夫を宰相に育ててから全不祥事をバラします。「お前が愛さないから浮気した」と言ったこと、後悔してね
「お前が俺を愛さないから、俺はほかの女に安らぎを求めたんだ」
アルベルトがそう言ったとき、私はまず、ずいぶん便利な言葉を思いついたものだと感心した。
場所は王宮の春夜会。私たちの周囲には、次の宰相と目される夫へ挨拶をしようと貴族が集まっている。その輪の中へ、胸元の開いた桃色のドレスを着た伯爵令嬢ミレーユが現れ、アルベルトの腕へ親しげに指を添えた。
私が尋ねたのは、たった一つ。今夜の晩餐を欠席した理由は急な腹痛だったはずだが、どうしてミレーユと同じ馬車から降りてきたのか、である。
答えが先ほどの台詞だった。
「私があなたを愛さなかった、と?」
「そうだ。帰った私に、君は何をした? 書き損じた手紙を机に積んで、ここを直せ、あれを詫びろだ。ミレーユは違う。私を見れば、まずよく頑張ったと言ってくれる。君にもう少し可愛げがあれば、私だって――」
周囲で扇が一斉に上がった。明日には王都中へ広がるだろう。次期宰相候補は、妻の可愛げが足りないため浮気したらしい、と。
あらまあ。国の政を担おうという方の言い分が、焼き菓子を盗んだ子供より頼りない。
腹を立てるより先に、八年間の疲れが肩から下りていった。
「承知いたしました。宰相就任の祝宴には参ります」
アルベルトの顔に、安堵が浮かんだ。
「そうか。やはり君は話が早い。今夜はもう帰りなさい。ミレーユのことは、そのうちきちんと話す」
「お話は祝宴の席で伺いますわ」
私は礼をして、その場を離れた。
背中へアルベルトの笑い声が届く。彼は私が許したと思ったらしい。
八年も教えたのに、最後まで言葉の意味を読むのが下手な人だった。
私とアルベルトの婚姻は、家同士が決めたものだった。彼は由緒だけは立派な侯爵家の次男で、私は交易で財を築いた伯爵家の長女。父は家格を求め、侯爵家は持参金を求めた。
初めて会った日のアルベルトは、上着の袖口を固く握りしめていた。
「兄上ほど剣が強くない。人前で気の利いた話もできない。父上は、私など家の役に立たないとお考えだ」
私は彼が持っていた本を見た。王国各地の麦の値と、飢饉が起きた年を比べた古い本だった。余白には細かな字で疑問が書き込まれている。
「考えるのに時間がかかっても、途中で投げ出さない方です。政務なら、その粘り強さが役に立ちます」
「本当に?」
「ええ。ただ、その字はもう少し大きくしてください。私にも読めません」
彼は驚いたあと、初めて笑った。
そこから八年。朝食では新聞を広げ、晩餐後には互いの意見を述べた。彼の書状に曖昧な言葉があれば書き直させ、名を覚えていない相手との面会には送り出さなかった。
彼が初めて王の御前で話す前夜、練習は十二回に及んだ。六回目で彼は椅子へ崩れ落ち、もう無理だと顔を覆った。
「それなら明朝、辞退を申し出ましょう」
「私を見放すのか?」
「見放しません。おやめになるなら、あなたが決めてください」
アルベルトは長いこと黙り、やがて立ち上がった。
「もう一度だけ聞いてくれ」
「ええ。何度でも。あなたがもう嫌だと言うまで聞きます」
翌日の彼は震えながらも最後まで言葉を届けた。王は若い彼の案を採り、冬の間だけ街道の通行料を下げた。北から麦が届き、王都のパンは値上がりを免れた。
帰宅したアルベルトは私を抱きしめた。
「君がいてくれてよかった」
あの言葉を、私は長く大切にしていた。
地位が上がるにつれ、彼は私の助言を人前で嫌がるようになった。食卓で伝えれば食事がまずくなると言い、書斎で伝えれば家でまで仕事をさせるのかと言う。それでも翌朝になると、直した書状だけは持っていった。
最初の嘘は、二年前の秋だった。
隣国の使節との会食へ行くはずの夜、彼は熱があると言って寝室へ入った。使節へ詫び状を書いたのは私だ。夜更けに屋敷を抜け出した彼が、ミレーユの誕生祝いへ出ていたと知ったのは三日後だった。
私は一度だけ、彼へ問うた。
「使節の方は、あなたの熱を案じて薬まで届けてくださいました。次は私も嘘をつきません」
「大げさだな。君がうまく収めただろう」
二度目は、昨年の冬。アルベルトは人事の話を酒席でミレーユへ漏らした。その名を彼女が兄へ伝え、翌朝には候補者の家へ贈り物を持った客が列を作った。
「酒に酔っていた。誰にでも失敗はある」
「その言葉を、ご自分でお使いになりますか」
「君は本当に厳しいな。妻くらい私の味方をしてくれてもいいだろう」
後始末をした妻が、味方に数えられないらしい。私はその日から、彼に頼まれて直した文と、隠すよう求められた出来事を一冊の帳面へ書き始めた。
そして三度目。ミレーユの兄が港の管理を任された。アルベルトの推薦状には、実際に就いたことのない役目を三年務めたと書かれていた。
署名する前に、私は推薦状を彼へ返した。
「この経歴は事実と違います」
「少し言い方を整えただけだ。彼にはこれから経験を積ませる」
「おやめください。署名すれば、あなたが嘘をついたことになります」
「融通が利かない女だな。お前には愛情というものがない」
彼は自分で署名した。
私が厳しく言うたび、彼は愛されているからだと笑っていた。その厳しさが自分に都合の悪いものになると、今度は私を冷たい妻と呼んだ。そうして彼は、これまで私が彼を思って重ねた助言まで、浮気の言い訳に使ったのだ。
春夜会の翌朝、私は祝宴の席順を確かめた。主卓には宰相となるアルベルト、その右に国王陛下、左に宰相夫人である私の椅子が置かれる。
私は侍従へ頼み、その椅子を主卓から外してもらった。
「奥様、お席を空けてよろしいのですか?」
「ええ。あの席は、今夜から空けておきます」
祝宴の日、アルベルトは金糸を織り込んだ濃紺の礼服で広間へ現れた。胸には新しい徽章が輝き、ミレーユは主卓の近くから彼へ熱い視線を送っている。
彼は私の椅子がないことに気づくと、侍従を叱りつけた。
「宰相夫人の席はどうした?」
「私が下げていただきました」
広間の後方から答えると、幾つもの顔がこちらを向いた。
私は銀灰色のドレスを選んだ。夫の家の色も、実家の色も身につけていない。手には八年分のすべてを収めた、黒い革表紙の帳面を持っていた。
「セラフィーナ、何をしている。早くこちらへ来なさい」
「祝宴が終わるまで、こちらで結構です」
「まだ昨夜のことで怒っているのか? 皆の前で私に恥をかかせる気か」
私が黙っていると、国王陛下が杯を置いた。
「話があるなら、続けよ」
アルベルトは口元を引きつらせた。それでも演説が始まると、よく通る声で国への忠誠を語った。八年前、十二回練習しても震えていた人は、もういない。
演説の終わりに、彼は私を見た。
「最後に、長年私を支えてくれた妻へ感謝を捧げたい。彼女は厳しいところもありますが、それも私を思ってのことでしょう」
広間に拍手が満ちた。
私は帳面を閉じたまま、彼の前まで歩いた。
「長年支えたと、あなたの口から聞けて安心しました。私が八年かけてしてきたことも、今夜はお認めになるのですね」
「役目?」
「ええ。あなたを宰相の席までお連れするという私の役目も、これで終わりにできます」
私は黒い帳面を卓上へ置いた。重い音がして、拍手が止む。
「八年分です。あなたが直せと言った文も、黙っていろと言った夜も、ここにあります。今夜は三つだけ、皆様にお聞きいただきます」
アルベルトの顔から血の気が引いた。
「やめろ。夫婦の話をここへ持ち出すな」
「使節との会食も、王宮の人事も、港の管理者も、あなたが寝室へ持ち込んだのでしょう」
私は使節へ偽りの欠席理由を伝えたこと、人事を漏らしたあと口を閉ざすよう求められたこと、虚偽の推薦状への加筆を断ったことを話した。誰かが代わりに断罪してくれるのを待たず、私が隠したことも含めて自分の言葉で明かした。
「一度目は、やり直せると思いました。二度目も、まだ間に合うと。……三度目のあなたは、私が片づけると信じて署名なさったのでしょう」
「セラフィーナ、君は疲れているんだ。帰って話そう。君はいつも冷静だっただろう」
「ええ。ですから今、ここで話しております」
アルベルトは卓を回り込み、私の腕を取ろうとした。
「セラ、聞いてくれ。ミレーユとは遊びだった。私が本当に必要としているのは君だ。君なら分かるだろう?」
私は一歩下がった。
「その呼び方は、もうお許ししません。アルベルト侯爵閣下」
彼の手が宙で止まった。
「昨夜、あなたは私を冷たい女と呼びましたね。その舌の根も乾かないうちに、今度は私の手を取ろうとなさる。ご自分でおかしいとは思いませんか?」
「君は私を愛していたんだろう?」
「ええ、愛しておりました。十二回目の練習で、もう一度だけと立ち上がったあなたを心から。王都のパンを守れたと、子供のように笑ったあなたも好きでした。今ここにいるあなたへ、同じ気持ちは残っておりません」
私は卓の端へ屋敷の鍵を置き、その横へ署名済みの離縁の申立書を重ねた。
「約束どおりあなたは宰相になりましたから、私の役目もここまでです。これからは私の名も、私の時間も、あなたの後始末には使わせません」
「待ってくれ。君がいなくなったら、私は……この帳面のことも、陛下への説明も、一人でどうしろというんだ」
その問いに、八年前の気弱な青年が一瞬だけ重なった。
胸は痛んだ。それでも私は鍵から手を離した。
「私がお教えしたことを思い出してください。八年もあったのですから、何か一つくらい残っているでしょう」
国王陛下は顔を伏せ、しばらく帳面の表紙を見つめていた。
「アルベルト、今夜は下がれ。続きは明日、余が聞く」
「御前を騒がせ、申し訳ございません」
私は一礼した。地位を奪うか守るかは、陛下とアルベルトが決めることだ。私が決めるのは、彼の隣へ戻らないことだけで十分だった。
広間を出ると、廊下の窓辺に一人の男性が立っていた。国境に広い土地を持つ公爵家の嫡男、リオネル・オルレアンである。背が高く、黒い礼服には飾りが少ない。まっすぐこちらを見る青い目は、同情で曇っていなかった。
「お疲れのところ、少しだけよろしいでしょうか」
「慰めでしたら、今夜は遠慮いたします」
「では、慰めは控えます。仕事を一つお願いしたいのですが、紙だけお持ちいただけますか。今夜ここでお返事をいただくつもりはありません」
彼は一枚の紙を差し出した。国境領の街道を直すため、相談役を求める依頼だった。働く日は月に十日。滞在先と馬車を用意し、報酬は王都の官吏より高い。断っても、以前の恩は変わらないと末尾に書かれている。
「以前の恩とは?」
「三年前、橋の工事を夏まで延ばせと、あなたから手紙をいただきました。読んだときは腹が立ちましたよ。王都から何が分かる、と」
「覚えております。ずいぶん短いお返事でした。工事は夏へ延ばす、と一行だけ」
「ところが工事を延ばした翌月、川があふれた。人を集めていたら、何人流されたか分かりません。それ以来、腹の立つ手紙ほど先に読むことにしています」
リオネルはそこで言葉を切り、私が紙を読み終えるまで待った。
「一つ、条件を加えても?」
「もちろん。紙に書き足せることなら、今ここで書きます」
「私の案を使わないときも、返事はください。黙って机の隅へ置かれるのは嫌です」
「分かりました。では、私からも一つ。十日目には帰ってください。あなたは十一日目も働いていそうで心配です」
思わず笑いがこぼれた。
「ずいぶんな見立てですこと」
「橋一つのために、遠い国境まで三通も手紙をくださった方ですから」
褒め言葉より、その一言の方がうれしかった。
「お返事は十日後にいたします」
「二十日でもお待ちします」
「十日で十分です。その代わり、次にお会いするときは街道沿いの村の一覧をお持ちください」
「喜んで」
廊下の奥で扉が開き、アルベルトが私の名を叫んだ。
私は振り返らなかった。
明朝は実家へ戻り、昼まで眠る。午後には母と庭でお茶を飲む。十日後には、リオネルが持ってくる村の一覧を読む。
これまでの朝は、目を覚ますとアルベルトの予定を思い出した。会議に必要な紙はそろっているか、昨夜の書状を読み直したか、朝食を抜こうとしていないか。明日の朝、確かめるのは自分が空腹かどうかだけでいい。目覚めた時刻が遅ければ、もう一度枕へ頬を沈めよう。そんな小さなことが、今はひどく楽しみだった。
私の予定の中に、もうアルベルトの席はない。
空いた時間へ何を置くかは、これから私が決める。
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