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第八十話「狼狽と幻視」



神殿の最奥にある聖女の居室で、アジョラは緊急報告を受けていた。


「男が?男子禁制区域に?」


報告者である年配の神官は、息を切らしながら頷いた。


「はい、アジョラ様。アザリア様の護衛をしていたという異教徒の戦士が、突然乱入してまいりました。『アザリアが攫われた』『神官の中に裏切り者がいる』と喚き散らしまして...」


アジョラの美しい顔に、一瞬血の気が失せた。彼女の直感が、不吉な予感を告げている。


「アザリア殿は?」


「それが...居室にはおりませんでした。旅装束や冒険用の装備も消えておりまして」


「何だと?」


アジョラは椅子から立ち上がった。その動作は、普段の優雅さを失って荒々しい。


「すぐに目撃者を集めろ。今日のアザリア殿の行動を、時刻順に整理するのだ」


数刻後、集められた証言は、アジョラの最悪の予感を現実のものとした。午後の早い時刻、アザリアが神殿の裏門から馬車で立ち去る姿が確認されている。同行者の詳細は不明だが、神官の装束を身に着けた人影が複数いたという。


「エンリルは?」


アジョラの声は、抑制された怒りに震えていた。


「エンリル様は...」報告者が言いよどむ。「午後に部下数十名を連れて外出され、現在も戻っておりません」


「しまった...!」


アジョラは拳を握りしめた。歯を噛み締める音が、静寂な室内に響く。


「あの狐め...まんまと出し抜かれたか」


彼女の瞳に、激しい後悔の炎が燃え上がった。エンリルを疑いながらも、証拠不十分で手を出せずにいた自分の優柔不断を呪う。


「すぐに追跡隊を編成しろ。神殿戦士五十名、それに...」


「アジョラ様」別の神官が割って入った。「どちらの方向に向かったか、まだ判明しておりません。闇雲に追っても...」


アジョラは苛立ちを隠さず、石の床を踏み鳴らした。


---


その頃、神殿の地下牢では、メルベルが地獄のような幻覚に苛まれていた。


石造りの独房の中で、彼は虚空に向かって手を伸ばしている。そこには、現実には存在しない光景が展開されていた。


揺れる馬車の中。アザリアが見知らぬ神官—エンリルと向かい合って座っている。彼女の表情には困惑があったが、まだ疑念は宿っていない。


「もうすぐ安全なルートの入り口に着きますよ」


エンリルの声が、幻覚の中で響く。その笑みは慈愛に満ちているように見えるが、メルベルにはその奥の邪悪さが見えていた。


「メルベルは、本当に追いついてくるのでしょうか...?」


アザリアの不安そうな声が、メルベルの心を引き裂く。


(アザリア...そいつを信じるな...!)


メルベルは幻覚に向かって叫ぼうとするが、声は出ない。ただ、空気を掴むように手を振るだけだった。


幻覚が変わった。今度は石造りの地下室。アザリアが鎖で縛られ、黒いローブの神官たちに囲まれている。彼女の顔は恐怖に歪み、涙が頬を伝っている。


「聖火のエネルギーを我らが王に捧げよ」


「いやっ!やめて!メルベル!助けて!」


アザリアの絶叫が、メルベルの魂を打ち砕く。彼は牢の石壁に向かって拳を叩きつけた。


「やめろ!彼女に触るな!」


しかし、それは空虚な石壁でしかない。幻覚の中のアザリアに、彼の声は届かない。


吐き気が込み上げてきた。今まで経験したことのない、魂を揺さぶるような嘔吐感だった。メルベルは牢の隅で膝をつき、胃液を吐いた。


「消えろ...消えてくれ...」


彼は頭を抱えて蹲った。しかし、幻覚は止まない。馬車の中のアザリアと、地下室のアザリア。二つの光景が交互に現れては消える。


牢の外で見張りをしている神殿戦士が、呆れたような表情で肩をすくめた。


「おいおい、麻薬でもやってるのか、こいつは」


「異教徒の迷信だろ。放っておけ」


「しかし、ここまで酷いとは...まるで悪霊にでも憑かれたみたいだな」


神殿戦士たちの会話が、メルベルの耳に遠く響く。しかし、彼にはもはや現実と幻覚の区別もつかなくなっていた。


金の鎖が、彼の首を締め付け続けている。まるで、アザリアの苦痛を共有するかのように。古式契約の呪縛が、今や彼を狂気の淵へと押しやろうとしていた。


「アザリア...待ってろ...必ず...必ず助けに行く...」


メルベルの呟きは、石の牢獄に虚しく響いた。看守たちはその様子を薄気味の悪いものとして嘲笑しながら見ていた。

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