表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/63

02 少年ハンス

 錐の城に久々の客人が訪れているとあって、厨房長のアルフレートは上機嫌だった。彼は朝早くから厨房に立ち、丸々太った山鳥を、彼が知っているうち最も複雑な方法で料理し始めた。ハンスはその手伝いで普段よりも余計に忙しく働いていた。

 その鳥は、半年程前から城に居ついている傭兵のうち一人が禁猟区で戯れに撃ち取ったものだった。本来であれば厳罰に値するその傭兵の所業は、城主に献上された獲物の見事さによって咎めなしとされた。どころか、滅多にない素晴らしい食材に上機嫌の厨房長から摘み食いを許されたのだから、下働きのハンスとしてはおもしろくない。しかも、それを渡す役目まで仰せつかってしまった。

 朝から晩まで雑用に走り回り、時にはアルフレートの丸太のような腕で小突かれるハンスは、来客用のご馳走の摘み食いなんて一度もさせてもらったことがない。食事が粗末ということは決してないが、育ち盛りの十三歳の旺盛な食欲と好奇心は度々不満を訴える。

 問題の傭兵は昼食の準備が本格的になる時間帯よりも少し前に現れて、厨房の入り口から、立ち働く人々の様子を物珍しそうに眺めていた。端正な容貌と逞しくも靭やかな長躯を併せ持つ青年で、歳の頃はハンスより十は上だろうと見られた。輝くばかりの金髪と、色鮮やかな丈長の装いが、廊下の薄暗さから浮いている。

 汁の味を見ていた厨房長が、「よし」と頷いた。

 ハンスはアルフレートから料理の鉢を受け取って傭兵の元へ向かった。

 傭兵はハンスを見つけると、自分の場所を示すように手を上げた。その左腕は肩から指先までが鈍く光る鉄甲に覆われている。ハンスは用心深く近づいた。あの腕で殴られでもしたら、アルフレートにされるよりずっと痛いに違いない。

 社会の規範の外で武力を売り物にする輩を相手にする時は警戒しなければならない。得体が知れないということでは御伽噺の化物や悪魔と何も変わらないし、目の前に実在する分だけ御伽噺の化物や悪魔よりもずっと危険だ。

「どうぞ」

「ありがとう」傭兵は丁寧な手つきで鉢を受け取った。彼が指先でまだ熱い鳥肉を裂いて口に放り込む表情があまりに幸せそうなので、ハンスはやはりこれは不条理なのではないかと思わずにいられなかった。

「食べる?」

「え」

 ハンスは思わず声を上げた。冗談ではなかったようで、傭兵は片手でハンスに鉢を差し出しながら、もう片手の指についた汁を舐めとった。

「熱いから、火傷に気をつけて」

 ハンスは恐る恐る受け取った。煮込んだ赤茄子と香辛料の香りが鼻先を漂い、生唾を誘った。

 傭兵が身をかがめて囁いた。「代わりにお願いがあるんだ。西の森に詳しい子がいるって聞いたんだけど、呼んできてくれないかな」

「……西の森?」

 それはたぶん自分のことだ、と思った。元々が旅の画家の子供であるハンスは、クレイグ荘園の周辺で育った他の下働き達よりも野外に慣れているため、アルフレートに命じられて森へ香草を取りに行くことが度々あるのだ。霧に囲まれたことも何度かあるが、ハンスはどこまでもおなじように見える森の中の、例えば木の幹の模様だとか足元の石が泥に埋まっている具合だとかの些細な特徴を正確に覚えていて、似たような景色に惑わされることなく帰りつくことができるため、重宝されている。

 傭兵はわずかに目を細め、声量を抑えて言った。「エルから秘密の用事があるらしいよ」

「……エル?」ハンスが困惑に表情を曇らせると、相手は長身を屈めてハンスの耳元に口を寄せた。「エアハルト閣下。東辺境伯、クレイグ公、ゲーデ公、この錐の城[アレンブルク]に坐す、当代の冠なき東の王」

 ハンスはぎょっとして傭兵を見上げた。

 傭兵はにこにことハンスを見ていた。貴公子じみた端正な容貌、人懐こい笑顔。眦に朱を引いた切れ長の目だけが本気の色をしている。その眸に違和感がある気がするが、薄暗がりではわからない。

 傭兵はハンスが言葉を失っているうちに姿勢を正し、厨房の奥に向かって手を振った。「おいしかったよ。鳥また獲ってくるねー」

 アルフレートが振り向いて親指を立てた。まるで禁猟区での狩りを黙認しているようだが、彼は優れた食材のためなら多少の問題には目を瞑る。或いは、どうせ領主の腹に収まるのなら、経過などどうでもよいと思っているのかも知れない。

 傭兵は怒られなかったことで機嫌をよくしたらしく、表情を明るくした。凛々しげな容姿と子供のような振る舞いが妙に噛み合わない。足りない[・・・・]のだろうか? 普通の社会で生きていけないような人物が傭兵という職に活路を見出すことは珍しくない――いや、彼の青の眸には、針のように鋭い知性の光があった。見間違いではないはずだ。

「ねえ、アルおじさん。この子を借りていい?」

 唐突な言葉に、ハンスは再び傭兵を見上げた。彼が探している子供が自分であると言った記憶はない。傭兵はハンスの灰色の目を覗き込み、知っているよという風に笑った。

 アルフレートは顔をしかめた。

「うちの雑用を変なことに巻き込むつもりじゃねえだろうな、隻腕」

「遊び相手を探しているんだ」

 傭兵は背後からハンスの肩に両腕を回した。肩の打撲が鈍く痛み、鉄指の冷たさに鳥肌が立つ。

 見上げれば、相手は邪気なく笑い返してきた。

「冷めちゃうよ」

「……ありがとう、ございます」

 ハンスは鳥肉を口に運んだ。確かに素晴らしく美味しかったが、傍の会話が気にかかって、素直に満足することができなかった。このような状況でなければ至福であったに違いない。

「こいつはお前と違って忙しいんだ。仲間の徒飯食らいどもはどうしたんだよ」

「レンツ隊長がどこにもいないんだ。用事があったのに」傭兵は不満そうに言った。

「出かけてるんだろ。昨日、あいつに弁当つくってやったぞ。仕入れたばかりの腸詰を使ってな」アルフレートは顔をしかめた。「ろくでなしどもは他にもいるだろうが」

「まあね。でも、仲間じゃあないよ。ぼくはひとりでやってるんだ。レンツ隊長の隊とは関係がない」

「知るかよ」

 傭兵は結局、今度は鳥に加えて若鹿を条件にアルフレートを頷かせ、ハンスを連れて厨房を出た。

 暗い廊下を歩く途中で、ハンスは「何をすればいいんですか」と訊ねた。

「秘密の道案内」傭兵は答えた。「狩人は酒飲みだし、口が軽くて、誰かに何かを聞かれたら、疑問にも思わずすぐに答えてしまうから。君はどう? あ、名前を教えてくれると嬉しいな」

「ハン……」ハンスはひどい危機感を覚え、口を噤んだ。

 内心で、今の言葉を吟味する。言外に沈黙を求められている。そして喉元には見えない刃物を突きつけられている。

 ハンスはぞっとして傭兵を見上げた。

「うん」傭兵は満足そうに頷いた。「君は狩人よりも口が堅いみたい」

 振り向いた青の眸は、猫科の肉食獣の笑みだった。ハンスはそれでこの瞬間に、自分が彼の探し人として合格したことを知った。なんて身勝手なんだ。急に呼びつけて、試して。とはいえ抗議する度胸はなかった。今のことで実感した。普通に話が通じるように見えても、この青年も、物騒なならず者なのだと。

 一瞬の恐怖から解放された居心地の悪さを誤魔化すために髪を撫で付けてみる。父親譲りの硬い髪は跳ねるのをやめない。

「ハンスといいます。本当に旦那さまが呼んでるんですか」

「うん」傭兵は元通りの暢気さで頷き、鮮やかな上衣を翻して進む。変な格好だ。傭兵らしいといえばそうなのかも知れない。

 ハンスは今までよりも距離を取って彼の後に続いた。

 古い石造りの廊下は薄暗いが、一定の間を開けて魔法の灯が配置されているので、すれ違う人々の表情が見えない程ではなかった。細い窓からは昼前の陽光も差し込んでいる。

 錐の城は嘗て国境が今よりも内側にあった頃、その最前線を守るために築かれた城砦だ。古の人々が基礎を築き、果てしない戦乱の間に幾度も放棄と占領が繰り返された。様々な文化の様式で増改築が行われた内部はひどく入り組んでおり、誰も全貌を知らないだろうと噂されている。きっと、主であるエアハルト公さえも。

 傭兵はハンスが知っている道と知らない道を通り抜けた。幾度か岐路を折れ、せいぜい三階層分の階段をのぼったと思ったが、窓から吹き込む風は冷気を帯び、大地は遥か眼下に霞んでいた。

「尖塔……?」

 ここに入るのは初めてだ。今は滅びた民族が建てたこれらの塔は錐の城の外観を特異にしている要因そのものだが、内部の道筋が複雑であり行方不明者が絶えなかったために、長らく封鎖されている――それでも、好んで立ち入る者は皆無ではないだろうが。

 亡霊が出るという噂を聞いたこともある。夜毎に嘆きを風に乗せて哭く、恐ろしく醜い老婆の霊。何代も前の城主に幽閉されたまま放置された尊い囚人は、人によって、城主の愛人であるとも、母親であるとも言われている。

 壁も床も表面がざらざらした赤い石を刳り貫いてつくられたように見えた。雨粒の跡を残した砂埃が床にこびりつき固まっていて、歩く度に靴裏で擦れ音を立てる。木窓は朽ちて落ちかけていた。

「この城は探険し甲斐があって退屈しない」傭兵は言った。「覚えておけば、いざというときに役立つかも知れないよ。たとえば、こわい誰かに追われている時だとかに」

「……はあ」

 ハンスは、そんな機会は恐らくないだろうと思いながら頷いておいた。

 崩れた床を迂廻し、古い壁と、反対側よりはまだ新しそうな壁の間を潜り抜ける。空気は乾いており、砂と錆びた鉄の苦い匂いがした。ハンスはじきに道筋をすっかり見失った。どことも知れぬ通路を歩きながら、この光景は父の絵に似ている、と思った。まだ父が酒瓶ではなく絵筆を握っていた頃、稀にこのような正体の知れない迷宮の絵を描くことがあった。

 赤錆びた壁と砂色の空、今にも身を投げてしまいそうに、窓辺に佇む黒髪の女。

「エルは部屋にいる?」

 傭兵の声でハンスが我に返ると、二人はいつの間にか、綺麗に掃除された廊下を歩いていた。すぐ間近に黒い胴衣の騎士がいて、あからさまに嫌な顔をしている。巨人か熊のようなヴィルヘルム卿。彼はすぐ傍らの扉から出てきたばかりらしい。

「俺はお前の案内係ではないし、クレイグ公はお前の遊び仲間ではない」

「木剣で二本先取、負けたら厨房から何か美味しいものを盗んでくる」

「受けてやろう。エアハルト公は中だ。無礼のないよう気をつけろ」

 騎士は顎鬚を擦りながら去って行く。その厳めしい目元に一瞬浮かんだのは狩人の笑みだった。側に控えていた従士が小走りにその後を追う。

 ヴィルヘルム卿は勇猛すぎるために稽古試合でも手加減ができず、つい最近も二人の腕を折ってしまったのだと噂されている。ハンスは白布で腕を吊った騎士を見なかったので本当とは思っていなかったが、考え直すべきかも知れない。

 傭兵がくすくす笑った。「あの人は最近、木剣で殴る相手がなかなか見つからなくて苛々しているんだ。こわいねー」

「盗みはやめてください。よく見張ってなかったって怒られます」

「大丈夫。誇り高い騎士さまは、お城の厨房からものを盗んだりしないから」

「勝つつもりなんですか」ハンスは疑わしげに聞いた。

「うーん、じゃあ、負けておこうか」傭兵は応えてから扉を叩いて、名乗った。「マクシミリアンだ。入っていい?」

 一呼吸の後で入出を許可する返事があった。傭兵は扉を開いた。

 ハンスは部屋の様子をまじまじと眺めた。下働きが城主の私室に入る機会など滅多にない。

 暗い色調で揃えられた調度は想像していた煌びやかさではないものの、やはり知らない世界の光景だった。ハンスたちが走り回っている区画のような雑然さはなく、堅牢な家具と、厚い織物が、計算しつくされた配置で置かれていた。卓子の上には白百合が飾られていて、むせ返るほど濃い香りを漂わせている。

 まだ昼前だというのに閉ざされた窓帷が、陽光を赤く透かしている。

「よく来てくれた」部屋の主人にして城の主人、クレイグ公エアハルトは、窓際の椅子から二人に愛想よく笑いかけた。淡い金の髪を女のように結い上げ、黒の衣装の上にゆったりとした濃紺の上衣を羽織る姿は、薄暗がりでもぞっとする程に色が白く見える。

 これほどまでに間近で貴人を見たのは初めてだった。その洗練は、自分たちとは別の生き物であると信じるに足りた。

 傍らの小卓子には古い書物が置かれている。ハンスは文字を読めないので題字はわからない。だが、最もよく見かける書物である女神の聖典ではないということだけは一目で知れた。

「言いつけ通り、森に詳しい子を連れて来たよ」

 傭兵はハンスの背をそっと押して城主の前に立たせた。

 ハンスはこういう時に相応しい挨拶を知らなかったので、不器用に頭を下げて「こんにちは、旦那さま」とだけ言った。

 クレイグ公は翠の眸を親しげに細めた。

「名前を聞いて構わないかね」

「画家フレデリックの息子ハンスです。厨房で働かせてもらっています」

「彼の子供か」クレイグ公は驚いたように呟いた。「前公は彼の絵を愛好していた。以前、彼から贈られた作品は……いや…………さて、ハンス。そこの傭兵が私の意図を正しく酌んだ上で君をここへ連れてきたのなら、君は西の森をよく知っているということになる」

 ハンスは緊張して応えた。

「はい。香草を摘んでいる間に霧が出ても、迷わずに城まで帰り着くことができます」

「素晴らしい」クレイグ公はハンスの返事を気に入ったらしかった。「君にやってもらう仕事がある」

 ハンスは恐る恐る内容を問うた。

 城主は答えた。

「何、難しいことではない。客人の案内だ。クラウス・ミリガン卿が昨日からこの城に滞在している。彼はある役目のために旅をしているが、訳あって、内密の内にあの森の探索を必要としている。彼に同行してもらいたい」

 ハンスは「はい」と頷いた。断ることができるはずもない。

「立派な騎士、なんですよね」

 そうであっていいと思いながら尋ねた。粗暴な貴人と二人きりだなんてごめんだ。

「そうとも、噂に名高き高潔の騎士だ」

 クレイグ公は、ハンスの心配を見通したように薄く笑った。

 意地の悪い表情が似合う人だ、とハンスは思った。そのような感想を誰かに聞かれたら、怒られるには違いなかったが。

「もしも彼にひどく扱われるようなことがあったら、私に言い給え。子供を泣かせる怪物は退治してあげよう」

「それはぼくの仕事だ。取らないで欲しいな」

 傭兵が口を挟んだ。

 ハンスは反応に困ったが、クレイグ公は苦笑で悪ふざけを切り上げ、ハンスに、昼を過ぎてすぐに西門で待つようにと言った。

 ハンスは頷いた。

 城主は探索の範囲を説明し、ハンスが理解したことを確認してから退室させた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ