第五十二話「森の夜」
西の空が薄紅に染まり始めた頃、メルベルは足を止めた。木漏れ日が弱々しく地面を照らし、森全体が夕闇の帳に包まれようとしている。
「日が暮れる。ここで朝まで息を潜めよう」
彼が指したのは、大きな樫の木の根元にある窪地だった。乾燥していて、周囲を茂みが囲んでいる。隠れるには格好の場所だ。
アザリアは頷くと、荷物から毛布を取り出した。そして何の躊躇もなく、座り込んだメルベルの腕の中に体を滑り込ませる。
「おい...」
メルベルが何か言いかけたが、結局諦めたように口を閉じた。この状況では、体温を分け合うのが最も現実的な選択だった。焚き火など論外だ。
毛布の下で、二人は身を寄せ合った。アザリアの髪が頬に触れ、彼女の規則正しい呼吸が聞こえる。
その時、遠くから鈍い音が響いた。
パン。
続いて、もう一度。
パン。
「銃声...」アザリアが小さく呟く。
メルベルは頷いた。ティアマトの一行に違いない。近道を選んだ彼らは、やはりアンデッドと遭遇したのだろう。
夕陽が木々の向こうに沈むと、森は急速に闇に包まれた。そして、夜の森の本当の恐怖が始まった。
最初に聞こえてきたのは、遠くからの呻き声だった。
「ウウウウ...」
それは人の声のようでありながら、同時に人ではない何かの声でもあった。やがて、枝が折れる音、何かが地面を引きずる音、そして時折響く甲高い叫び声。
二人は毛布の下で身を寄せ合い、息を殺していた。
*大丈夫、大丈夫...*
アザリアは心の中で自分に言い聞かせていた。メルベルの腕の中にいれば安全だ。彼が守ってくれる。でも、外で蠢く何かの気配に、全身が震えて止まらない。
*震えるな、音を立てるな...*
メルベルは必死にアザリアの体を抱きしめていた。彼女の震えが毛布を通して伝わってくる。自分の心臓の音が大きすぎるような気がして、それさえもアンデッドに聞こえてしまうのではないかと不安になった。
ガサリ。
すぐ近くで、何かが茂みを掻き分ける音がした。二人の体が一瞬硬直する。
アザリアは必死に口元を手で押さえた。震える息を殺し、メルベルの胸に顔を埋める。彼の心臓の音だけが、この恐怖の中での唯一の安らぎだった。
*トクトク、トクトク...*
メルベルの鼓動が規則正しく響く。アザリアはそのリズムに合わせて呼吸しようと努めた。彼の体温が、凍りつきそうな恐怖を少しずつ溶かしていく。
*今夜を乗り切れば...*
メルベルは闇を見つめながら考えていた。明日には聖火に辿り着ける。だが、その後が問題だ。アザリアが聖火を受け取れば、彼女のエネルギーは格段に強くなる。アンデッドに察知されやすくなるのだ。
足音が近づいてくる。ゆっくりと、引きずるような歩き方。二人は呼吸さえも止めて、じっと耐えた。
アザリアの手がメルベルの服を強く握りしめる。彼は彼女の震えを止めようと、より強く抱きしめた。
*頼む、通り過ぎてくれ...*
足音は茂みのすぐ外で止まった。何かがそこに立っている。においを嗅いでいるのか、それとも音を探っているのか。
永遠にも思える時間が過ぎた後、足音は再び動き始めた。そして、ゆっくりと遠ざかっていく。
二人は安堵のため息をつきそうになったが、それさえも我慢した。まだ夜は長い。
毛布の下で、アザリアはメルベルの胸に耳を当てていた。その鼓動が、まるで時を刻む鐘のように、静かに響いている。
*この人がいれば大丈夫...*
彼女の震えが、少しずつ治まっていく。メルベルの体温と、彼の存在そのものが、恐怖を押し返してくれる。
*彼女を守らなければ...*
メルベルは暗闇の中で決意を新たにしていた。予知夢の光景が何度も脳裏をよぎったが、今はそれを考える時ではない。今この瞬間、彼女の震えを止めることだけに集中する。
森の夜は、まるで生きているかのように蠢いていた。遠くで響く唸り声、近くを通り過ぎる足音、そして時折聞こえる金属的な音。それらすべてが、二人の神経を削っていく。
だが、毛布の中では、二つの心臓が静かに鼓動を重ねていた。恐怖の中でも、お互いの存在が唯一の支えとなって、長い夜を耐え抜こうとしていた。
闇の向こうで、甘い腐敗の香りがかすかに漂っている。それは風に乗って、時折二人の隠れ場所にも届いた。
しかし今夜、彼らは見つからずに済んだ。震える体と体を寄せ合いながら、夜明けを待ち続けていた。




