第三十六話「山頂の奇跡」
翌朝、嘘のように空は晴れ渡っていた。昨夜の嵐が幻だったかのように、青空が山々に広がっている。しかし、足元には深い雪が積もり、山頂への道のりはより一層険しくなっていた。
「天気が持ってくれるといいが」
メルベルが空を見上げながら呟いた。雲の動きを注意深く観察している。
「大丈夫よ、きっと」
アザリアが答えたが、その声にも緊張が混じっていた。
急峻な岩場を慎重に登り、息を切らしながら進むこと数時間。ついに山頂が見えてきた時、二人は同時に息を呑んだ。
そこには古い石造りの祠があり、その中央で静かに炎が燃えている。周囲の雪景色とは対照的に、その炎だけが暖かな光を放っていた。
「見つけた!」
アザリアが喜びの声を上げた。疲労も忘れて、祠に向かって駆け寄ろうとする。
「早くしてくれ」
メルベルが厳しい声で制した。
「いつ吹雪になるかわからん」
「もうちょっと浸らせてくれてもいいのに」
アザリアがぶつぶつと文句を言いながら、祠の前に膝をついた。
「せっかく苦労して登ってきたんだから」
「感慨に浸るのは後だ」
メルベルは周囲を警戒しながら答えた。確かに天気は安定しているが、山の天候は一瞬で変わる。昨夜の経験が、彼をより慎重にさせていた。
アザリアは深呼吸をすると、両手を聖火に向けて差し出した。
「シッパルの聖火よ、私に力を分けてください」
その瞬間、メルベルは息を呑んだ。聖火から立ち上る炎が、まるで生きているかのようにゆらめき始めたのだ。炎は次第にアザリアに向かって流れ、彼女の手のひらから体内へと吸い込まれていく。
アザリアの全身が仄かに光り始めた。まるで内側から炎が灯ったかのように、彼女の肌が美しく輝いている。髪も衣服も、炎の光に包まれて幻想的な輝きを放っていた。
(なんて奴だ)
メルベルは内心で驚嘆していた。
(他の人間が奇跡だなんだと騒ぐのも納得だ)
聖火の受領は、確かに神秘的で美しい光景だった。アザリアが特別な存在であることを、改めて実感させられる。これほどの能力を持つ巫女が、なぜ追放同然の扱いを受けているのか、理解に苦しむほどだった。
やがて炎の流れが止まり、アザリアの体の輝きも静かに消えていく。祠の聖火は相変わらず燃えているが、その炎は以前より小さくなっていた。
「終わりました」
アザリアが振り返った。その表情には満足感と達成感が浮かんでいる。
「体の中に、新しい力が宿っているのがわかります」
「よし」
メルベルがハッとして我に返った。美しい光景に見とれていた自分に気づき、慌てて現実に戻る。
「急いで山を降りよう」
「もう少しゆっくりしても…」
「だめだ」
メルベルが強く言った。
「雲行きが怪しくなってきた」
確かに、西の空に暗い雲が見え始めていた。山の天気の変化は早い。
「それに、あんたが聖火を受領したことで、この辺りのエネルギーバランスが変わった」
「どういうこと?」
「アンデッドが気づく可能性がある」
メルベルの説明に、アザリアの表情が引き締まった。
「そんなことが…」
「可能性の話だが、用心に越したことはない」
二人は急いで下山の準備を始めた。アザリアは名残惜しそうに祠を振り返ったが、メルベルに急かされて足を向けた。
下山の道中、アザリアは新しく得た聖火の力を実感していた。体の中を流れるエネルギーは、これまでとは質が違っている。より純粋で、より強力な力が宿っているのがわかった。
「これで聖地巡礼が一つ完了ね」
アザリアが嬉しそうに言った。
「あと三つだ」
メルベルが現実的に答えた。
「次はどこを目指すんでしょう?」
「それは下山してから考える」
メルベルは慎重だった。一つの成功に浮かれることなく、常に次の危険を見据えている。
山小屋に戻る頃には、再び雲が厚くなり始めていた。二人の判断は正しかったようだ。
「間に合ったわね」
アザリアがほっとした表情を見せた。
「ああ」
メルベルも安堵していた。
その夜、山小屋で休みながら、アザリアは新しい力の感覚を確かめていた。シッパルの聖火は、これまで得た聖火とは明らかに違う特性を持っているようだった。
「これなら、もっと難しい浄化作業もできそうです」
「それは頼もしいが、油断するな」
メルベルが釘を刺した。
「次の聖地は、今回よりもずっと危険だ」
「わかってます」
アザリアが頷いた。




