第七話「腐敗の群れ」
異臭に気づいたのは、メルベルが先だった。
街道から少し外れた窪地で、風向きが変わった瞬間に漂ってきた腐敗の匂い。甘ったるく、鼻を突く悪臭である。メルベルは即座に足を止め、剣の柄に手をかけた。
「何?」
アザリアが不審に思って尋ねる。
「死臭だ」
メルベルの表情が険しくなった。
「引き返すぞ」
しかし、それは既に遅かった。窪地の向こうから、ゆらゆらと立ち上がる影がいくつも見える。腐敗した軍服を纏い、武器を持った人型の何かが、のろのろとこちらに向かってくる。
アンデッドの兵士たちであった。
「くそ」
メルベルが舌打ちした。退路を断たれている。左右は崖に挟まれた谷間で、前進するか交戦するかしか選択肢がない。
「下がっていろ」
メルベルはアザリアを背後に押しやり、剣を抜いた。刃が淡い炎を纏い、周囲の空気がわずかに暖かくなる。法力使いの技である。
最初のアンデッドが、腐った腕を振り上げて襲いかかってきた。
メルベルの剣が一閃、アンデッドの胴体を横に薙いだ。炎を纏った刃に触れた途端、アンデッドの身体が煙を上げて崩れ落ちる。しかし、すぐに次が迫ってくる。
「二体、三体」
メルベルは数を数えながら戦った。アンデッドの動きは鈍いが、数が多い。一体ずつ確実に仕留めていく必要がある。
四体目のアンデッドが、予想以上に素早い動きでメルベルの脇腹を狙った。彼は身を捻って避けたが、バランスを崩す。その隙に、別のアンデッドがアザリアに向かって歩み寄った。
「きゃっ」
アザリアは反射的に走り出した。岩場を駆け回り、アンデッドから距離を取ろうとする。足場の悪い地面で何度もつまずきそうになりながら、必死に逃げ回る。
追いかけてくるアンデッドに背中を向けたまま、アザリアは振り返りざまに両手を突き出した。掌から、小さな光が生まれる。聖火の力である。
光はアンデッドの顔面を直撃した。アンデッドは苦しそうに顔を押さえ、動きを止める。大きな損傷は与えられないが、足止めには十分だった。
メルベルがそのアンデッドを横から斬り捨てる。
「逃げ回ってろ。近づくな」
メルベルは短く指示を出した。
アザリアは頷いて、また走り出した。次のアンデッドが群がってきた時も、岩から岩へと飛び移りながら距離を保つ。息が切れ、足がもつれそうになる。
恐怖に駆られながらも、時々振り返っては閃光を放った。強い光がアンデッドたちの視界を奪い、動きを鈍らせる。その間に、メルベルが次々と斬り倒していく。
戦いは、それほど長くは続かなかった。
アンデッドの数は七体。メルベルの炎の剣の前では、彼らは次第に劣勢となった。最後の一体が崩れ落ちた時、辺りに静寂が戻った。
「終わったか」
メルベルは剣を鞘に納めながら辺りを見回した。アンデッドの残骸が煙を上げて消えていく。
「大丈夫か」
アザリアに振り返ると、彼女は岩にもたれて荒い息をついていた。顔は青白く、手が震えている。
「初めて?」
「ええ」
アザリアは素直に答えた。息がまだ荒く、額に汗が浮いている。
「実戦は初めて。怖かった」
「そうだろうな」
メルベルの返答は短い。特に慰めるでもなく、批判するでもない。
「逃げ回るしかできなかった」
「それでいい」
メルベルは剣を拭きながら言った。
「下手に近づいて足手まといになるより、距離を保つ方がましだ」
「なぜここにアンデッドが」
「死体の処理が不十分だったんだろう」
メルベルは窪地の方を見た。
「戦争か、疫病か。いずれにしても、大量の死者が出て、きちんと火葬されなかった」
「それで」
「死者の怨念と腐敗が結びついて、アンデッドになった」
メルベルの説明は簡潔だった。
「こういう場所は、他にもあるだろう。気をつけなければならない」
二人は急いでその場を離れた。アンデッドが現れた以上、この辺りは危険である。
夕方、ようやく安全そうな場所で野営することにした。焚き火を起こし、質素な夕食を取る。
「私、役に立てたかしら」
アザリアが恐る恐る尋ねた。
「邪魔にはならなかった」
メルベルの答えは素っ気ない。
「光の術で時間は稼げていた」
褒めているのか、それとも最低限の評価なのか分からない言い方だった。
「もっと強いアンデッドもいる」
メルベルは話題を変えた。
「魔法を使うもの、群れで統率されたもの、知恵を持つもの」
メルベルは火を見つめながら言った。
「今日のは、弱い部類だ」
アザリアは背筋が寒くなった。あれでも弱いのか。
その夜、アザリアは興奮と疲労で眠れずにいたが、やがて深い眠りに落ちた。初めての実戦は恐ろしく、自分の無力さを痛感させられた。逃げ回ることしかできず、メルベルに頼りきりだった。
メルベルは焚き火の傍で夜警を続けながら、眠っているアザリアを横目で見た。
(久々に、まともな仕事だったな)
今日の戦闘を振り返り、メルベルは小さく満足していた。アンデッドを相手にした戦いは、野盗紛いの汚れ仕事とは訳が違う。法力使いとして、本来あるべき戦いだった。
ただし、完璧ではなかった。依頼主を危険に晒してしまったのは、自分の未熟さの証拠である。本来なら、アザリアが逃げ回る前にアンデッドを瞬殺すべきだった。そうすれば、もう少し格好もついただろう。
(まだまだだな、俺も)
しかし、それでも悪い気分ではない。野盗の用心棒や密輸業者の護衛といった、先祖に顔向けできない仕事から離れて、久しぶりに法力使いらしい戦いができた。アンデッドと戦うことこそが、闇の戦士一族の本分である。
メルベルは炎を見つめながら考えた。
この旅で、この女の護衛を続けながら、いつかより強大なアンデッドの群れに囲まれることもあるだろう。その時、最後まで戦い抜いて討ち死にできれば、それは悪くない最期かもしれない。
少なくとも、汚れ仕事で金を稼ぎながら惨めに老いていくよりは、はるかにましである。先祖たちのように、誇り高く戦って死ぬことができれば、闇の戦士としての面目も保てる。
アザリアが寝返りを打った。疲れ切っているのだろう、深く眠っている。
(まあ、それまでは生きていなければならんが)
メルベルは剣の手入れを始めた。明日もまた、長い道程が待っている。




