第九十三話「理想への渇望」
「それでね」アザリアは得意そうに話を続けた。「汚染された鉱山の街で、私ったら調子に乗って地元の戦士を雇ったのよ。『もうメルベルはいらないでしょ』なんて、タカを括って」
セラフィナは身を乗り出した。
「それで?」
「地元の戦士って、本当に役に立たないのね」アザリアは肩をすくめた。「いざという時になったら、腰を抜かして逃げ出すし。それなのに、なぜかメルベルが危険を察知して、走って追いかけてきてくれたの」
「走って?」
「ええ。血相を変えて。そこにいたエンリルみたいなゾンビを、あっという間に退治してくれたわ」
セラフィナの喉が、渇くような感覚に襲われた。
(昔ながらの...二人一組の旅...)
それは、彼女が人間だった頃に物語で聞いた、理想的なガードと巫女の関係そのものだった。現実に、そんな絵に描いたような冒険をしている人間がいるなんて。
「続きを聞かせてください」
セラフィナの声には、抑制しきれない興奮が込められていた。
「そんなに聞きたい?」
アザリアは少し得意になった様子で話を続けた。
「高山の中で、メルベルが目測を誤って、私たちは山小屋に釘付けになったことがあったの。吹雪で外に出られなくて」
「それで?」
「メルベルの腕の中で、毛布にくるまって寒さを凌いだのよ。一晩中、彼の体温だけが頼りだった」
セラフィナの脳裏に、ある疑問が浮かんだ。男女が一夜を共にすれば、当然...
「その時、あなたたちは...?」
意味深な問いかけに、アザリアは渋い顔をした。
「覚悟はしてたのよ、一応。でも、今思えば...」
彼女は深いため息をついた。
「襲っておけばよかった」
セラフィナは思わず息を呑んだ。
「え...?」
「だって、あの人、そういうこと全然しないのよ。真面目すぎて」
アザリアの言葉に、セラフィナは深いショックを受けた。巫女とガードが肉体関係を持たないなど、極めて稀なことだった。通常、長期間の旅を共にすれば、自然とそういう関係になるものだ。
(なぜ...?そんな純粋な関係が...)
「キシュの森では、もっと大変だったわ」
アザリアの声が続く。
「他の巫女たちと合同で森に入ったんだけど、途中で別れることになって。二人だけで、森の闇の中で震えながら息を潜めていたの」
セラフィナは目を閉じた。その光景を想像すると、胸が締め付けられるような感覚に襲われる。
(もし...もしも私の時も、そうだったら...)
キシュの森で、愛するガードと最後の夜を過ごした時。もしも彼が逃げ出さずに、最後まで自分と一緒にいてくれたなら—
「あの夜は、今でも忘れられない」
アザリアの声が、夢見るような調子になった。
「一睡もできない夜の中で、何千回もメルベルの鼓動を聞いたわ。規則正しい心臓の音だけが、私の安らぎだった」
セラフィナは震える唇で、その言葉を反芻した。
「息を潜めた恐怖と、でも同時に感じる安堵。彼がいる限り、きっと大丈夫だって信じることができた」
「体温と鼓動だけが頼り...」
セラフィナの声は掠れていた。それは、彼女がかつて夢見て、そして永遠に失った理想の夜だった。
「そうよ。外では魔物が蠢いていて、いつ襲われるか分からない。でも、メルベルの胸で眠っていると、世界で一番安全な場所にいるような気がしたの」
アザリアの瞳に、その夜の記憶が宿っている。純粋で、美しく、そして何より—真実の愛に満ちた記憶が。
セラフィナは拳を握りしめた。その話は、彼女にとって垂涎の物語だった。自分が人生を賭けて求め続け、そして決して手に入れることのできなかった、完璧な愛の形。
(なぜ...なぜこの女だけが...)
嫉妬と羨望が、セラフィナの心を激しく揺さぶった。しかし同時に、その美しい物語に魅了されている自分もいた。
「素晴らしい話ですわね」
セラフィナの声は、かすかに震えていた。
「まるで、古い物語のような...」
「でしょう?」アザリアは微笑んだ。「私も最初は信じられなかった。こんな人が、本当にいるんだって」
その時、セラフィナの心の奥で、何かが音を立てて崩れ落ちた。
アザリアの語る愛は、間違いなく本物だった。そして、それは自分が永遠に手に入れることのできない、美しい真実だった。




