好きな女が今日も怖い ~ステップ・バイ
深夜1時。
スタジオの廊下は、コーヒーの残り香と、香水。長時間労働に慣れた業界人特有の疲労が淀んでいた。
近年は働き方改革なんて言葉も聞く。だが、この業界に関して言えば、半分以上は建前だ。無理するなと言う口で、容赦なくスケジュールは詰め込まれる。
人気がある人間ほど忙しい。
代わりはいくらでもいる世界だからこそ、使えるうちに使う。
それが、この業界の普通だ。
ラストシーンがようやく終わったようだ。スタジオの扉が開き、共演者達がぱらぱらと出てくる。疲れた顔で両腕を上げて、ストレッチをする者。スマホを確認する者。マネージャーに明日の入り時間を聞いて顔をしかめる者。
誰もが、一日の終わりの顔をしていた。
その中で、薔子さんだけが妙に鮮明だった。
芸能界に長くいる人間ほど、あの顔を見て一瞬黙る。白磁みたいな肌。至近距離でカメラを回されても、粗を探す方が難しい。作り物めいた輪郭に、伏せるだけで影になる長い睫毛。流行りのメイクで盛る事に慣れた若手女優やアイドルとは、土台が違う。
顔を作り込む必要がない人間の美しさだった。
小柄なのに、視線だけでその場の空気を支配するタイプ。
今日は黒のタイトワンピースに、ロングコート。露出は少ないのに、妙に目を引く。スタイリストわかっているな・・・と思う。後でどこの服か、マネジャーに聞いておいてもらおう。
華奢なくせに、首筋から肩にかけての線が異様に綺麗で、歩くだけで服の値段が上がって見える。
そして何より、目。その視界に一分一秒でも長く映りたいと思うのは、俺だけじゃない。
薔子さんはスマホを見ながら、ふう、とため息をついた。今日は随分長かった。やっぱり疲れているのだろう。
「潤」
不意に呼ばれる。
「はいっ!!」
秒で返す。返事が早すぎたらしく、薔子さんがちらりとこちらを見た。
「アンタの撮影は随分前に終わったはずでしょ・・・待機してたの?」
「してました」
「犬なの?」
「ワンっ」
「・・・自分で言うんだ」
呆れた声。
でも追い払わない時点で、機嫌は悪くない。
潤は自然と口元が緩む。
薔子さんは機嫌が悪いと視界から人を消す。怒鳴るわけでも、態度を荒げるわけでもない。ただ、存在を認識しなくなる。
20年以上この業界にいて身に着けた、静かな圧だった。あれを向けられると、大抵の人間は自分から距離を取る。
今はそれがない。
「喉乾いた、いつもの」
「買ってきます」
即答すると、薔子さんが「早いのよ」と小さく呟いた。
廊下を横切るスタッフ達が、こちらを見ている気がした。またやってる。そんな、生暖かい視線。薔子さんのマネージャーが申し訳なさそうに軽く頭を下げる。
今回のドラマ撮影が始まって1ヶ月。潤が薔子さんに懐いている事は、現場ではほぼ周知事項になっていた。だが、別に構わない。好きな女に名前を呼ばれて、機嫌良く動けるなら安いものだ。
潤は踵を返す。
その背中に、薔子さんの声が飛んできた。
「気持ち悪い」
冷たい声だった。
けれど、本気で突き放す時の温度じゃない。
多分。
自販機の前に立ちながら、潤は一人で笑う。
ドラマや、番宣で出るバラエティでは好き勝手言われる。
色気のある男。陰のある男。沼系俳優。目で落とすタイプ。
一体、誰の話をしているんだと思う。
少し前までは別の事を言われていた。
子役あがり。昔は可愛かったのに、成長して微妙になった。目つきが悪い。チンピラ役くらいしか似合わない。
あの時の、表面は気の毒そうに取り繕った奴等。もったいなかったね。子役って難しいよね。あの頃は良かったのに。
そう言いながら、次を探していく。
この業界はそういう場所だ。
使える時は持ち上げる。
落ち始めたら、静かに離れる。
潤自身、それを嫌というほど見てきた。
でも、薔子さんは違った。
売れなくなっていた頃も。チンピラ役ばかり回されていた頃も。目つきが悪いと言われ続けていた頃も。
薔子さんだけは、何も変わらなかった。気を遣うでもなく、慰めるでもなく、妙に普通だった。
だから、今でも覚えている。
自分を、落ち目の元子役として扱わなかった人間の事を。
雑誌のインタビューでも、ミステリアスだの大人の余裕だの書かれる事が多い。
実態はこれだ。好きな女に気持ち悪いと言われても機嫌が良くなる大型犬。
終わってるな、と自分でも思う。でも楽しいから仕方ない。
戻ると、薔子さんは壁にもたれて、まだスマホを見ていた。
長い睫毛が影を落とす。
横顔が綺麗すぎて、一瞬見惚れる。
「はい、カフェラテです」
「ありがと」
薔子さんが顔を上げる。
カップを受け取る指が細い。その何気ない仕草を見ただけで、疲労が軽くなる自分は、もう駄目なんだろうなと思った。我ながら、かなり重症だ。
気づけば、口元が勝手に緩んでいた。
「・・・なに?」
「ありがとって言われた」
「言うでしょ、普通」
「録音したい。毎日聞きたい」
「やめて」
心の底から軽蔑するような、冷たい視線にさらされる。
綺麗な顔でやられると、ちょっと効く。嬉しい方向に。
「ご褒美です」
「自分を安売りはしないように」
「薔子さん相手にしかしませんよ。尻尾も振って見せましょうか」
「人間やめるの?」
薔子さんは呆れた顔をするが、口元だけ少し緩んでいる。
潤はそれを見逃さない。本当に少しだけ。
口元が緩む程度。目を離したら見落としそうな。
それでも、潤は嬉しい。
この人は滅多に気を抜かない。プライベートは当然、現場では特に。
芸能界で生き残るために、ずっと綺麗に武装してきた人だ。
だから時々見せる小さな緩みが、たまらなく好きだ。
「あっ今笑った」
「笑ってない」
「笑いました」
「潤」
「はい♡」
「そのハート付き返事やめろ」
「じゃあワンで返します?」
「もっとやめろ」
「ワン」
「やめろって言ったでしょうが」
潤は思わず声を上げて笑った。薔子さんがこっちを見てくれている。本当にそれだけで嬉しい。こうして、くだらないやり取りに付き合ってくれる時間も好きだ。
薔子さんは呆れた顔のままカフェラテを飲む。
「・・・ほんと、無駄に元気ね」
「薔子さん補給したんで」
「燃費が犬なのよ」
「大型犬なんで」
「知ってる」
即答される。
潤はまた笑ってしまう。こういう返しをしてくれる時点で、今日はかなり機嫌がいい。
壁にもたれた薔子は、長い睫毛を伏せながらスマホを弄っている。
白い指先。薄く塗られたネイル。
細い首筋。
何気ない仕草まで絵になる。
ふと、画面に映った名前が見えた。
結流。
潤は何となく口元を緩める。
「薔子さん、最近結構、結流ちゃんの事気に入ってますよね」
薔子さんの指が止まる。
「前回の撮影で良かったから、今回、指名したでしょ」
「なんで急にそんな事聞くのよ」
「いや、最近よく気にしてるから」
「別にしてない」
「してますって」
即答すると、じろりと睨まれた。
怖い。
綺麗。
最高。
「・・・別に、嫌いじゃないだけ」
「それ薔子さん基準だとだいぶ上位ですよ」
「知らないわよ」
不機嫌そうに返しながら、否定しきれていない。
わかりやすいな、と潤は思う。
「この前も歌番組チェックしてたじゃないですか」
「たまたま流れてきただけ」
「結流ちゃんのインタビュー記事も読んでた」
「仕事関係」
「差し入れ褒めてた」
「美味しかったのよ」
全部ちゃんと覚えてる自分も大概だな、と潤は思う。でも薔子さんの事は全部知っておきたい。
九条薔子は、滅多に人に執着しない。正確には、しているのを悟らせない。でも薔子さんは、人を気に入ると少しだけ扱いが変わる。視線が増える。名前を出す回数が少しだけ増える。好き嫌いは、はっきりしているくせに、気にかけているを表に出すのが異常に下手だ。
「・・・あの子」
薔子さんがぽつりと呟く。
「見せ方、まだ下手なのよ」
「へえ」
「隠したいのに、感情がステージで漏れるタイプ」
カフェラテのカップを見ながら、薔子さんは続ける。
「危なっかしいのよね」
その声は静かだった。
潤は少しだけ目を細める。ちょっとお母さんみたい、と思ったのは秘密だ。口にしたら多分怒られるので黙っておく。
九条薔子は滅多に心配を口にしない。
それを言う時は、大抵もうかなり気にかけている。
「薔子さん、優しいですよね」
「は?」
「結流ちゃんに対して」
「違うわよ」
「でも放っとけないんだ」
薔子さんは小さく息を吐いた。
「・・・芸能界って、ああいう子から壊れるから」
一瞬だけ、冗談のない顔になる。その目を潤は知っていた。長くこの世界にいる人間の目だった。
綺麗事だけじゃ生き残れない場所を見てきた人間の目。
努力すれば必ず、日の目を見れる訳でもない。才能があっても潰される事もある。親の七光りでごり押ししても、どうにもならない時もある。
正解なんて誰にもわからない。
運も。
タイミングも。
スポンサーも。
視聴率も。
流行りも。
全部かみ合って、ようやく立てる世界だ。
そのくせ、一度落ち始めれば早い。
才能があるほど削れて、優しい人間ほど壊れていく。薔子さんも多分、そういう瞬間を何度も見てきたのだろう。
潤自身、子役からこの世界にいる。
消えた子を何人も見た。
昨日まで笑っていた子が、急に来なくなる事。
無理に笑うようになって、少しずつ目が死んでいく事。
期待されて、持ち上げられて、壊れた瞬間から静かに見放される事。
珍しくもない。
この業界では、ありふれている。
だから薔子さんの言葉は、妙に現実味があった。
潤はその横顔を見る。
たぶん薔子さんは、結流の中に昔の自分を少し見ている。自分が傷ついた時の事を忘れていない。
隠すのが下手で。
感情が滲んで。
見せたくないものまで、ステージに出てしまうタイプ。
放っておけばいい。
芸能界では、それが正解だ。
深入りしない。
期待しすぎない。
壊れる時は壊れるのだから、距離を取っておく。
みんな、そうやって自分を守る。
「まあでも」
潤はわざと軽い声を出す。
「薔子さんに気に入られるの、結構レアですよ」
「気に入ってない」
「じゃあ興味ある」
「・・・うるさい」
「結流ちゃん知ったら喜びますよ。今度、薔薇会のご飯会にお誘いしましょ」
「言ったら殺す」
「怖」
即答だった。
でも、その脅しに本気の殺気がない時点で、今日はだいぶ甘い。
「潤」
「はい」
「尻尾振るのやめなさい」
「無理です。大好きな薔子さんが可愛いんで」
「気持ち悪っ」
薔子が呆れたように笑う。
その顔を見られただけで、今日の疲れは全部どうでもよくなった。
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