第六十一話「古の契り」
神殿を出ると、アザリアは迷うことなく商業区画へ向かった。
金細工師の店で、彼女は首からかけるペンダント型の小さな金の首飾りを二つ購入した。精巧な細工が施された美しい品で、値段も相応に高い。しかし、今の彼女には問題にならない金額だった。
次に、彼女は白い上質な布を求めた。絹のような滑らかな手触りの、真っ白な布。
宿に戻ると、アザリアは鏡の前に座った。そして躊躇することなく、自分の美しい髪の一房を短剣で切り落とした。
「これで...」
彼女は切った髪を白い布で丁寧に縛った。普段なら、自分の髪を切ることなど考えもしないのに、今は迷いがない。
次に、彼女は針を取り出した。そして、ためらうことなく自分の指先に突き刺す。
「痛っ...」
滴る血を白い布に垂らすと、それは赤黒く変色した。アザリアはその血で染まった髪束を、金のペンダントの中に収めた。
「ふふふ...」
彼女の口元に、満足げな笑みが浮かんだ。準備は整った。
夕刻、約束の食堂は活気に満ちていた。商人、職人、旅人たちが酒を酌み交わし、陽気な話し声が響いている。
アザリアはフードを深くかぶり、顔を隠しながら店内を見回した。メルベルの姿を探している。
「アザリア」
彼の声がした。いつものように、彼女を見つけるのは早かった。
「こっちだ」
二人は奥のテーブルに席を取った。メルベルは既に一杯目の酒を注文しており、上機嫌だった。
「乾杯だな」彼はジョッキを掲げた。「まさかあの森を生き抜けるとは思わなかった」
「本当にね」アザリアも微笑んで杯を合わせた。「全部あなたのおかげよ」
料理が運ばれ、酒が進んだ。メルベルは珍しく饒舌になり、旅の思い出を語った。アザリアも楽しそうに相槌を打ち、時折笑い声を上げる。
店の隅では吟遊詩人が竪琴を奏でており、陽気な旋律が流れていた。
しばらくして、メルベルの頬も赤く染まってきた頃、アザリアは話題を変えた。
「ねえ、メルベル」
「ん?」
「昔のガードと巫女の契約について、聞いたことある?」
メルベルは酔った頭で考え込んだ。
「昔の...ああ、個人契約のことか?」
「そう」アザリアは頷いた。「神殿ができる前は、みんな個人で契約を結んでいたのよ」
「そうだな」メルベルは曖昧に頷いた。
その時、アザリアの目に涙が浮かんだ。
「実は...神殿で笑われたの」
「え?」
「私がここまで来たのに、ガードの一人もいないなんてって」
それは真っ赤な嘘だったが、アザリアの演技は完璧だった。悔し涙が頬を伝い落ちる。
「そんな...」メルベルは困惑した。
「五つの聖火を宿しても、正式なガードがいないから半人前扱いなのよ」
アザリアはハンカチで涙を拭いながら続けた。
「うーん...」メルベルは酔った頭で考えた。「問題は形式じゃなくて実態だろう。お前は偉い。根性がある」
彼は慰めるつもりで彼女の肩を叩いた。
「ありがとう」アザリアは泣き笑いの表情を見せた。「そうそう、今日はこれをプレゼントしたいの」
彼女は懐から金のペンダントを取り出した。
「きれいな首飾りだな」
「昔のガードと巫女は貧乏だったでしょう?神殿もなかったし」アザリアは説明し始めた。「だから、お互いの髪の毛を束ねて交換して、それを契約の証にしたのよ」
メルベルは少し渋った。
「それは...」
「お願い」アザリアは再び涙を浮かべた。「私たちは旅が終わるまでは一蓮托生でしょう?これを受け取って。どうせ正式なことはできないんだから」
彼女の涙ながらの訴えに、メルベルは酔った頭で考えた。確かに、形式的なことなど関係ない。実際に共に戦ってきた仲ではないか。
「...分かった」
彼は短剣を取り出し、自分の髪の一房を切った。そして、アザリアから受け取った針で指を刺し、血を垂らして髪を白い布で縛った。
「これでいいか?」
「ありがとう」アザリアは感謝を込めて受け取った。
そして、彼女は古めかしい口調で語り始めた。
「我らは火と鉄の契りを結ぶ。汝の血は我が血、我が血は汝の血。この世の果てまで、共に歩まん」
メルベルは酔っていたが、その厳かな響きに何か重要なことのような気がして、真剣な表情で聞いていた。
「汝もまた、同じ言葉を」
「え...ああ」メルベルは戸惑いながらも、彼女の言葉を繰り返した。
「我らは火と鉄の契りを結ぶ。汝の血は我が血、我が血は汝の血。この世の果てまで、共に歩まん」
アザリアは満足げに微笑んだ。
「これで、私たちは古式に則った契りを交わしたのよ」
メルベルは何となく納得して頷いた。酒の勢いもあって、深く考えなかった。ただの儀式的なもの、友情の証程度に思っていたのだ。
しかし、アザリアの目には、全く違う光が宿っていた。これは単なる友情の証ではない。古代の契約法に基づいた、法的拘束力のある盟約だった。
「ありがとう、メルベル」
彼女は心からの笑顔を見せた。今度こそ、この男を逃がすことはない。




