01 騎士クラウス・ミリガン
「我が家に仕える徴税官が、不幸な事故でいなくなってしまいましてね」
東の国境に接する広大な領土を治める年若い辺境伯がそうこぼしたのは二月前、アウラ伯が催した宴でのことだった。
春の訪れを祝うという名目であったが、伯の令嬢を社交界にお披露目するための集まりであった。婚約者候補として伯父娘に目をつけられた独身の辺境伯が、露台に逃れ出たところで鉢合わせた小領主と、領土の統治について少しばかりの雑談をした。その時のことだ。
爵位を持つ貴人が社交の場で些細であれど愚痴を漏らすなど、令嬢と父親の猛攻に、相当参っていたらしい。
そこで実際にどのような会話があったにせよ、その小領主――クラウスの仕える主君、南の平原の無数の小さな荘園のうち一つを治めるヘクトル・シュミト公(ある程度の領地を持つ高貴な人物には、身分に関らず「公」の尊称をつけることが慣習となっている)は、宴が終わり、所領に戻ってからも、辺境伯の例の言葉を大層大事に覚えていて、ならば是非ともと、一人の騎士を送ることにした。クラウスはそれまで館の人事には必要以上の注意を払わなかったが、今回ばかりはそうもいかなかった。その騎士というのが他ならぬクラウスだったからである。
クラウスは騎士であると同時に、確かに優秀な徴税官でもあった。彼が二頭立ての馬車でぱかりぱかりと屋敷を出発したならば、領主の金庫には正当な量の品物や貨幣が積み上げられる。豊作の年であれば溢れんばかり、飢饉の年であれば領民が冬を越せるだけ。それは主君の慈悲深さもあってのことだが、クラウスの手腕は殆ど魔法のようだとの評判であった。
クラウスが初めに今回の話を聞いた時、自分は何か知らないうちに、主君の機嫌を損ねるようなことをしてしまっただろうかと考えた。だが、どれだけ過去を思い返したところで心当たりはない。ヘクトル・シュミト公は温厚で理解のある主君であったし、クラウスは、堅実で我慢強い臣下であった。
何か問題があるとすれば、それこそ、二十年にも渡って仕える間に、さすがにお互い、時々は少しばかり飽きのようなものを覚えることもあったかも知れない、ということくらいだ。二十年の間、帝国は何度も荒れに荒れたが、幸い、シュミト公の領める領地はそれらの災難の殆ど総てを免れ、平穏であったものだから。
臣下は揃って反対したが、シュミト公は発言を撤回しなかった。その様子には何か確信じみたものがあった。彼はすっかり若い貴公子に入れ込んでしまった。宴から帰り、出した手紙に、返事が来てしまったことも原因だろう。その手紙の内容は誰にも知らされることはなかったが……或いは、何か、密約の類でも交わしたのかも知れない、とは、わずかに噂になった。しかし、野蛮で広大な辺境を束ねる大貴族が、平凡の一領主であるシュミト公に何を期待したものだろうか?
「クラウス卿、宴で閣下にお前の話をした時、閣下は目に見えて関心を示してくださったのだ。そして、そのような優秀な人材がいるならば、是非、欲しいものだと」
「旦那様、それは言葉の綾ではありませんか。閣下は「ような」と仰られたのでしょう。さすがにあのような身分の高いお方が、武勲もない一介の騎士である私の名を知っているとは思えません」
「いいや、閣下はお前を知っていた。確かだ」
主君はやはり、何かしらの確信の籠った声で答えた。
貴人同士が友好的な関係を築くにあたって、臣下を贈り物とするというのは、確かに過去には存在した習慣ではある。だがそれは数百年は前のことだし、そもそも相手方の了承を得ているのかという問いに対しては、シュミト公は曖昧に頷くばかりで、それは彼が都合の悪いことを隠そうとする時のお馴染みの態度だった。
そうして事実上の罷免を言い渡されたクラウスは、二十年に渡って仕えた館を、栗毛の愛馬と供に去ることになった。
鎖帷子の下の綿入れには、彼自身を売り渡す旨の記された書状が収められている。クラウスは馬に荷を載せながら、その屈辱的な書状を破り捨て、今すぐ他所へ行ってやろうかと思ったが、まずはシュミト公の言った通り、東辺境へ向かうことにした。
あの良くも悪くも朴訥な主君がそうまで入れ込んだ青年辺境伯に会って、出来ることなら会話の一度でもしてやろうと思ったのだ。その後は、新しい仕え先を探しながら、これまでの蓄えを元に、若い頃に多少は憧れていた遍歴をするのもよい。三十九という歳は、若くはないが、何をするにも遅すぎるということは決してないはずだった。
初夏に近い森は目映い程に鬱り、木々の下をくぐる道に翡翠の光を落としていた。あちらこちらにちりばめられた控えめな花々がほの甘い香りを振りまいている。梢の間から透き通る陽光の段が幾重にもそそぎ落ちているので、進むうちに何度も目を細めなければならない。
クラウスは片手で目を庇いながら前を見据えた。
行く手にきらきらと輝くものがあった。それは針葉樹の枝にかけられた小さな銀盤だった。
ここから先が例の青年貴族が領める土地であるという目印だ。帝国の東部一帯を占める広大なクレイグ辺境伯領の最東端に位置する心臓、クレイグ荘園――当主の居城が聳える、古き土地。
古い血統の貴族たちは、一際重要な領土の境に針葉樹を殖え、それらによく光る小さな反射板をかける。五百年以上も前にこの地に栄えた古い国の伝統の名残りだという。
紋章と魔法の印を銘まれた銀盤は決して錆びることもなければ嵐や盗人の手に掠われることもなく、永くに渡って役目を果たし続ける。つまり旅人は道なき道を通るのでない限り、行く手の土地を支配する者が誰であるかを、この魔法盤によって知ることができるのだ。
しかしクラウスの目を奪ったのはごくありふれた反射板ではなかった。それは大きな櫟の木の枝に吊るされていたが、根元に寄りかかりかすかにも身じろぎの見えぬ若い貴婦人こそが、普段から殆ど取り乱すことのない彼の心臓を大きく跳ねさせたのだった。
墨のごとき黒髪が胸元まで流れ、ほっそりとした輪郭を色彩っている。血の気を失った頬は雪のように白く、形のよい小さな唇は血か薔薇を思わせる朱だった。彼女は眸を伏せ、苦しげに眉根を寄せていた。萌木色の絹に飾られた胸部が上下しているか、馬上からでは確認できない。
クラウスは彼女の近くで馬をとめた。このような場所に独りでいるなど只事ではない。彼は馬を降り、恐る恐る彼女へと歩み寄った。そっと傍らへ膝をつく。百合の甘い香りが鼻先をくすぐった。
光が遮られるのを感じたものか、女は睫を震わせ、稀有なる黄金の双眸を見開いた。
女はクラウスの姿を見た途端に小さく声を上げたが、決してそれ以上に怯える様子もなく、「ああ、騎士様」と囁いた。「このような時にお会いできるなんて」
女は上半身を起こし、じっとクラウスの目を見つめた。
「追われております。共を連れて野林檎をとりに出たのを、何者かに射られました。わたくしは逃げ延びることができましたが、二人は矢を受け……」
すべらかな頬が色を失い、胸元にあわされた小さな手が震え、金の指輪が艶やかに光を放った。
「射手が再びわたくしの姿を見つけるよりも早く、夫の元へ戻らなければなりません」
女は蜜のように輝く眸に怯えと激情を宿していた。
「わたくしを、錐の城[アーレンブルグ]までお連れください。わたくしの名はイングリット・フォン・ゲーテ。クレイグ辺境伯エアハルト・フォン・ゲーデの妻です」
「……クレイグ公の、奥方?」
クラウスは驚きのあまり声を上げた。クレイグ辺境伯エアハルト・フォン・ゲーデとは、この地方一帯の土地の主人である若者に他ならない。ま三年前、乱の最中に死去した父公に代わり、二十一歳で襲位した、若き領邦君主。帝国の最東端、つまりそれより東に広がる深い森と峻険な山脈を睨み据え、魔獣や異種族から人間の領域を守る使命を負った当代の辺境伯。
既婚者ではなかったはずだ。彼がアウラ伯から逃げ回ったせいで、クラウスは長く仕えた土地を去る羽目になったのだから。
「しかし……」
クラウスは戸惑って言葉を濁した。
「本当です。わたくしの身の証は、クレイグ公が立ててくださいます」
女は強い視線でクラウスを見つめた。一対の黄金に嘘の気配はなく、ただ燃え上がるような意思に輝いていた。
クラウスは一瞬の躊躇いの後、頷いた。たとえ何者であろうとも、このような貴婦人を、森のなかで唯一人置き去りにすることは考えられない。
「参りましょう。私はクレイグ公の城館へ向かう途中でした」
「感謝いたします、騎士様」
彼女の大きな眸の中にクラウス自身の姿が映し出されている。もう齢四十に近い堅物な男には、麗しい貴婦人を助ける騎士物語は不釣合いのように思えた。若かりし頃、最初で最後の恋は過ちによって幕を閉じた。結婚もせずに過ごしてきた。おなじことはもう起こらないだろう。
クラウスは内心だけで苦く笑い、帳面ばかりに慣れた手をそっと差し出した。女の小さな手がクラウスの掌に重ねられた。繻子の手袋を通してさえ、その指先の華奢さが感じられた。
クラウスは女を馬に乗せると、豊かな森を見渡し、木々の間に鏃の光が一つとしてないことを確かめながら先を急いだ。女の体はひどく軽いようで、馬は二人分の重みを気にする風もない。
じきに日が落ちはじめ、森は黄金の光に包まれていった。
クレイグ荘園は広くはない。しかし森の道は曲がりくねっていつ果てるとも知れない。クラウスは方角を見失いつつあったが、女に導かれて馬を進め続けた。
「騎士様、お急ぎください。このあたりは夕刻になると霧が出て、何も見えなくなってしまうのです」
「ええ。しかし今はそのような季節ではないように思えます」
「霧は自然のものではありません。森の奥には美しい澄んだ泉があり、そこから立ち上がっているのです」女は言った。「嘗て美しい乙女が一人の騎士に恋をしましたが、騎士が他の妻を娶ったことに嘆き、泉に身を投げてしまいました。それ以来、夕になると彼女の哀しみが霧となって、この地をすっかり覆ってしまうのですわ」
それはどこにでもあるような御伽噺の類に聞こえた。
しかし――
夕暮れの森は静まり返り、風はそよとも感じられない。だというのに、そこここの茂みの間から亡霊のように忍び寄った霧は、瞬く間に前後を閉ざしてしまった。
木々の間に埋もれようとしている太陽の光が闇雲に広がり、あたりは神の国のごとき明るさに包まれた。すぐ間際まで迫っているはずの森は遠くにあるかのように影が朧となってしまった。
突然のことに狼狽えた馬を慌てて宥めながら、クラウスは内心、ひどく驚いていた。何かしらこのあたりの地理に影響する現象なのだろうが、女の言葉が現実になったように思えて不気味でもあった。
「騎士様、道を見失いませんよう」
女が囁いた。
「お任せください」クラウスは短く答えた。この道がどこかで岐れない限り迷うことはないに違いない。つまりはまったく自信がないということなのだが、そこは年嵩の男の落ち着いた声で、少なくとも女の平常心だけは勝ち得ておこうというあざとい計算だった。
クレイグ公の錐の城は、天を穿たんばかりに聳える尖塔を幾本も有している。この霧さえ晴れれば、その切先を木々の向こうに見ることができるだろう。
そう考えた時だった。
不意に、霧に隠れた森の向こうから、微かに、弦が軋む音が聞こえた気がした。
理性は錯覚であると判断した。しかし、首筋を走り抜けた怖気がそうではないと告げていた。
「捕まりなさい」
女が小さな悲鳴を上げる。
軍馬は森道の土を蹄で抉りながら駆け出した。殆ど頭の後ろぎりぎりを掠めて、過ぎ去る矢の気配を確かに感じた。
こうなれば黄金に燦めく霧は祝福にも思えた。その中を疾走する騎馬に矢を当てることができる射手などいるはずがない。ましてやこれ程視界が悪ければ。そんなことができるのは、歌劇か御伽噺の英雄だけだ。
女が「騎士様」と囁いた。それから、ぎゅっとクラウスの胴にしがみついた。
細い躯が鎖帷子に強く押し付けられ、その鼓動すら伝わるのではないかと思われた。クラウスは、恐怖が彼女の心臓をとめてしまわないだろうかと不安になった。
二十年以上も昔のことだが、こうして、夫のいる女と供に森の道を走ったことがある。その時もおなじ不安を抱いた。腕の中で女が死んでしまうのではないか、幻のように消えてしまうのではないかと。思い出すと同時にひどい後ろめたさに襲われ、クラウスは闇雲に霧を睨んだ。
もう風貌も殆ど忘れてしまったが、あの女も黒髪だった。長い黒髪を綺麗に編み上げた、魔性のような女だった。何故、今になって思い出すのか。しがみつく女は震えている。あの女も震えていた。そして朝霧の向こうから飛来した太矢は、狙い違わず馬首を貫いたのだ。それこそ御伽噺のように。
「……騎士様」
クラウスは我に返り馬の歩を緩めた。
夕霧はますます濃い。黄金は焼け落ちて菫色に変わろうとしていた。
随分と長く駆けていたようだった。乗馬は苦手ではないが、この霧の中を駆け続けることができたのは奇跡のようなことだった。
「御無事ですか」
女はクラウスの腕の中で顎を上げ小さく頷いた。それから騎手を見上げ、眩しい光を見るように目を細めた。クラウスは彼女と目を合わせることはせず、霧の先だけをじっと見据えた。
「騎士様は、綺麗な色の眸をしていらっしゃいますのね」
「急にどうなさいました」
クラウスは慎重に訊ねた。
女は軽やかに笑った。「わたくしの夫とおなじ、日に透かした若葉の翠。あなたに助けていただかなかったら、わたくしは二度と夫の元へ戻られなかったかも知れません」
クラウスは胸の内が不穏にざわめくのを感じた。また弓に狙われているのかと思ったが、森は一切の生き物が眠りに落ちたかのように静まり返るばかりだ。
「貴女のような女性を捨て置くことがどうしてできます」
「その声の甘ささえ夫に似ていますわ、見知らぬ騎士様。あのかたが歳を経た時、あなたのようであればどれだけ素敵でしょう」
「光栄です。しかし、ご夫君を他の男と較べるものではありません」
クラウスはもう一言何かを重ねるべきかと迷ったが、彼がふさわしい言葉を思いつくよりも早く、女が「森を抜けます」と囁いた。「このかおり。森との境に植えられた百合です」
そして馬は花の香りをくぐって森を抜けた。目の前が晴れ渡る。
夜空は澄んだ水のように美しい瑠璃に染まり、ほのかな冷たさを帯びた清浄な風が肺を洗った。周囲には一面の白百合が水底で揺れるように咲いていた。
行く手の陵に聳える古い異形の城郭は影絵のように西の空の一部を黒く染めている。城壁や、乱立する特徴的な尖塔のあちらこちらに灯火が瞬いている。麓の町では、じきの閉門を告げる鐘が打たれ始めていた。
肩越しに振り向いた森はもう闇に包まれ、あの霧や射手が追いつくことはないと思われた。クラウスは馬を褒め、暫くゆるやかに駆けさせた。女の熱を感じていた。
錐の城は外観こそ異様で無骨であったが、内装は入念に整えられていた。
クラウスが通された小広間の床には鮮やかな丸絨毯が敷かれ、胡桃材の長椅子が一対と、白と褐色の木をあわせた寄木細工の低机が一つ配置されている。低机の上の硝子灯は、遥か西の海を隔てた夜の王国[ファレン]の職人による作品だろう。乙女の姿をした魔法の光がくるくると踊るたび、部屋中の影が緩慢に揺らいでいる。その傍らの杯に満たされていた茶を、クラウスは既に殆ど空にしてしまっていた。
あまり愛想のよくない召使の「少しばかりお待ちください」という言葉からかなりの時を過ぎて現れたのは、辺境らしい、質はよいが飾り気の少ない衣服に細身の上衣を重ねた青年だった。
クレイグ荘園の主であり、代々、東辺境伯の位を受け継ぐゲーデ家の当主。エアハルト・フォン・ゲーデ。
細面の美貌は色素が薄く、癖のない髪も淡い金。無感情にも見える表情の中で、翠の眸が冴え冴えと冷たい光を宿している。
クラウスは息を呑んだ。こうも簡単に接見できるとは思ってもみなかったのだ。
あの女はそれほどまでに彼と親しかったのか。或いは、本当に、この貴人はクラウスのことを知っていたのか――
クレイグ公はぞんざいな手つきでクラウスに立ち上がる必要はないと示しながら、向かいの長椅子に腰を下ろした。
「待たせたな。イングリットがひどく動揺していて、宥めるのに時間がかかってしまった」
「……あの方は」
「芥子の汁を飲ませてようやく落ち着いた。朝までは目覚めないだろう」
若き城主は長椅子にかけられた東国風の布の刺繍を細い指でなぞりながら言う。音楽の艶やかさと君主の傲慢さが同居する声は、疑うことを許さない、緩やかな強制力を備えていた。
「最近は物騒でならない。外出は控えるようにと言っていたのだが、あれは落ち着きがない」
クレイグ公はわずかに眉根を寄せて、続けて問うた。
「刺客は見たか?」
「いえ、直接は」
クレイグ公はあまり落胆しなかった様子で言った。
「そうか。彼女を送り届けてくれただけでじゅうぶんだ」
「森の中を独り彷っておられるご婦人を、どうして見過ごすことができましょう」
「そうか」クレイグ公は薄い唇の端を吊り上げてくくと笑った。「貴方ならそう言うと思っていた」
その青年は椅子の背に預けていた上半身を起こし、真剣ではあるがどこか気怠げな表情でクラウスを見つめた。目元にかかる髪を片手で払う仕草は優雅でありながら、何故か、新兵が恐れを圧し殺して槍の柄を握る様を思わせた。
「聞いていた通りだ。シュミト公の騎士クラウス・ミリガン卿は正に騎士の鑑のような人物であると」
言葉と裏腹に、声には何か似た含みがあった。一種の揶揄かも知れなかった。
クラウスはクレイグ公の目を半ば睨むように見た。己より遥かに地位の高い若者に正面から抗議しようとは思わなかったが、不愉快さの一切を表明しないわけにもいかなかった。
「恐れ多いお言葉です。シュミト公が仰ったのでしょうか」
クレイグ公は目を伏せ、首を横に振った。橄欖石の眸にちらちらと灯が映る。
「いいや、私は以前より卿の名を聞き知っていた。一度、会ってみたいと思っていたものだ」
クラウスは思わず絶句した。では主君の言葉は本当だったのか。いや、だが、帝国指折りの大諸侯、しかも蛮勇で知られる東辺境の棟梁たるクレイグ公が、目立って武勲のない一騎士風情にそのようなことを言うなど。
「光栄です。しかし……」
「謙遜することはない。実際、卿はイングリットを見つけ、賊より救い出したではないか」
「…………」
「礼をさせてくれ。卿がこの土地を訪れた理由をお話いただければ、可能な限りの助力を約束しよう」
「理由」
クラウスは思わず眉根を寄せた。この言い方、やはり、この若者は、シュミト公の意図を知らないようだった。
クラウスが罷免になった経緯を説明し例の書状を渡すとクレイグ公は暫く押し黙り、「確かに私にも責任の一端がある」と切り出した。「もう後任は任じたが、あの時、この荘園の徴税官がいなかったことは事実だ。しかし、あの場で話をしたことは失敗だったし、卿の名を出したことも浅慮だった。貴方の手腕は、半ば伝説のようなものだから」
「それを我が主が思いの他真剣に受け止めたと」クラウスは問い返した。
「今まで、シュミト公だけでなく、何人もが私のために逸材を斡旋しようと申し出てくれた。総てお断り申し上げたがね」
「それは」
「餓えた駄犬のような連中だ」
クレイグ公は醒めた声音で笑った。クラウスは彼を見据えながら、では己の主人は、他の多くの貴族とおなじく内通を期待していたのかと胸中で問う。否。ヘクトル・シュミトはそのような人物ではない。彼は姦計と呼べぬ程も些細な姦計すら考えつきもしない男だ。心無い人々は彼を表で善良と賛え、裏で愚鈍と嗤う。
「だが、こちらに連絡もなく本人を出発させたという話は初めてだ」
やはりシュミト公の一方的な思い入れだったのか。頭が痛くなりそうだ。
クレイグ公は言った。
「卿には許しがたい為打ちだろう。貴方がシュミト家に戻ることを望むならば尽力するが……」
「ご配慮ありがたく感じます。どうするにしろ、戻るつもりはありません。この書状を閣下にお渡しするのが、主人のための、私の最後の仕事です」
クレイグ公は「だろうな」と呟いた。「せめて、暫くは客人として、この城に滞在してくれたまえ。決して不便のないよう取り計らうつもりだ」
クレイグ公は穏やかに言った。
「是非に。確かに、久々の長旅に少しばかり疲れておりました」
「ゆっくりしてくれ。この広い辺境を横断して、よくここまで来たものだ。二月はかかったろう」
彼の橄欖石の眸は安堵を映したように見えた。
クラウスはそれを少しばかり意外に思った。気だるげで傲岸な風でありながら、初対面の人間に、わずかとはいえ、このような表情を見せるものかと。初めに冷たいと思ったその眸は、今は灯火を反射してやわらかく輝いている。
「確かに楽な道ではありませんでしたが……予てより、一度、東辺境を見てみたいと思っておりました」
クレイグ公は肩を竦めた。「帝国戦士の憧れの地だなどとは言われているが、実際にやってくる者は少ない。化物と野獣ばかり狩っていればよかった数百年前とは違い、この辺りも何かと面倒になったものだからな。折角だ、観光でもしていってくれ。案内人を手配してやる」
「ありがとうございます」
「久しぶりの客人で、恩人だ。当たり前だ」
「有難うございます。しかし、下手人を取り除いたのではありません。刺客は再び……」
クラウスは一瞬、言葉に迷った。
あの女をどのように呼ぶか。クレイグ公はまだ結婚をしていない身だ。であるからには、寵姫なのだろうが……あの燃え上がるような稀有なる黄金の眸は、そのような俗な言葉で語るには不釣り合いであるように思えた。
結局、ふさわしい言葉は見つからず、言葉を濁すに留めた。
「あの方を狙うかも知れません。或いは閣下を」
「イングリットは暫く外に出さない」
クレイグ公はクラウスの逡巡の意図を悟ったように、薄く笑った。それから空の杯に目を留めた。
「この部屋は酒を飲むにも内密の話にもあまり相応しくないな。夕食の前に軽く葡萄酒でも飲もう、クラウス卿。森でのことを詳しく教えてくれ」
「……はい」
クラウスは今の言葉から、彼が今日の出来事について他言して欲しくないと思っていることを汲み取った。
クレイグ公は公の場で彼が普段やるように魅力的に微笑んで立ち上がった。彼は輪郭は細いが長身の部類に入る。立ち振舞は無駄なく優雅だ。東辺境の守護たるゲーデ家は、代々、武で知れた家系だ。
クラウスは過去と未来を思案しながら口髭の端を撫でた。それから膝に手を当てて長椅子から腰を上げた。嘗ての戦乱で砕かれた左の膝を庇う癖が未だに抜けないでいる。慣れない戦でのことだった。戦乙女[オルトルート]の司祭が扱う奇跡によってとっくに完治しているのだが。
光の乙女は硝子の檻の中でくるくると踊り続けている。