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第七十八話「甘美なる誘惑」



神殿の一角にある静謐な談話室で、アザリアは心の内を吐露していた。午後の日差しが石造りの窓から斜めに差し込み、彼女の美しい横顔に陰影を刻んでいる。


「エンリル様...実は、私には叶えたい夢があるのです」


アザリアの声には、普段の気丈さとは異なる、どこか少女のような憧憬が滲んでいた。エンリルは慈愛に満ちた表情で頷き、彼女の言葉を促す。


「あの人...メルベルと、二人だけでもう一度冒険に出たいのです。残りの聖火を求めて」


その瞬間、エンリルの瞳に一瞬だけ、獲物を見つけた狩人のような鋭い光が宿った。しかし、それは慈父のような微笑みの陰に巧妙に隠される。


「ほう...それは素晴らしい志ですね、アザリア殿」


エンリルは心の中で、アザリアとメルベルの関係性を分析していた。彼女の語る冒険譚から、メルベルという男の真の姿が浮かび上がってくる。キシュの森での命懸けの戦い、ルカヴィとの死闘、そして何より、アザリアを守り抜こうとする揺るぎない意志。


(なるほど...この娘は本気でその男に惚れ込んでいる。そして、その戦士もまた、彼女のためなら命をも惜しまぬ覚悟を持っている)


エンリルの唇に、計算された優しさの笑みが浮かんだ。


「しかし、現在の体制では、残念ながらそのような個人的な遠征は認められておりません。大部隊での組織的行動が原則ですから」


「そう...ですよね」


アザリアの肩が、失意に沈むように落ちた。その様子を見つめながら、エンリルは次の手を打つ。


「ただし...」


わざと間を置いて、アザリアの注意を引きつける。彼女の瞳に希望の光が宿るのを確認してから、エンリルは声を落とした。


「実は、残りの聖地への安全なルートを知っているのです」


「え...?」


アザリアの目が大きく見開かれた。まさかそのような話があるとは思ってもみなかったのだろう。


「なぜ、そのようなルートが秘密にされているのですか?皆に教えてあげれば...」


エンリルは深いため息をついて見せた。まるで重い責任を背負った者の苦悩を表現するかのように。


「それには、複雑な事情があるのです。確かにそのルートは比較的安全ですが、それでも相応の危険は伴います。何より、大部隊での移動には適さない、極めて狭い隘路なのです」


アザリアは身を乗り出した。


「それでも...」


「そして、これは神殿の上層部でのみ語られることですが」エンリルは声をひそめた。「聖火の力は有限です。才能に乏しい者に貴重な聖火を与えてしまえば、都の防衛システム全体が危機に陥る可能性があります」


その言葉には、もっともらしい理屈が込められていた。アザリアは困惑の表情を浮かべる。


「つまり、将来性のある、真に優秀な巫女にのみ、そのルートは明かされることになっているのです」


エンリルはアザリアの手を優しく取った。


「あなたは残念ながら今回の試験で不合格となってしまいました。組織としては、大部隊による遠征の対象外となります」


アザリアの顔が青ざめた。


「しかし」エンリルの声に、救いの調べが込められる。「私個人の判断として、あなたの情熱と実績を高く評価しております。もし、あのルートを使われるなら...」


「本当ですか?」


アザリアの瞳に、再び希望の炎が燃え上がった。エンリルは内心で勝利を確信しながら、表面的には慈愛に満ちた表情を保つ。


「ただし、条件があります。他の職員に知られてしまえば、私の立場も危うくなる。今すぐにでも出発していただかねば」


「でも、メルベルが...彼なしでは意味がありません」


アザリアの声に、切実な想いが込められていた。エンリルは、その反応をも計算のうちに入れていた。


「もちろんです。彼はいつもの食堂におられるのでしょう?私の方から事情を説明し、追いつかせるよう手配いたします」


エンリルの声には、絶対的な自信が込められていた。まるで、すべてが完璧に準備されているかのように。


「本当に...?」


アザリアは混乱していた。あまりにも突然の話で、頭の整理が追いつかない。しかし、エンリルの言葉には説得力があり、何より、彼女の最も深い願いを叶えてくれる内容だった。


「信じてください、アザリア殿。あなたの情熱に応えたいのです」


エンリルの瞳に宿る光は、表面的には慈愛に満ちているように見えた。

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