第三十三話「二つの出立」
ニップルの東門から街道に足を向けた時、二人の装いは確かに質素なものだった。地味な旅装束に身を包み、必要最小限の荷物を背負った姿は、どこにでもいる行商人と変わらない。
アザリアは歩きながら、何度も後ろを振り返っていた。遠目に見える西門の前では、豪華な一行が盛大な見送りを受けている。
「あら、馬車まで用意してるじゃない」
アザリアの声には、隠しきれない羨望が滲んでいた。
ティアマト一行は確かに華やかだった。護衛たちの統一された装備、神殿戦士の輝く甲冑、そして何より大きな馬車に積み込まれた大量の物資。街の人々が手を振り、神官たちが祝福の言葉を述べている。
「聖地巡礼は徒歩が伝統じゃなかったの?」
アザリアが呟くと、メルベルは振り返ることもなく答えた。
「金があれば伝統なんて簡単に変えられる」
「でも、あれだけの装備があれば…」
「あれだけの装備があれば、山道でまともに動けん」
メルベルの歩調は変わらない。
「御者付きの馬車で山に登るつもりか?」
アザリアは慌てて後を追った。確かに、これから向かう場所を考えれば、馬車は現実的ではなかった。
「最初の目的地はシッパルの聖地よね?」
「ああ」
メルベルが簡潔に答えた。
「標高二千メートルの山頂付近にある。地理的に最も立地の難しい場所の一つだ」
アザリアは地図を思い浮かべた。シッパルの聖地は、カーカラシカ国の東端、険しい山脈の奥深くにある。古代から聖なる場所とされてきたが、その立地の困難さから、長い間放置されていた。
「なぜアンデッドに占拠されなかったのかしら?」
「立地が悪すぎるからだ」
メルベルが説明した。
「アンデッドも人間も、わざわざあんな場所まで行こうとは思わん。だから聖火だけが細々と燃え続けている」
「つまり、最も安全な聖地ということ?」
「安全ではない。ただ、敵がいないだけだ」
メルベルの表情が厳しくなった。
「山の天候は変わりやすく、道も険しい。一歩間違えれば谷底に落ちる」
アザリアは改めて自分の装備を見回した。確かに、派手な装飾甲冑では山登りは不可能だろう。地味だが軽量で機能的な装備の必要性を、ようやく実感し始めていた。
「どのくらいかかるの?」
「順調にいけば三日。天候が悪ければ一週間以上」
「一週間も?」
アザリアが驚いた。
「山をなめるな」
メルベルが振り返った。
「あそこは人間が住む場所じゃない。自然そのものが敵だ」
街道を歩きながら、アザリアは何度もティアマト一行の方を見た。彼らの豪華な装備が、どんどん小さく見えていく。
「あの人たちは、どの聖地から回るのかしら?」
「おそらくバビロンだろう」
メルベルが答えた。
「最も名誉ある聖地とされている。成功すれば大きな評価を得られる」
「じゃあ、私たちも…」
「無謀だ」
メルベルが即座に否定した。
「バビロンはアンデッドの巣窟だ。あの人数でも危険すぎる」
「でも、成功すれば…」
「死んだら何の意味もない」
メルベルの言葉は冷酷だった。
「俺たちは確実に行ける場所から攻略する。それが生き残る道だ」
アザリアは不満そうだったが、反論はしなかった。メルベルの判断が正しいことは、理性では理解していた。
午後になると、街道から山道に入った。緩やかな登り坂が続き、周囲の景色も次第に変化していく。麦畑や牧草地が姿を消し、代わりに針葉樹の森が現れた。
「思ったより険しくないのね」
アザリアが安堵の声を上げると、メルベルは苦笑した。
「これはまだ麓だ。本当の登山は明日からだ」
夕方、小さな山村で一泊することになった。宿の主人は、二人が山に向かうと聞いて心配そうな顔をした。
「この時期の山は危険ですよ。雪崩の心配もありますし」
「承知している」
メルベルが答えた。
「でも、どうしても行かなければならない事情がありまして」
主人は首を振ったが、それ以上は何も言わなかった。
夜、宿の部屋で地図を広げながら、アザリアは改めて明日からの行程を確認していた。
「本当に三日で着くの?」
「天候次第だ」
メルベルが窓の外を見た。雲が厚く垂れ込めている。
「明日の朝の様子を見て判断する」
アザリアは地図上の細い線を指でなぞった。シッパルの聖地まで、確かに険しい道のりが続いている。
(ティアマトたちは今頃、豪華な宿で快適に過ごしているのでしょうね)




