第八十六話「予知の解析」
川岸の石に腰を下ろしたアジョラは、メルベルの言葉を反芻していた。夜風が彼女の髪を揺らし、松明の炎が思慮深い表情を照らし出している。
(この男の予知夢は、ガレスよりもはるかに強力です)
夫の能力について、アジョラは熟知していた。ガレスの夢は断片的で、解釈に苦労することが多かった。しかし、メルベルの夢は違う。馬車の追跡ルート、船での移動、アザリアの拉致—すべてが驚くほど正確に的中している。
(解像度が極めて高い...まるで実際に見てきたかのように)
アジョラの脳裏に、一つの疑問が浮かんだ。もしアザリアが拷問によって絶望し、それが魔王の変貌を引き起こすのなら、メルベルの夢にその瞬間が映っていてもおかしくはない。
夫ガレスと共に数々の予知夢を解析してきた経験が、アジョラの推理を導いていく。闇の戦士一族の予知夢は、パズルのようなものだ。一見無関係に見える断片が、実は重要な真実を示している。
「メルベル殿」
アジョラの声には、探究心が込められていた。
「アザリアが苦しんでいる夢を見た時、微睡の魔王は同時に現れましたか?」
メルベルは困惑した表情を浮かべた。今まで、誰もこのような詳細な質問をしてこなかった。アザリアでさえ、笑い飛ばしただけだった。
「同時に...?」
「はい。アザリアが拷問を受けているまさにその時、魔王の気配を感じましたか?」
メルベルは目を閉じ、記憶を辿った。拷問場面の悪夢は鮮明だったが...
「いえ...出てきていません」
その答えを聞いた瞬間、メルベル自身にも気づきが訪れた。
「そういえば...アザリアの苦痛と魔王の復活は、同時に起こってはいませんでした」
アジョラは頷いた。予想通りの答えだった。
「では、もう一つお聞きします。アザリアは拷問で死ぬのですか?」
メルベルの顔が苦悶に歪んだ。その夢は、彼にとって最も辛いものの一つだった。
「いえ...死にません」
「確実に?」
「はい。苦しんでいますが...命を落とすことはありません」
アジョラの心の中で、すべてのピースが繋がり始めた。
(なるほど...魔王の復活は、アザリアの肉体的苦痛が原因ではありません)
彼女は静かに立ち上がり、川面を見つめた。月光が水面に銀の道を描いている。
(アザリア一人の絶望では不十分。魔王の誕生には、より深い絶望が必要なのです)
アジョラの脳裏に、過去の記録が蘇った。聖女が闇に堕ちる例は、歴史上珍しいことではない。しかし、それらはすべて個人的な絶望によるものだった。微睡の魔王のような強大な存在の誕生には、もっと特別な条件が必要なはずだ。
(アザリアとメルベル...二人同時の絶望)
古式契約の真の意味が、ようやくアジョラには理解できた。あの呪縛は、単なる従属関係ではない。魂の絆そのものなのだ。
(聖女が最も愛する者を失った時...その絶望は、個人を超えた破滅的な力となる)
アジョラの推理は、恐ろしい結論に達していた。
(メルベルが死ねば、アザリアは完全に絶望する。そして、その絶望が微睡の魔王を生み出すのです)
彼女は振り返ると、メルベルの決意に満ちた表情を見つめた。この男は、自分の死が魔王復活の引き金になることを知らない。むしろ、自分が死ぬことで魔王の復活を阻止できると信じている。
(なんという皮肉...)
アジョラの胸に、深い同情が湧いた。メルベルの高潔な自己犠牲の精神が、実は最悪の結果を招くことになるのだ。
「聖女様」
カマエルの声が、アジョラの思考を中断した。
「決断を下していただかなければ...」
アジョラは深く息を吸った。この推理が正しいなら、メルベルを単独で向かわせるわけにはいかない。しかし、大部隊での追跡も現実的ではない。
(一体、どうすれば...)
夜風が川面を渡り、遠くでフクロウの鳴き声が響いた。運命の分岐点で、アジョラは重大な選択を迫られていた。
メルベルは立ち上がり、剣の柄を握った。
「俺は行きます。アザリアを見捨てるわけにはいかない」




