第五十七話「回復と名声」
宿場の小さな部屋で、メルベルは高熱に苛まれていた。
「うう...」
彼の額に汗がにじみ、時折うわ言を口にする。医師の診断によると、左の肋骨に三本のひび、右腕の骨折、そして全身に無数の裂傷。よくこの状態で森を駆け抜けられたものだと、医師は首を振った。
「無理をしすぎです。しばらくは絶対安静が必要でしょう」
アザリアは枕元の椅子に座り、濡れた布で彼の額を拭いていた。五つの聖火を宿した彼女の周囲には、常に仄かな光が漂っている。
「メルベル...」
彼女は小さく呟いた。この数日間、彼が意識を失っている間に、自分の心境に大きな変化が起きていることに気がついていた。
それは恋愛感情とは違う。もっと深く、もっと根源的な何か。彼が自分のために命を賭けて戦い、血を流し、今もこうして苦しんでいる姿を見ていると、胸の奥に言葉にできない感情が湧き上がってくる。
*この人は、私のために...*
宿場の外では、全く違う光景が繰り広げられていた。
「聖女アザリア様にお目にかかりたい」
「五つの聖火の物語を聞かせてください」
「金貨を十枚お支払いします」
宿場の入り口には、朝から晩まで人だかりができていた。商人、吟遊詩人、他の街からやってきた好奇心旺盛な市民たち。五つの聖火を宿した巫女の噂は、既に近隣の街々に広まっていた。
アザリアは最初のうちは困惑していたが、やがてその注目を楽しむようになった。自分の冒険譚を語り、人々の驚嘆の声を聞くのは悪くない。
「それで、森の奥でルカヴィと遭遇したのですね?」
太った商人が身を乗り出して尋ねる。
「ええ、恐ろしい悪魔でした」アザリアは劇的に語る。「人の皮で作った鎧を着て、頭蓋骨で装飾された武器を振り回して...」
「ひええ」聞き手たちが身震いする。
「でも、その前の夜が...」アザリアは声を落として、神秘的な表情を浮かべた。「死の森で一夜を過ごしたのです。アンデッドが蠢く暗闇の中で、私たちは身を寄せ合って...」
羽根ペンを握った若い吟遊詩人が目を輝かせた。
「それは!なんと美しい!暗闇の森で、巫女と戦士が運命を共にする夜!」
「ちょっと待て」髭面の小説家が割り込んだ。「そこはもっと詳しく聞かせてもらいたい。どういう状況だったんだ?」
アザリアは少し頬を染めながら続けた。
「焚き火も焚けない森で、私たちは一枚の毛布を分け合いました。メルベルの腕の中で、私は震えを止めることができませんでした。彼の心臓の音だけが、恐怖の中の唯一の支えで...」
「おお!」吟遊詩人が感嘆の声を上げる。「『死の森の夜、聖女の鼓動』...いや、『暗闇に響く二つの心』...どちらがタイトルに良いだろう?」
「待て待て」別の作家が手帳にメモを取りながら言った。「演出を考えろ。月明かりがあった方がロマンチックじゃないか?木漏れ日が二人を照らして...」
「でも新月の方が絶望感が際立つ」年老いた詩人が反論した。「完全な闇の中でこそ、心の結びつきが強調される」
アザリアは困惑しながらも、どこか嬉しそうだった。
「あの...実際は本当に何も見えなくて、ただ怖かっただけなのですが...」
「いやいや」吟遊詩人が手を振った。「そこに詩的な美しさを見出すのが我々の仕事です!聖女様の純粋な心と、勇敢な戦士の献身的な愛...」
「愛って」アザリアが慌てる。「そんな、私たちは...」
「契約上の関係を超えた絆!」小説家が興奮して叫んだ。「階級を超えた真実の愛!これは傑作になる!」
「ルカヴィとの戦いの場面はどうする?」別の作家が質問した。「戦士が倒れた時、聖女様は何を?」
アザリアは少し暗い表情になった。
「私は...ただ祈ることしかできませんでした。膝をついて、神に祈って...」
「美しい!」詩人たちが口々に言った。「絶望の中の祈り!そして奇跡の逆転!」
「最後の場面、メルベル殿の隠し持った短刀は父の形見...これも良い設定だ」
「運命の刃!先祖の加護!」
作家たちは次々とアイデアを出し合い、アザリアの話は徐々に脚色されていく。彼女は最初は戸惑っていたが、やがてその熱気に巻き込まれ、より劇的に語るようになった。
「でも、メルベルが...私の護衛が命がけで戦ってくれたのです」
彼女の声に、誇らしさと同時に複雑な感情が混じる。作家たちの前では華やかに語っているが、実際の記憶はもっと生々しく、もっと恐ろしいものだった。
一方、宿場の別の部屋では、ティアマトが深いため息をついていた。
「はあ...」
エア・ナブが心配そうに見ている。
「お嬢様、お気を落とさず」
「でも、現実は現実よ」ティアマトは扇子を閉じたまま膝に置いている。「私たちは失敗した。あの二人は成功した。それだけのことよ」
神殿戦士たちも沈んだ表情をしていた。あれだけの装備と人数を揃えながら、聖火には手も触れられなかった。
「どうも、大人数だと森林の聖火には辿り着けないのかもしれません」エア・ナブが地図を見ながら呟く。
「そうね」ティアマトは頷いた。「あの晩、よく森の外まで退避できたわ。本当に危なかった」
彼女は窓の外を見つめた。アザリアの周りに群がる人々の姿が見える。
「運も実力のうち、ということかしら」
その声には、悔しさと同時に、どこか諦めにも似た響きがあった。
夕刻、人々が去った後、アザリアはメルベルの部屋に戻った。彼はまだ眠っている。熱は少し下がったようだが、顔色はまだ悪い。
彼女は再び椅子に座り、彼の寝顔を見つめた。
*この人がいなければ、私は今頃...*
森での記憶が蘇る。恐怖に震えた夜、ルカヴィとの絶望的な戦い、そして最後の奇跡的な逆転。すべて、この男がいたから可能だったのだ。
「ありがとう」
彼女は小さく囁いた。それは感謝の言葉であると同時に、もっと深い何かを込めた言葉でもあった。
メルベルが小さく呻いた。熱にうなされているのか、それとも悪夢を見ているのか。
アザリアは再び濡れた布を手に取り、優しく彼の額を拭った。




