第八十二話「仮面の剥落」
馬車の揺れが、次第にアザリアの心に不安を呼び起こしていた。
最初は冒険への期待に胸を躍らせていたが、時間が経つにつれて違和感が募ってくる。同乗している神官たちの表情が妙にこわばっているのだ。普通なら聖地への遠征に同行することを光栄に思うはずなのに、彼らの目には奇妙な緊張感が宿っている。
「エンリル様」
アザリアは穏やかな声で尋ねた。
「この道は、本当に安全なルートなのでしょうか?」
エンリルは相変わらず慈愛に満ちた笑みを浮かべている。
「もちろんです、アザリア殿。心配には及びませんよ」
しかし、その答えには具体性がない。アザリアが詳細を尋ねても、「大丈夫です」「安心してください」という曖昧な言葉しか返ってこない。
馬車の外に目を向けると、風景が次第に荒涼としてきていた。都から離れるにつれて、道端の草木も枯れ、空の色も重苦しく変わっている。
その時、メルベルの声が心の奥で響いた。
『アザリアが神官たちに拷問を受けて、命を落とす...俺には予知夢があるんだ』
(そんなバカな...)
アザリアは首を振った。あの時、彼女はメルベルの言葉を迷信だと笑い飛ばした。予知夢など、時代遅れの戯言だと。
しかし、馬車を包む闇が深くなるにつれて、メルベルの警告が耳鳴りのように繰り返される。
『神官の中に裏切り者がいる...アザリアを守らなければならない』
「メルベルは、いつ頃追いついてくるのでしょうか?」
アザリアの声に、わずかな不安が滲んだ。エンリルは同じような笑顔で答える。
「もちろん、じきに追いつきますよ。連絡はしっかりと取ってありますから」
その時、アザリアは気づいた。エンリルの笑顔が、まったく目に達していないことに。口元だけが笑っているが、瞳は冷たく光っている。
(まさか...)
旅への興奮で高揚していた気分が、急速に冷めていく。冷静になってみると、すべてがあまりにも性急だった。準備の時間も与えられず、詳しい説明もないまま連れ出されたのだ。
「少し...お手洗いに行きたいのですが」
アザリアは控えめに言った。
「馬車を止めていただけませんでしょうか?」
「もう少しですから、辛抱してください」
エンリルの返答は、今度は少し硬い調子だった。
「でも、本当に我慢できないんです。お願いします」
「すぐに到着いたします。もう少しだけ」
同じ答えが機械的に返ってくる。アザリアの胸に、確信に近い恐怖が芽生えた。
(これは...罠よ)
メルベルの予知夢が、現実となろうとしているのだ。
アザリアは立ち上がると、迷うことなくエンリルの腹部に蹴りを放った。
「きゃあああ!」
「うぐっ!」
エンリルが苦悶の声を上げた瞬間、アザリアは両手に炎の力を集中させた。五つの聖火のエネルギーが、彼女の全身を包み込む。
「炎よ!」
眩い光が馬車内を満たした。神官たちが目を押さえて悲鳴を上げる中、アザリアは馬車の扉に向かって跳んだ。
「何事だ!」
御者が慌てて馬車を止める。馬車から立ち上る炎と煙に驚愕しているところへ、アザリアが飛び出してきた。
「助けて!誘拐よ!」
アザリアは必死に走った。しかし、周囲は荒野であり、隠れる場所もない。
「捕まえろ!」
エンリルの声が響いた。もはや、そこには慈愛の欠片もない。冷酷で命令的な、まったく別人の声だった。
馬車の周囲から、数十人の男たちが現れた。彼らは神官の装束を身につけているが、その目は獣のように血走っている。
「離して!離しなさい!」
アザリアは炎の力で抵抗したが、多勢に無勢だった。男たちに取り押さえられ、地面に押し倒される。
「一体、何のつもりなの!」
アザリアが叫ぶと、エンリルがゆっくりと近づいてきた。炎で焼かれた服を払いながら、その顔には今まで見たことのない冷酷な笑みが浮かんでいる。
「何のつもり、ですって?」
エンリルの声は、もはや別人のものだった。慈愛に満ちた老神官の仮面が、完全に剥がれ落ちている。
「私たちの永遠の命のために、あなたの身柄が必要なのですよ、アザリア殿」
「永遠の命?何のことよ!」
「我らが王...アンデッドの王が、あなたの聖火のエネルギーを求めておられるのです。そして、あなたを通じて微睡の魔王を復活させる」
エンリルの瞳に、狂気じみた歓喜の光が宿った。
「あなたが絶望し、憎悪に染まった時、真の魔王が誕生するのです」
「そんな...まさか...」
アザリアの顔が青ざめた。メルベルの予知夢が、恐ろしいほど正確だったことを思い知る。
「メルベルは...メルベルはどうしたの!」
「あの戦士?神殿の牢屋で、発狂しているでしょうね」
エンリルは嘲笑を浮かべた。
「古式契約の呪縛により、あなたの苦痛を共有しているのです。きっと、今頃は地獄のような苦痛に悶えていることでしょう」
「あなたたち...許さない...」
アザリアの瞳に、激しい怒りの炎が燃え上がった。しかし、エンリルは冷静に手を振り上げる。
「大人しくしていただきましょう」
鈍い音と共に、アザリアの意識が闇に沈んだ。




