第十六話「奇跡と諦念」
沼地の中央で聖火の力を集中させながら、アザリアの心は複雑な思いに支配されていた。
(私は、何をしているのだろう)
この旅を始めた時の自分を思い返す。死ぬつもりで、どうせ価値のない人間だからと、やけくそで聖地巡礼に出発したはずだった。没落した商家の娘で、神殿でも邪魔者扱いされる自分など、どうなってもいいと本気で思っていた。
しかし、実際に危険に遭遇した時の自分はどうだったか。
街道でアンデッドと戦った時は、恐怖で我を忘れて逃げ回った。街で男たちに囲まれた時は、体を触られただけでパニックになり、悔しさで涙を流した。メルベルに叱られた時は、まるで子供のように縮み上がってしまった。
死を受け入れるどころか、必死に生にしがみついていた自分がいる。
そして、その度に救ってくれたのは、いつもメルベルだった。
(もう三回も)
ほんの数週間の間に、彼は何度自分を救ってくれただろう。街道での初陣、街での危機、そして今日の戦い。毎回、当たり前のように命を懸けて。
先ほどの戦いでも、あの意味の分からない化け物を相手に、彼は一人で堂々と立ち向かっていった。死ぬ可能性など誰の目にも明らかだったにもかかわらず、迷いも見せずに。
そして今、傷を負いながらも、まるで何事もなかったかのように自分の仕事を見守っている。特に興味もなさそうに、つまらなそうな表情を浮かべながら。
(私の決意など、何だったのだろう)
自分が誇りに思っていた復讐への野心も、見返してやるという意志も、急にちっぽけなものに感じられてきた。メルベルの真の強さの前では、自分の全てが薄っぺらく、空虚に見える。
(私は、しょうもない人間だ)
そんな自己嫌悪が胸の奥で重くのしかかる中、それでもアザリアは聖火の力を注ぎ続けた。これだけは、自分にできる唯一のことだから。
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一方、メルベルは沼地の縁で静かに見張りを続けながら、目の前で起こっている光景に内心で驚嘆していた。
アザリアが浄化を始めてから数時間が経過したが、沼地の変化は目を見張るものがあった。
最初は黒ずんで悪臭を放っていた泥が、徐々に色を変えている。腐敗した有機物が分解され、毒性のあるガスも薄れてきている。水面に浮かんでいた油膜のような汚染物質も、少しずつ消失していく。
(なるほど、聖女と呼ばれる理由はこれか)
メルベルは感心していた。彼が知っている限り、これほど劇的な環境浄化を行えるのは、ごく限られた高位の聖職者だけである。アザリアが本物の才能を持った巫女であることは疑いようがない。
(あの女、口ほどにもないと思っていたが)
最初の印象は完全に間違っていた。確かに世間知らずで、戦闘経験も乏しいが、巫女としての実力は本物である。
そして、メルベルの心には別の考えが浮かんできた。
(この旅を続けていけば)
いずれ、より強力なアンデッドとの遭遇は避けられない。聖地に近づけば近づくほど、危険は増していく。その時、自分は名誉ある戦死を遂げることができるだろう。
しかも、ただ死ぬのではない。アザリアを守って死ねば、彼女の口伝で自分の最期が語り継がれるかもしれない。名誉ある戦士として、どこかに記録されるかもしれない。
(悪くない最期だ)
メルベルの心に、久しぶりに小さな希望のようなものが灯った。惨めな汚れ仕事で生きながらえるよりも、はるかに意味のある死に方である。
アザリアの記憶に、勇敢な戦士として残ることができれば。それは、先祖たちに恥じない死に方と言えるだろう。
(そう考えると、この契約も悪くない)
メルベルは心の中で小さく笑った。最初は金のためだけの仕事だったが、今は別の価値を見出している。




