とぼけてやがる。息も切らさないで」
「肩を打たれた。痣になるかもね」
「そんなものが怪我の内に入るか」
テオドールが呆れて言うと、<竜眼>は「手厳しいな」と苦笑した。
それから、彼は、着替えてくると言って踵を返した。軽い足取りに鎖帷子がちゃらちゃらと鳴った。
周囲の観衆は既に散りつつあった。テオドールが何とはなしに視線を巡らせると、端の長椅子で従士に鎧を解かせているヴィルヘルム卿と目が合った。テオドールは一瞬だけ迷った後、騎士の長椅子へ近づいた。
ヴィルヘルム卿のいかつい額には汗が浮かび、肩は未だ荒く上下している。勇猛で知られる騎士殿もそろそろ四十歳に近い。さすがに歳で体力が落ちてきたのだろうか。それとも、戯れに本気で挑んだものか。
「やあ、騎士殿。ご機嫌麗しゅう」
「お前も挑みに来たのか?」ヴィルヘルム卿は従士から手拭を奪って額を拭いた。
テオドールは「とんでもない」と首を横に振った。相手は加減を知らないし、戦場のどさくさ以外で騎士や貴族を傷つけると後々面倒なことになりかねない。退屈極まりない警備任務に暇つぶしは欠かせないが、危険や面倒が伴わない限りにおいての話だ。
「戦場で生き残るための心得は、正々堂々と戦わないことと、自分より強い相手とは真正面からぶつからないこと。ようするに一騎打ちはしないことです」
「つまらん」騎士は吐き捨てた。
「今の試合はどうでした?」テオドールは武具庫を横目にした。「あいつとは古い馴染みでしてね、まあ、商売敵でもありますが、技量は認めざるを得ません」
「確かにいい腕だ、礼儀を知らんが。あの容姿と不遜さは、どこぞの貴族の私生子か? 似たような顔を昔どこかで見た気がするぞ」
ヴィルヘルム卿は肩を竦めた。従士は彼の脚甲を解き終わり、それを長椅子に置いた。<竜眼>が武器庫から借り出した具足とは違い、彫物をされた鉄板は丹念に磨き上げられたものだ。つまり、使い込まれた実戦用の戦装束だ。この騎士殿が悪い意味で常在戦場だという噂は本当なのだろう。
「さあ、そんな話は聞いたことがありませんね」テオドールは目を細めて言った。「ひとの強さの理由は、血筋だけに左右されるものではないとは思います」
「まあいい、戦場では身分が無意味になることもある」ヴィルヘルム卿は訓練場を睨んだ。「そもそも戦などそう起こらんが」
「平和ですから。いいことだ」テオドールは眉根を寄せて言った。
「お陰で随分と腕が鈍った」ヴィルヘルム卿は心底不服そうに言った。
テオドールは、その悩みは彼自身のせいだろうと思ったが、賢明にも沈黙を保った。この歴戦の騎士は戦場で味方にいる分には心強いに違いない。しかし、訓練と実戦の区別を必要最低限にしかつけない癖がある。
「お前もそうだろう」とヴィルヘルム卿はテオドールを見た。
「何のことですか」テオドールは愛想笑いを浮かべた。
「戦を求めるなら余所へ行けばいいものを」ヴィルヘルム卿は言った。その口調に悪意はなく、単純に呆れているようだった。
テオドールは返事に困って目を逸らした。血に飢えているつもりはないが、生きるためには仕事、つまり多くの場合には戦が必要だ。今はクレイグ荘園の警備役をしているが、少し前の戦で出してしまった損害を回復するまでの繋ぎのつもりだ。
「じきに出て行きますよ。秋には契約も切れます」
テオドールは投げ遣りに答えた。
田舎の城の警備役は楽な仕事だ。しかし、何事も無く平和に過ぎる日々は時に、吐き気を伴う焦躁を誘う。結局は戦場を求めてしまうということか。
不意に、解き終えた鎧を布に包もうとしている従士と目が合った。彼は身分のある者がそうでない者に向ける独特の表情に、どこの馬の骨とも知れない傭兵風情が主人と対等に話をしていることへの不満まで滲ませている。わずかな沈黙の後、従士はふいと無言で具足に視線を落とし、作業を再開した。
「どうだろうな」ヴィルヘルム卿は意地悪く言った。「俺は、エイブラム公が亡くなった時、この土地を離れるつもりだった」
「それが何故、今も?」テオドールは社交辞令として聞き返した。
「若君――エアハルト公は人を飼い殺すのがうまいのさ。もしもお前が有能なら、じきにわかる」
テオドールは短い沈黙の後、「有能なつもりですよ、ある程度は」と答えた。己の評価には、この城で暇を持て余すようになったきっかけの事件を加味しないわけにはいかない。半年前、あの大きすぎる失敗。
最後の仕事は悲惨だった。木端貴族のお家騒動に関わって小さな砦を陥としたところ、化物が出る騒ぎになって、敵も味方も境なく死んだ。金を払ってくれるはずの貴族連中まで死んでしまったので、残ったのはわずかな準備金だけだった。
調査官に関連を知られては面倒なことになると、慌てて辺境へ逃がれたはいいが、余力も資金も、そもそも仕事になるような戦乱もない。止むを得ず、村々からの掠奪で糊口を凌ごうという間際に持ちかけられたのが、この城の警備役という職だった。危険と比べて割のよすぎる年金と、不自由のない待遇。この上ない幸運に一も二もなく飛びついた。辺境伯の直接の子飼いとなれば、まあ、一時しのぎとしては悪くない。
半壊した隊を立て直すには絶好の機会だった。が、クレイグ荘園に腰を落ち着けて暫くすると、過酷な死地と平穏この上ない田舎との落差にやられてしまったものか、すっかり牙の抜けてしまったような有様の者が多く出始めた。槍兵のイェルクなど、この前、金物屋の娘とささやかな結婚式を挙げて、すっかり家業を継ぐ気でいる。
隊に残ると明言した部下達と共に兵の訓練を再開したが、再び実戦に出られるようになるまではまだ時間がかかる。城主の許可を得て集めたばかりの新兵に至っては、基礎教練さえ終わっていない。
無意識にしかめ面をつくっていたテオドールに、ヴィルヘルム卿はにんまりと笑った。「いいから、秋まで暇なら一度は打ち合いに付き合え」
「騎士殿がそうおっしゃるなら、しがない傭兵風情としては従う他にありません」テオドールは慇懃に礼をした。「お相手として力不足でなければよいのですが」
「腕に自信はあるのだろう、あの御伽噺の英雄[テオドール・レンツ]を名乗るなら」
「テオドールは本名ですよ。餓鬼の頃、その英雄と比べて随分とからかわれまして。いっそ、堂々と名乗ってやろうと思ったまでです」
ヴィルヘルム卿は大笑して立ち上がり、「ではな」と踵を返した。
従士が慌てて武具袋の紐を縛って主人を追いかけた。
暫くの後、<竜眼>が戻って来た。彼は色鮮やかな衣装の裾を靡かせて、何の悩みもなさそうに鉄の手を振ってみせた。
テオドールは口を開いた。「次は俺も殴られないといけないらしい」
「えー? ぼくがやるよ。あの騎士様なら、また遊んでもいいかなと思う」
「庇われるつもりはないぞ」テオドールは顔をしかめた。「それに、あの騎士殿はどうせ忘れるだろう。貴族様方は下々と交わした約束など気にも留めないからな」
傭兵稼業を始めてから今までに何度、仕事の内容や条件について、分の悪い言い争いをしたことか。それらの大半が、雇い主の契約不履行だ。思い出して溜息をつく。
「あの騎士さまは、そういう風には見えないよ」<竜眼>が言った。
「この場合は忘れてくれた方がいいんだけどな」テオドールは答えた。
二人はすっかり人の姿が見えなくなった小広場を後にし、建物の中へ入った。
奇怪で堅牢な錐の城の内部は、常にひんやりと冷たい。限りなく薄く拡散した亡霊に抱かれているようだ。魔法の灯や蝋燭があちらこちらでちらちらと瞬いている。しかし、高い天井は淀んだ闇に隠されている。古い城塞は総じて陰鬱なものだ。
緊張感のない足音で、<竜眼>がついてきていると知れた。後ろに三歩、右に半歩分離れた、いつもの距離。<竜眼>の方が年上だから、昔は彼の後を歩く方が多かったが、いつの間にか逆転している。
ねえ、と、声が背に当たる。
「きみは、うまくやっているよ」
テオドールは一瞬、息をとめた。
「そうだといいんだけどな」と、平静を装って肩を竦める。「お前こそ、よくこんな楽な仕事を見つけてきたもんだ。退屈で死にそうだよ」
「クレイグ公には前にも雇われたことがあるんだ。待遇もよかったし、あの仕事には満足してもらえていたから」
「確かにエアハルト公はいい主人だ。俺達のことを飼い犬程度には思ってくれている」
「機嫌が悪いね、どうしたの?」
<竜眼>の声が翳った。顔を曇らせているのだろうと、見なくてもわかる。
テオドールは「まあ、気にするな」と言いながら、靴の踵を擦り合わせる。乾いた泥が落ちた。
「暇なんだ。ほら、殆ど待機だから」
「ああ。無理に頼んで悪かったね。でも、ちょうどきみの隊が近くにいたから」
「……いや、助かった。感謝している」
テオドールは言い澱んでから呟いた。
待遇に不満は何もない。ただ、なんとなく、飼い殺しにされている気がする。この仕事を紹介してきた<竜眼>に他意はないだろうが、雇い主の方はわからない。数年前の内戦後でどこの諸侯も正規軍が半ば機能麻痺しているのは確かだが、こんな辺境の地に、常備兵以上の警備役が必要とは思えないからだ。まさか数百年前よろしく、東の森の遥か向こうから、化物が溢れてくるというわけでもあるまいに。
テオドールは<竜眼>を振り向いた。「まあ、時々、街には出るけどな。次は連れて行ってやるよ」
「うん。……」<竜眼>が不意に廊下の先を見た。
テオドールは遅れて彼の視線を追った。
行く手に男が立っている。白髪交じりの髪は乱れ、背は丸まっている。彫りの深い顔立ちは赤らみ、ふらつく足取りと併せて見るに、相当に酔っているようだ。
確かあれは――と、テオドールは記憶を探った。個人的に知っている人物ではないが、悪い意味で有名人だ。
前公のお抱えだったという画家だ。彼は奥方に恋慕し追放されたが、十数年も消息を絶った後、エアハルト公が所領を継ぐのを待っていたようにふらりと戻ってきた。それからは絵を描くことも殆どせず、酒を浴び、城内を徘徊するばかり。
不安定な足取りで彷い歩く姿は、この古城に染み付いた淀んだ冷気が実体となったようだ。
「知ってるのか?」テオドールは小声で訊ねた。
「まあね。結構、昔のことだけど」
「わかった」テオドールは一言で<竜眼>の言葉を遮った。
画家は、傭兵二人の姿を見つけると、ずかずかと近づいていた。その表情は剣呑だが、目の焦点が合っていないように見える。テオドールは彼がすぐ目の前に立つまでに二度、石床の継ぎ目に足を引っ掛けて転ぶのではないかと心配した。
「息子はどこにいる?」
男はかすれた声で言った。息と共に酒の臭気が撒き散らされた。
テオドールは、彼の酔いは“相当に”では済まないと認識を改めながら、<竜眼>を横目にした。少なくとも自分が画家の息子をどうこうした覚えはない。
<竜眼>は首を傾げた。「お昼まで一緒にいたよ。少し用事があって」
画家は不快そうに鼻を鳴らした。「あれは俺の息子だぞ」
<竜眼>はわずかに表情を曇らせた。「声をかけるべきだったかな。心配させてごめんね」
「心配!」画家が上げた声は石造りの廊下に谺した。急な大声に、テオドールは、この男は本当に狂っているのではないかと思った。
画家は言った。「ああ、心配しているさ。あいつが逃げ出しはしないかと。本当に戻ってくるんだろうな」
「逃げる理由があるの?」<竜眼>が問うた。「このお城に、あの子が逃げたいと思うようなこわいものがいるなら、ぼくが退治してあげるのに」
「おい、物騒なこと言うな」テオドールは慌てて口を挟んだ。
<竜眼>の冗談めかした軽い口調に、本当に相手をこの場で斬り斃しかねない響きを感じたのだ。彼は派手な装いの影に小剣を隠し持っている。
「だって、お化けが出るって噂があるでしょう?」<竜眼>は不満そうに言った。「夜になると、呻き声が聞こえるって」
「そんな噂、どこの城にだってあるだろ」
テオドールは<竜眼>を睨んだ。酔っ払いの気を昂ぶらせるべきではないし、狂人を挑発するべきでもない。
<竜眼>は意を汲んだのかどうか、悪びれた様子もなく言った。
「いつものように森へ出かけてもらうお願い事をしたんだ。ぼくは昼過ぎに騎士さまと試合の約束をしていたから、代わりに」
画家は数呼吸の沈黙の後で「そうか」と吐き捨てた。しかし声からは直前までの無謀な大胆さが失われていた。
「戻ってくるのなら、いい」
「うん、ごめんね」<竜眼>は笑った。「でも、あまりあの子をいじめちゃ駄目だよ。ぼくが頼んだ用事を聞き出すようなことも、ね」
猫撫で声の底にざらつく鬼気に、今度こそ画家は鼻白んだ。
彼は、お前には関係ないというようなことをもごもご言うと、唾を吐き捨て、二人に背を向ける。
テオドールは、よろめきながら遠ざかる背中を見送って溜息をついた。脅されて引き下がるのだから、あの画家にも正気の部分が残っているということだろう。
「狂人をからかって楽しいか? 画家の子供と何をしてたんだ」
「ぼくが子供好きなのは知っているでしょう?」<竜眼>は声を落とした。「それに、問い詰められたら困るから。あの子はエルの内緒のお願いで出かけているんだ」
「……時期からして、クラウス・ミリガン卿の件か」
「うん。遍歴の騎士様が西の森に用があるというから、道案内を頼んだ」
「平民の子供に? 召使ではなく?」
「そう。ああ、人選の基準はぼくも知らないよ。呼びに行っただけだから」
テオドールは顔をしかめた。<竜眼>の口の軽さを咎めるより先に、城主の思惑が気にかかったのだ。
旅の途中の高名な騎士が、迷い出たイングリット嬢を助けて訪れたことは、既に城中に知れ渡っている。騎士の方は知らないが、あの女も狂人の類だ。ひどく美しい黄金の眸は茫洋とけぶり、時折鋭く煌いたかと思えば信念じみた狂気を宿す。城主の愛人だが、妻を名乗っており、城主自身もそれを咎めないという点に置いても、下手に関わるのは得策ではない。ゲーデの姓を名乗ることを周囲が許しているということは、恐らく、城主の血族ではあるのだろう。ますます関わるべきではない。
何にしろ、高貴な身なりの女を森で見かけて、捨て置くわけにはいかなかっただろうが。
「頼むから、内緒とか秘密とかいう言葉の意味を思い出してくれ」と上の空に言いながら、<竜眼>の発言について思案する。動かせる駒の数に困るはずもない辺境伯閣下が、何故、画家の子供を指定したのか。
「で、噂の騎士殿は、森へ何をしに?」テオドールは不機嫌と無関心を装って訊ねた。
「知らない」<竜眼>はあっけらかんと答えた。「難しい顔をしているね」
「そりゃあそうさ。内密だろうが何だろうが、少なくとも画家の餓鬼よりは先に、俺達に話が来て然るべきだろう? 待機任務に飽き飽きしてるんだ。今だったら、子供のお使いでも何でも喜んでやってやるのに」
「今日の午前中のことだから、きみは留守だった。拗ねているの?」
「拗ねてなんかない。おとなしくしているつもりもないけどな」
テオドールは首を横に振った。相手は、その声から削ぎ落とし切れなかった粗暴な響きに気づいたに違いない。
<竜眼>は首を傾げ、鉄の左手で、隠した小剣の柄に触れた。彼は、玩具をねだる子供とも、悪戯を窘める親ともつかない声音で問う。
「テオヒェン、何をするつもり?」
「……その呼び方、威厳がなくなるからやめてくれよ」
テオドールは振り返らずに続けた。
「まあ、暇つぶしかな」
<竜眼>は笑い声を立てた。
「それなら、ちょうどいい仕事を譲ってあげる。あの騎士様に興味があるなら楽しいと思うよ、宿木の矢隊のレンツ隊長」