第三十四話「夜明け前の悪夢」
山村の宿は静寂に包まれていた。標高が高いせいか、平地よりも空気が澄んで冷たく、夜の静けさが一層深く感じられる。
アザリアが薄っすらと目を覚ましたのは、隣の床で寝ているメルベルの様子に気づいたからだった。彼は小さくうなり声を上げ、時折身体を震わせている。
(また、あれね)
アザリアは静かに身を起こした。ここ最近、メルベルがうなされることが増えているのに気づいていた。特に、疲れた夜や緊張した日の後に、決まって悪夢を見ているようだった。
それが、彼が眠りたがらない理由なのだろう。夜になると焚き火の番を買って出たり、見張りを長時間続けたりする理由も、おそらくこの悪夢と関係している。
(でも、さすがに悪夢の内容を聞くわけにはいかないわよね)
アザリアは複雑な心境だった。気になるのは確かだが、プライベートな事柄に立ち入るのは躊躇われる。メルベルは自分のことを多く語らない人だし、無理に聞いても答えてくれるとは思えなかった。
メルベルの夢の中では、いつもの光景が繰り広げられていた。しかし最近、その夢に変化が生じていた。
微睡の魔王は、以前は醜い不定形の姿だったが、次第にその輪郭がはっきりとしてきている。甘い腐った香りが夢の中に漂ってくる。まるで妖しい香水のような、吐き気を催す芳香だった。
メルベルは夢の中で悍ましさに苦しんでいた。なぜこれほど嫌悪感に満ちた悍ましいアンデッドを、自分が夢の中ではその手下に成り下がっているのか、全く意味がわからない。
夢の中の自分は、その魔王に縋りついている。そして、懸命に魔王に立ち向かう神殿戦士たちを、炎の剣で次々と殺戮していく。正義を守ろうとする者たちを、なぜ自分が殺さなければならないのか。
先祖代々アンデッドと戦ってきた誇り高い闇の戦士の血統でありながら、なぜ魔王の忠実な僕となって、人間を殺戮している夢を見るのか。
「うっ…」
メルベルがハッとして目を覚ました。額に脂汗がびっしりと浮かんでいる。全身が嫌な汗でぐっしょりと濡れていた。
「大丈夫?」
アザリアが小声で尋ねた。
「ああ…起こしたか」
メルベルが申し訳なさそうに答えた。
「いえ、たまたま目が覚めただけよ」
アザリアは嘘をついた。本当は彼のうなり声で起きたのだが、それを言うのは憚られた。
「もう朝も近いし、天候を確認してみましょうか」
メルベルは身を起こすと、窓の外を見た。雲は晴れ、星がはっきりと見える。風も穏やかで、天候は安定しているようだった。
「よし」
メルベルが決断した。
「今日登る」
「本当に?」
アザリアが確認した。
「天候が安定している。この機会を逃すと、いつまた登れるかわからない」
メルベルは既に荷物をまとめ始めていた。
「中腹にある山小屋まで一気に行く。そこで一泊して、明日頂上を目指す」
「わかったわ」
アザリアも身支度を始めた。昨夜のうちに大部分の準備は済ませてあったので、すぐに出発できる状態だった。
宿の主人に別れを告げ、まだ薄暗い山道に足を向けた時、空にはまだ星が瞬いていた。
「足元に気をつけろ」
メルベルが先頭に立って歩き始めた。
「ここからは本当の山道だ」
確かに、昨日までの緩やかな道とは全く違っていた。岩がちな急坂が続き、一歩一歩に注意が必要だった。
「思ったより大変ね」
アザリアが息を切らしながら言った。
「これはまだ序の口だ」
メルベルが振り返った。
「本格的な登りはこれからだ」
朝日が山々を照らし始めた頃、二人は既に相当な高度まで登っていた。振り返ると、昨夜泊まった村が遥か下に小さく見える。
「すごい景色…」
アザリアが息を呑んだ。
「綺麗だが、油断するな」
メルベルが注意した。
「景色に見とれて足を滑らせたら、一巻の終わりだ」
午前中いっぱいかけて、ようやく中腹の山小屋が見えてきた。古い木造の建物だが、しっかりとした造りで、登山者の避難所として使われているようだった。
「着いたわね」
アザリアがほっとした表情を見せた。
「今日はここで休む」
メルベルが山小屋の扉を開けた。
「明日の朝、頂上を目指す」
山小屋の中は質素だが清潔で、毛布や薪も用意されていた。窓からは、これから登る山頂への道が見える。
「あそこに聖火が?」
アザリアが山頂を見上げた。
「ああ」
メルベルが頷いた。
「明日の夕方には着くだろう」
その夜、メルベルは再び悪夢を見た。しかし今度は、アザリアは何も言わずに静かに見守っていた。彼が一人で抱えている何かがあることを理解し、それを尊重することにしたのだった。




