第九話「煤煙の街の自由」
アクカドの街に足を踏み入れた瞬間、アザリアは予想していた光景とは異なるものを目にした。
確かに街は工業の煤煙に包まれ、空気は重く、建物の壁は黒ずんでいる。しかし、マリで見たような絶望的な混乱はなかった。街の角々に巫女装束を纏った女性たちの姿が見え、住民たちも深刻な表情ではあるものの、パニックに陥っているわけではない。
「他の巫女たちもいるのね」
アザリアは呟いた。胸の奥で複雑な感情が渦巻いている。
(案外、問題がないじゃない)
安堵と、それと同時にやってくる微妙な悔しさ。マリでのような劇的な活躍の場はないかもしれない。自分だけが頼りにされ、感謝される状況を、どこかで期待していた自分がいたのだ。
「流石に大都市に近いだけあって、人材は豊富らしいな」
メルベルの声に疲労が滲んでいた。ここ数日の不眠不休が、ついに彼の頑健な体にも限界をもたらしているようだった。
「安宿を探そう。少し休む必要がある」
「そうね」
アザリアは頷いたが、内心では別のことを考えていた。久しぶりの大きな街である。せっかくなら、少し見て回りたい。
宿は街の入り口近くにある、労働者向けの簡素な建物だった。部屋を二つ取り、荷物を置く。メルベルは明らかに疲労困憊の様子で、すぐにでも横になりたそうだった。
「それじゃあ、私は街を見て回ってくるわ」
アザリアが言うと、メルベルは眉をひそめた。
「ここには都市のような神殿戦士の巡回もない。宿で大人しくしていた方がいい」
「大丈夫よ」
アザリアは上品に微笑んだ。
「私だって一応巫女なのよ。そんなに心配することはないでしょう」
メルベルが何か言いかけた時、まさにその瞬間に彼は小さくあくびをした。疲労の証拠である。
アザリアの表情が微かに変わった。
(なんで、あなたの言うことを聞かなきゃいけないのよ)
心の中で呟く。これまで散々素っ気なく扱われ、最低限の敬意すら払ってもらえなかったではないか。今更、保護者ぶられても困る。
「ご忠告はありがたく承りました」
言葉は丁寧だが、声音には僅かな棘があった。
「でも、私はちょっと街を見てきます。お疲れのようですし、ゆっくりお休みになって」
メルベルは何かを言おうとしたが、アザリアはさっさと宿を出て行ってしまった。
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一人で街を歩くのは、神殿を出てから初めてのことだった。
アザリアの胸は、久しぶりの自由感で躍っていた。メルベルの無愛想な顔を見なくて済むし、誰かの歩調に合わせる必要もない。好きなところに好きなだけ立ち止まって、好きなものを見ることができる。
(こんなに気楽だったかしら)
街の雑踏に身を任せながら、アザリアは心から楽しんでいた。
アクカドは確かに汚れた街だったが、それなりに活気もある。鉱山で働く男たちの逞しい笑い声、商人たちの威勢の良い呼び声、子供たちの無邪気な遊び声。マリの上品な静寂とは違う、生命力に満ちた喧騒があった。
市場では見たことのない鉱石や工具が売られている。職人の作業場では、火花を散らしながら金属を叩く音が響く。全てが新鮮で、興味深かった。
(私、本当はこういうの好きだったのかも)
神殿の厳格な環境では、こうした庶民の営みに触れる機会はほとんどなかった。父が没落する前の裕福な時代も、使用人に囲まれた上流階級の世界で、やはり一般人との接触は限定的だった。
時間を忘れて歩き回っているうちに、アザリアは段々と街の奥深くへと足を向けていた。大通りから脇道に入り、更にその脇道から細い路地へ。好奇心に導かれるまま、足の向くまま。
工場の煙突が立ち並ぶ工業地区、労働者たちの住む簡素な長屋、材木や石材が積まれた資材置き場。街の裏側とも言うべき、観光客が来ることのない場所まで足を延ばしていた。
そして、ふと我に返った時。
(あれ?)
アザリアは立ち止まった。周囲を見回すが、見覚えのある建物が一つもない。細い路地に囲まれ、どちらが来た道なのかも分からない。
(どこかしら、ここ)
心臓が少し早く鼓動し始めた。まさか、道に迷ったのだろうか。
「大丈夫よ、落ち着いて」
自分に言い聞かせながら、アザリアは適当な方向に歩き始めた。しかし、歩けば歩くほど、風景は見知らぬものばかりになっていく。
(メルベルの言うことを聞いておけばよかった)
そんな弱気な考えが頭をよぎったが、すぐに首を振った。
(いえ、私一人でも大丈夫。なんとかなるはず)




