第八十九話「選択の時」
アザリアが窓から身を乗り出していると、背後で扉の開く音がした。振り返ると、蒼白な肌をした美しい女性が立っている。漆黒の髪が肩まで流れ、深紅の瞳が妖艶に光っていた。
「危険ですから、やめておいた方がよろしいですわ」
女の声は絹のように滑らかだったが、そこには冷たい響きがあった。
アザリアは胡乱げに振り返ると、諦めたように豪華なベッドに腰を下ろした。
「で、どうするの?私もあの裏切り者みたいにするわけ?」
アザリアの声には、開き直ったような調子があった。死を覚悟した者特有の、妙な冷静さが宿っている。
女は優雅に一礼した。
「申し遅れました。私はセラフィナと申します。この城の幹部の一人ですわ」
「セラフィナね。で、私をどうするつもり?」
「ご安心ください。あのような処置は、巫女様には施すことができません」
セラフィナの言葉に、アザリアは眉をひそめた。
「じゃあ、今晩の晩御飯にでもするの?」
あっけらかんとした質問に、セラフィナは微笑を浮かべた。
「実は、私どもも最初はそのつもりでした。しかし、王がおやめになるよう仰せになりまして」
「じゃあ、なんで攫ったのよ」
アザリアの疑問は至極もっともだった。セラフィナは少し考えるような仕草をしてから答えた。
「我々は時折、このようにして人を攫ってまいります。特に、力のある者を」
「それで?」
「死ぬか、仲間になるか、選んでいただいているのです」
アザリアは「なるほど」と頷いた。そして、しばらく考え込むような表情を見せる。
「仲間になったら、多分メルベルが私を殺しにくるでしょうね」
「メルベル?」
「私のガード。筋金入りの戦士だから、きっと容赦しないでしょう」
アザリアの声には、メルベルへの絶対的な信頼が込められていた。
「そうなったら結局同じことだし...それなら、あの人の手前、潔白な女のまま死にたいわ」
セラフィナは興味深そうに眉を上げた。
「つまり?」
「殺すなら、できればさっくりやって欲しいの。変に苦しめないで」
アザリアの言葉には、不思議な威厳があった。死を前にしても、自分の尊厳を保とうとする意志の強さが感じられる。
「お伝えしておきますが、期待はなさらない方がよろしいですわ」
セラフィナはそう言い残すと、優雅に部屋から退出していった。
一人になったアザリアは、しばらくベッドの端に座っていた。外からは、遠く荒廃した城下町を照らす薄暗い光が差し込んでいる。
やがて、彼女は毛布を頭まで被って横になった。
最初は静かだった。しかし、次第に小さな震えが始まった。
「うっ...うう...」
毛布の中から、押し殺した嗚咽が漏れてくる。
「言うこと聞いとけば...よかった...」
アザリアの声は涙に震えていた。先ほどまでの気丈な態度は、もうどこにもない。
「メルベルの...メルベルの言うこと聞いとけば...」
彼女の脳裏に、あの日の食堂での光景が蘇った。メルベルが予知夢について真剣に語っていたのに、自分は笑い飛ばしてしまった。
「予知夢...本当だったのね...」
涙が頬を伝い、枕を濡らした。
「もっと...もっといろんな場所に行きたかった...」
バビロンの遺跡、エリドゥの古代神殿、まだ見ぬ聖地の数々—夢見ていた冒険が、すべて幻となって消えていく。
「メルベルと一緒に...もっと冒険したかった...」
森での夜、毛布にくるまって彼の胸で眠った時の温もり。ルカヴィとの戦いの後、彼が見せた安堵の笑顔。すべてが、もう二度と戻らない思い出になってしまった。
「ごめんなさい...ごめんなさい...」
アザリアの嗚咽は、深夜まで続いた。




