第四話「マリの異変」
マリの街が見えてきた時、アザリアの足はもう限界だった。
五日間の街道歩きで、彼女の足首は腫れ上がり、靴の中で血が滲んでいるのが分かる。汗で濡れた巫女装束は重く、背中の荷物が肩に食い込んで激痛を走らせる。それでも、彼女は歯を食いしばって歩き続けていた。
「もう少しだ」
メルベルが振り返りもせずに言った。相変わらず、彼の歩調に乱れはない。
アザリアは返事をする気力もなく、ただ足を前に出し続けた。内心では、この男への怒りが燃えている。少しは気遣いというものがあってもいいだろう。自分がどれほど苦労しているか、見て分からないのだろうか。
しかし、口に出して文句を言う元気もない。ただひたすら、一歩、また一歩と歩くだけである。
マリの街の入り口に着いた時、アザリアはその場に座り込みそうになった。しかし、人々の視線を感じて、なんとか体勢を保った。巫女としての最低限の威厳は保たなければならない。
「変だな」
メルベルが呟いた。
アザリアも、薄々気づいていた。街の様子がおかしい。
本来なら賑やかなはずの交易都市マリが、妙に静まり返っている。街道を行き交う商人の数も少なく、店の多くがひっそりと戸を閉ざしている。そして何より、街全体に重苦しい空気が漂っていた。
「聖火の祠はどこだ」
メルベルが街の住人に尋ねた。中年の男性は、疲れ切った表情で街の中央を指差した。
「あそこです。でも、もう三日も火が弱くて」
男性の言葉に、アザリアは表情を改めた。聖火の異常は、街にとって死活問題である。
祠に向かう途中、街の異変がより明確になった。井戸の水は濁り、悪臭を放っている。商店に並ぶ食物は傷みが早く、あちこちに病人の姿が見える。子供たちの顔は青白く、元気がない。
これらは全て、聖火エネルギーの枯渇が原因であった。
街の中央にある祠は、確かに異常な状態だった。通常なら温かな光を放っているはずの聖火が、今はかすかに明滅するばかりである。周囲に集まった住民たちの表情は暗く、絶望的ですらあった。
「巫女様」
祠を管理している老人が、アザリアに駆け寄ってきた。
「助けてください。このままでは、街が」
アザリアは頷いた。これが、自分の仕事である。
「分かりました。すぐに処置を始めます」
しかし、内心では不安があった。これまでの経験は、あくまで安全な環境での訓練に過ぎない。このような緊急事態に対処できるだろうか。
アザリアは祠の前に跪き、両手を聖火に向けた。自分の中にある聖なる力を呼び起こし、それを聖火に注ぎ込もうとする。
最初は、何も起こらなかった。
汗が額に浮かび、呼吸が荒くなる。力を込めれば込めるほど、聖火は遠ざかっていくような感覚がある。周囲の住民たちの視線が、だんだん疑念に変わっていくのが分かった。
一時間ほど続けて、アザリアはついに力尽きた。
「すみません。今日はここまでにさせてください」
立ち上がった時、足がふらついた。メルベルが素早く支えてくれたが、その表情は相変わらず無表情だった。
「宿を探そう」
メルベルの提案で、二人は街の宿屋に向かった。宿の主人は気の毒そうに二人を迎え入れたが、出される食事も水も、街の異常を反映して質が悪い。
その夜、アザリアは自分の部屋で一人、深く考え込んでいた。
自分は本当に聖女になれるのだろうか。今日の失敗を見る限り、とてもそうは思えない。父の破産以来、自分を支えてきたのは出世への野心だった。しかし、その前提となる能力が欠けているとしたら、一体何のために生きているのだろう。
隣の部屋からは、相変わらずメルベルの気配がしない。あの男は、また一晩中起きているつもりなのだろうか。
窓の外では、街の人々がひっそりと夜を過ごしている。明日こそは、何とかしなければならない。住民たちの期待を裏切ることはできない。
しかし、どうすればいいのか分からなかった。祠での作業は、これまで学んだ通りに行ったはずである。それなのに、なぜ聖火は応えてくれないのか。
アザリアは長い間、天井を見つめ続けていた。明日という日が、恐ろしくて仕方がなかった。




