第五十五話「絶望からの逆転」
メルベルの膝が地面に崩れ落ちた。
血が口元から滴り落ち、剣を握る手も震えている。体中の傷から血が滲み、立っているのがやっとの状態だった。
ルカヴィの女は勝利を確信したように、ゆっくりと彼に近づいてくる。
「どうしたの?もう立てないの?」
女の声には、獲物を前にした捕食者の悦びが滲んでいた。
「情けないわね。あれほど大口を叩いていたのに、これが異教の法力使いの限界かしら」
メルベルは荒い息をつきながら、なんとか剣を支えにして立ち上がろうとした。しかし、足に力が入らない。
「無駄よ。もう終わりなの」
女は骨の剣を杖代わりにして、居丈高に言い放った。
「でも、せっかくだから楽しませてもらうわ。その巫女の目の前で、お前を八つ裂きにしてやる。彼女の絶望する顔を見ながら死ぬのよ」
アザリアの顔が青ざめた。祠の陰で震えながら、それでも目を逸らすことができない。
「メルベル...」
彼女の声は風にかき消されそうなほど小さかった。
女がメルベルの髪を掴んで、無理やり立たせる。彼の体重を支えるほどの怪力で、まるで人形のように持ち上げた。
「見なさい、巫女よ。これがお前の守護者の末路よ」
メルベルの体がぐったりと力を失っている。意識も朦朧としているようで、抵抗する様子もない。
アザリアは絶望に打ちひしがれ、その場に膝をついた。両手を胸の前で組み、目を閉じて祈り始める。
「どうか...どうか神よ...」
涙が頬を伝って落ちる。もはやこれまでだった。メルベルが倒れれば、自分も同じ運命を辿る。せめて、彼の魂が安らかに眠れるようにと、彼女は必死に祈った。
「ふふふ、諦めたのね。賢明よ」
女は満足げにメルベルを見下ろした。
「では、始めましょうか。まずはその腕から—」
その瞬間だった。
メルベルの右手が、電光石火の速さで動いた。懐に隠し持っていた短刀に、残された全ての法力を込めて。
「がっ!」
女の胸に、燃え盛る短刀が深々と突き刺さった。
「な、何...?」
女の目が驚愕に見開かれる。メルベルの目に、鋭い光が戻っていた。
「まだ...終わってない」
彼は短刀を深く押し込みながら、左の拳に渾身の炎のエネルギーを込めた。傷口に向かって、全力で拳を叩き込む。
「うおおおおっ!」
炎のエネルギーが女の体内に流れ込んだ。彼女の内側から、赤い光が漏れ始める。
「ぎゃああああっ!」
女は凄まじい悲鳴を上げて、メルベルを放り投げた。彼は地面に叩きつけられたが、それでも炎のエネルギーを送り続ける。
「こんな...こんなバカな!」
女は胸を押さえながら、苦悶に顔を歪めた。体の内側で炎が燃え広がり、コントロールが効かない。
「人間如きに...この私が...!」
彼女の声は怒りと絶望に満ちていた。骨の装備が溶け始め、人皮の鎧が燃え上がる。
「許さない...許さないぞ...!」
女は最後の力を振り絞って、メルベルに向かって手を伸ばした。しかし、その手は途中で力を失い、地面に落ちる。
「ぐっ...ぐあああ...」
体の各所から炎が噴き出し、女の形が崩れ始めた。美しかった顔も歪み、青白い肌が炭のように黒ずんでいく。
「呪ってやる...呪ってやるぞ...法力使い...」
最後の呪いの言葉を吐きながら、女の体はゆっくりと崩壊していった。まるで古い焚き火が風に吹かれて散るように、炭の粉となって森に消えていく。
やがて、そこには何も残らなかった。
アザリアは祈りの姿勢のまま、しばらく現実を受け入れることができなかった。あれほど圧倒的だった敵が、一瞬で消え去ってしまったのだ。
「メルベル...?」
彼女が恐る恐る顔を上げると、メルベルが地面に仰向けに倒れていた。胸が規則正しく上下している。生きている。
「メルベル!」
アザリアは駆け寄って、彼の頭を抱き上げた。
「大丈夫?しっかりして!」
メルベルはゆっくりと目を開けた。かすれた声で言う。
「...なんとか、片付いたな」
「どうして...どうして最後に勝てたの?」
アザリアの目には、まだ信じられないという表情が浮かんでいる。
メルベルは苦しそうに笑った。
「死んだふりをした。奴が油断するのを...待っていた」
実際には、彼の体力は本当に限界だった。しかし、最後の最後で、相手の慢心につけ込む機会を狙っていたのだ。
「あの短刀は...?」
「父の形見だ。いざという時のために、いつも持ち歩いている」
メルベルは血を拭いながら、ゆっくりと起き上がろうとした。
「もう大丈夫。森を出よう。日が暮れる前に」
アザリアは彼の肩を支えながら立ち上がらせた。
「ありがとう...ありがとう、メルベル」
彼女の声は感謝と安堵に震えていた。
「礼を言うのは森を出てからだ」
メルベルは歯を食いしばって歩き始めた。傷は深いが、まだ動ける。そして、この森で一番危険な敵を倒した今、道中の脅威は大幅に減っているはずだった。
二人は森の奥から、ゆっくりと歩き始めた。




