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第八十七話「死への憧憬」



川岸の石に座ったアジョラの頭の中で、冷徹な計算が進んでいた。


(アザリアを救うには、大部隊の編成が最も合理的です)


メルベルの予知夢を分析する限り、アザリアの死は見えていない。ということは、少なくとも当面の間、彼女が殺される可能性は低い。


(しかし、大部隊を編成している間に、この男が単身で突っ込んでしまえば...)


アジョラの推理が正しければ、メルベルの死がアザリアの絶望を引き起こし、微睡の魔王の誕生に繋がる。それだけは、何としても阻止しなければならない。


(選択肢は一つしかありません。短時間で集められる戦力で、メルベルと共に行動し、二人とも生きて帰ってくること)


アジョラは立ち上がると、カマエルを呼んだ。


「一日で集められる部隊と物資を検討しなさい。神殿戦士は最低二十名、補給物資は三日分」


「しかし、聖女様、そのような小規模な部隊では...」


「構いません。速度を優先します」


部下たちが慌ただしく打ち合わせを始める中、メルベルは大河を見渡していた。対岸への渡河手段を探している。


だが、彼の心は別のことに占められていた。


(ついに...ついにこの時が来た)


メルベルの胸に、狂気に近い高揚感が渦巻いている。アザリアと出会う前の自分を思い出すと、吐き気すら覚えた。


あの頃の彼は、ただ金がいくらかあるというだけの小金持ちに頭を下げ、仕事を無心していた。薄汚い用心棒稼業、借金取りの手伝い、時には盗賊まがいの仕事まで—世間からは鼻つまみ者として扱われ、戦士の誇りなど微塵もない、ただ生きているだけの惨めな日々。


(あんな腐った生活から、俺を救い出してくれたのは...)


アザリアだった。彼女との出会いが、すべてを変えた。


彼女について行った旅で、初めて村のために剣を振った。村人たちからの心からの感謝。悪党どもを斬り伏せた時の爽快感。腐敗して蠢く死体どもを討った時の達成感。かつては見上げて愚痴をこぼすだけだった神殿戦士たちに、でかい顔ができるようになったのも。


そして何より—アザリアの尊敬の眼差し。


キシュの森での息を殺しての潜行。毛布にくるまって震えながら過ごした夜。ルカヴィとの死闘で見せた、彼女の勇敢な炎。そして、勝利の後で見せた屈託のない笑顔—


すべては、彼女が俺に与えてくれたものだった。


(俺の名前が歌になり、劇になった...)


吟遊詩人たちが酒場で歌う「勇敢なる戦士メルベルの冒険譚」。劇場で演じられる「聖女と闇の騎士」。子供たちでさえ、彼の名前を知っている。


かつて夢見た物語のような世界が、現実となったのだ。


(そして今...最高の舞台が用意されている)


愛する女性のために命を賭ける。これ以上に美しい結末があるだろうか。華々しい討ち死に—それこそが、「闇の戦士」の末裔に相応しい最期だった。


メルベルは川岸に小舟を発見し、歩み寄った。その時、背後からアジョラの声が響く。


「メルベル殿!何をしておられるのですか!」


「船を探していた。すぐに追跡を開始する」


「お待ちください!」


アジョラは慌てて駆け寄った。


「あなたの予知夢では、アザリアはすぐには死なないのでしょう?それならば、我々と一緒に行動された方が確実です」


「ふざけるな!」


メルベルの声が、夜の静寂を破った。


「今、俺の戦友が苦しんでいるんだ!一刻の猶予もない!」


「しかし、無謀な突撃では何の意味もありません!」


「無謀だと?」


メルベルの瞳に、激しい怒りが燃え上がった。


「俺は彼女のために死ぬと決めたんだ!それを無謀と呼ぶのか!」


「死ぬことが目的ではないでしょう!救うことが目的のはずです!」


「俺に指図するな!」


敬語も忘れ、メルベルは叫んだ。


「お前に何がわかる!俺がどれだけ汚い人生を送ってきたか、お前に何がわかる!」


神殿戦士たちが、驚愕の表情で二人を見つめている。異教徒が聖女に向かって、このような暴言を吐くなど前代未聞だった。


「アザリアと出会って、俺は初めて戦士として生きることができた!今度は、戦士として死ぬ番だ!」


「あなたが死んでしまえば、アザリアはどうなるのですか!」


アジョラも負けじと声を張り上げた。


「あなたが無駄死にしたら、彼女も絶望するでしょう!それがあなたの望みですか!」


メルベルの言葉が止まった。アジョラの指摘は、彼の急所を突いていた。


「私は彼女を絶対に救います!」


アジョラの声には、揺るぎない決意が込められていた。


「しかし、それにはあなたの協力が必要です!あなたの後世の名声のために、彼女を危険に晒すおつもりですか!」


「...くそっ」


メルベルは拳を握りしめた。アジョラの言葉に、反論の余地がない。


「わかった...お前の提案に従ってやる」


「よろしい。では、今すぐ予知夢を見るために休息を取ってください」


「何だと?」


メルベルは耳を疑った。


「今すぐテントを張りなさい!この方に最上の寝具を用意するのです!」


アジョラの突然の命令に、部下たちも困惑した。


「こんな時に寝ろだと?ふざけるな!」


メルベルの怒りが再燃したが、アジョラはさらに声を荒げた。


「予知夢があれば、少ない手勢でもアザリアを救えるでしょう!何ですか、その言い草は!」


アジョラの怒りは本物だった。


「あなたの名誉欲などどうでもよろしい!アザリアを救いたくないのですか!」


再び痛いところを突かれて、メルベルは歯噛みした。確かに、予知夢があれば救出の成功率は格段に上がるだろう。


部下たちが慌ててテントを設営し始める中、メルベルは悔しそうに舌打ちした。


「なんて聖女だ...強引すぎる」


その呟きを聞いたアジョラは、部下に向かって吐き捨てるように命じた。


「あの男にしこたま食わせなさい。酒も飲ませて、腹一杯にした方がすぐに眠れますから」


「はっ、はい...」


部下たちは慌てて食料と酒を運び始めた。川岸に設営された即席の野営地で、奇妙な光景が展開されている。


メルベルは重い足取りでテントに向かいながら、内心で呟いた。


(最高の死に場所が...こんな形で先延ばしになるとは)


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