第七十七話「信頼の構築」
研修が始まって三日目、アザリアは既にエンリルという神官に深い感謝を抱いていた。
「アザリア聖女、この書類の整理でお困りのようですね」
エンリルは親身な様子で近づいてくる。彼の手には、複雑な地方都市管理システムを分かりやすく解説した手作りの資料があった。
「ありがとうございます。本当に助かります」
アザリアは心から感謝していた。他の研修生たちが四苦八苦している間に、エンリルの助けで彼女だけがスムーズに業務を進められていたのだ。
「これも覚えておくと良いでしょう」
エンリルは別の資料を取り出した。地方都市の予算配分に関する極秘資料だった。
「え、これは...」
「心配いりません。あなたのような優秀な方には、早めに実務を覚えていただきたいのです」
彼の顔は慈愛に満ちていた。まるで孫娘を見守る祖父のような温かさがある。
実際、エンリルの神殿内での影響力は絶大だった。業務に精通しているのはもちろん、人付き合いの巧さは魔術的とも言えるほどだった。どんな複雑な問題でも、彼が関わればスムーズに解決する。
「エンリル様は本当にすごい方ですね」若い神官の一人が感嘆の声を上げた。
「ええ、神殿の生き字引のような存在です」別の職員も同調する。
しかし、ただ一人だけ、エンリルを冷ややかな目で見ている人物がいた。
---
神殿の最上階にある聖女の執務室で、アジョラは窓の外を見つめながら苦々しい表情を浮かべていた。
*エンリル...*
彼の名前を思い浮かべるだけで、胸の奥に不快感が湧き上がる。表面上は完璧な神官だが、アジョラには分かっていた。
あの男は敵のスパイだ。
確証はない。しかし、長年の経験が告げている。エンリルの病気の急な回復、あまりにも都合の良いタイミングでの昇進、そして何より、彼の周りで起こる不可解な出来事の数々。
*どうにかして排除したいが...*
しかし、エンリルは非常に巧妙だった。表面上は誰もが認める優秀な神官として振る舞い、多くの信頼を得ている。根拠のない疑いだけで彼を排除することは不可能だった。
そんな時、扉がノックされた。
「失礼いたします」
入ってきたのは、研修中のアザリアだった。定期報告のための面談の時間である。
「お疲れ様です。研修の調子はいかがですか?」
アジョラは努めて平静を装った。この若い巫女への期待を隠し、あくまで冷静に会話を進める。
「はい、おかげさまで順調です」アザリアは明るく答えた。「エンリル様が色々と教えてくださるので、とても勉強になっています」
アジョラの表情が一瞬強張った。
「エンリル神官が?」
「はい。本当に親切で、分からないことがあると丁寧に説明してくださいます」
アザリアの無邪気な笑顔を見ながら、アジョラの胸に警鐘が鳴った。
*まさか、もうアザリアに接触を?*
「そうですか。それは...良いことですね」
アジョラは表面上は同意したが、内心では別のことを考えていた。エンリルがアザリアに近づいているとすれば、何らかの邪悪な目的があるに違いない。
「ところで」アジョラはさりげなく話題を変えた。「聖地巡礼の経験について、詳しく聞かせていただけますか?」
「はい」
アザリアは目を輝かせて語り始めた。キシュの森での冒険、ルカヴィとの戦い、そしてメルベルとの絆について。
アジョラは静かに聞いていたが、アザリアの話の中に確かな情熱を感じ取っていた。
*この子は本物だ*
しかし、同時に不安も募った。エンリルがこの純粋な巫女に何を吹き込もうとしているのか。
「素晴らしい経験をされましたね」アジョラは穏やかに微笑んだ。「その経験を活かして、今後も頑張ってください」
「ありがとうございます」
アザリアが退室した後、アジョラは深いため息をついた。
*エンリルの狙いは何だ?*
彼女は立ち上がり、窓の外の景色を見つめた。暗雲が立ち込めているような気がしてならない。
*アザリアを守らなければ...*
しかし、具体的にどう行動すべきか、まだ答えは見つからなかった。エンリルは非常に巧妙で、正面から対抗するのは困難だった。
神殿の廊下では、エンリルがアザリアを待っていた。
「お疲れ様でした。アジョラ聖女とのお話はいかがでしたか?」
「とても優しい方でした」アザリアは素直に答えた。
「それは良かった」エンリルは満足げに微笑んだ。「では、明日の研修の準備をしましょうか」




