第五十六話「死の逃走」
森の奥から、低い唸り声が響いてきた。
「来るぞ」
メルベルは傷だらけの体を引きずりながら立ち上がった。ルカヴィとの戦闘で流れた血の匂いが、森中のアンデッドを引き寄せ始めている。
「急げ、アザリア」
彼女も青ざめた顔で頷き、荷物をまとめようとした。しかし、メルベルがそれを制止する。
「荷物は捨てろ。命の方が大事だ」
「でも...」
「いいから!」
遠くから足音が聞こえ始めた。ゆっくりとした、引きずるような歩調。しかし、確実に近づいてくる。
「走るぞ」
メルベルは剣だけを掴み、アザリアの手を引いて森の出口に向かって駆け出した。
「うう...ううう...」
後方から複数の呻き声が響く。腐敗系アンデッドの群れが、血の匂いを嗅ぎつけて集まってきているのだ。
「はあ、はあ、はあ...」
アザリアは必死に走ったが、聖火を受け取ったばかりで体力が回復していない。足がもつれそうになる。
「大丈夫か?」
メルベルが振り返ると、彼女の顔は真っ青だった。
「なんとか...」
しかし、彼女の足が木の根に引っかかり、よろめいた。
「アザリア!」
メルベルは咄嗟に彼女の体を支えた。しかし、その分速度が落ちる。
後ろから迫ってくるアンデッドの姿が、木々の間に見え隠れし始めた。腐敗した顔、だらりと垂れ下がった腕、そして血走った目。
「もう少しだ、頑張れ」
メルベルは自分の肩にアザリアの腕を回させ、半ば背負うようにして走り続けた。彼の傷からも血が滲んでいるが、今は止まるわけにはいかない。
「グルルルル...」
最も近いアンデッドが、二十メートルほど後ろまで迫っていた。腐った手が宙を掴むように伸ばされている。
「くそっ」
メルベルは一瞬立ち止まり、振り返って剣を抜いた。
「何してるの?」アザリアが叫ぶ。
「時間稼ぎだ」
彼は炎を纏った剣で、最も近いアンデッドの首を刎ねた。しかし、次から次へと現れる。
「だめ、切りがないわ!」
アザリアが彼の腕を引っ張る。
「走りましょう!」
二人は再び駆け出した。森の木々の隙間から、ついに開けた空間が見えてくる。
「見えた!」
森の外だった。緑の木々の向こうに、茶色い大地が広がっている。
「あと少し...あと少しよ!」
アザリアも最後の力を振り絞って走った。足音が後ろから迫ってくるが、もう振り返らない。
ついに、二人は森の境界線を越えた。
「はあ、はあ、はあ...」
二人とも地面に崩れ落ちそうになったが、メルベルが周囲を見回して驚いた。
森の外に、見覚えのある天幕が張られている。ティアマト一行の野営地だった。
神殿戦士たちが包帯を巻いたり、装備を手入れしたりしている。彼らも明らかに苦戦した様子で、あちこちに怪我をしていた。
「あら?」
ティアマトが振り返った。彼女も腕に包帯を巻いており、普段の優雅さは影を潜めている。
「アザリア?メルベル?生きて...」
その時、森から腐敗系アンデッドの群れがゾロゾロと現れた。二人を追って、森の外まで出てきたのだ。
「アンデッド!」エア・ナブが叫んだ。
「撃て!」
神殿戦士たちが一斉に法石銃を構える。
パンパンパン!
銃声が響き、アンデッドたちが次々と倒れていく。しかし、まだ数体が残っている。
メルベルは最後の力を振り絞って剣を振るい、アザリアの前に立ちはだかった。
「来るな!」
炎の一閃が、迫るアンデッドを両断する。エア・ナブの剣も、別のアンデッドの胸を貫いた。
やがて、すべてのアンデッドが倒れ、辺りに静寂が戻った。
「はあ...はあ...」
メルベルは剣を地面に突き立てて体を支えた。もう限界だった。
「メルベル!」
アザリアが彼を支えようとした時、ティアマトの驚愕の声が響いた。
「ちょっと待って...アザリア、あなたの聖火...」
ティアマトは目を見開いて、アザリアを見つめていた。
「えー!?なんで五つも聖火を持ってるのよ!」
確かに、アザリアの体からは明らかに強大なエネルギーが放射されている。四つだったはずの聖火が、五つになっていた。
「まさか...聖火を手に入れたの?」ティアマトの声に驚きと嫉妬が混じっている。
「私たちが失敗している間に?」
エア・ナブも困惑した表情を見せた。
「どうやって...我々でさえ聖火に近づくことができなかったのに」
神殿戦士たちも、アザリアのエネルギーの強さに驚いている。明らかに、出発前とは別人のような力を持っていた。
アザリアは疲れ果てた表情で答えた。
「私たちは...迂回ルートを取ったの。そして...」
彼女はメルベルを見た。
「メルベルが...命がけで私を守ってくれた」
ティアマトの表情が複雑に歪んだ。驚き、非難、そして隠しきれない嫉妬。
「信じられない...なぜあなたたちだけが...」
しかし、メルベルの血まみれの姿を見て、彼女も言葉を失った。この二人がどれほど過酷な戦いを潜り抜けてきたかは、一目瞭然だった。
「とにかく」エア・ナブが割って入った。「まずは手当てを。話はそれからだ」




