第十四話「汚泥の中の死闘」
メルベルは剣を構えたまま、慎重に沼地の縁に足を踏み入れた。
ぐちゃりという音と共に、黒い泥が靴を飲み込む。一歩進むごとに、悪臭が鼻腔を突き刺し、ゴーグル越しでも目が痛くなってくる。
最初に立ち上がったのは、比較的小さな腐敗系のアンデッドだった。かつては人間だったであろう骨格に、腐った肉片がぶら下がっている。
「来い」
メルベルは低く呟き、炎を纏った剣を横に薙いだ。
一閃。アンデッドの胴体が両断され、炎に包まれて崩れ落ちる。
しかし、その倒れた音に反応するように、沼地の各所からぞろぞろと影が立ち上がり始めた。
「数が多い」
二体目、三体目と順次現れるアンデッドを相手に、メルベルは着実に数を減らしていく。しかし、足場の悪い沼地での戦闘は、想像以上に体力を消耗する。
遠くで見守るアザリアは、固唾を飲んで戦況を見つめていた。
(頑張って、メルベル)
心の中で必死に祈る。神殿で学んだ祈りの言葉が、自然と唇に浮かんだ。
「神よ、どうか彼に力を」
小さな声で呟きながら、アザリアは両手を組み合わせた。これまで形式的にしか唱えたことのない祈りが、今は心の底から湧き上がってくる。
沼地では、メルベルが五体目のアンデッドを斬り捨てたところだった。しかし、息が上がり始めている。防護装備の重さと、沼地での不安定な足場が、彼の動きを確実に鈍らせていた。
そして、ついに本命が姿を現した。
沼地の中央で、巨大な何かがゆっくりと立ち上がる。それは、もはや人の形を留めていない異形の塊だった。汚泥と腐敗した有機物、そして無数の骨が渾然一体となって蠢いている。
高さは人の背丈ほどもあり、表面からは絶え間なく腐食性の液体が滴り落ちている。そして何より恐ろしいのは、それが発する意味不明な呻き声だった。
「グルルル...ガボガボ...」
言語でも悲鳴でもない、理解不能な音の羅列。まるで、かつて人間だった記憶の断片が、無秩序に漏れ出しているかのようだった。
メルベルは身構えた。自然発生系のアンデッドとの対峙は初めてである。どのような攻撃パターンを持つのか、弱点はどこなのか、全てが未知数だった。
(不意打ちで仕留められれば)
メルベルは大きく迂回し、化け物の背後に回り込もうとした。しかし、その瞬間、化け物が突然振り返った。
まるで、メルベルの動きを読んでいたかのように。
「なっ」
化け物の表面から、黒い液体が噴射された。メルベルは咄嗟に身を翻したが、液体の一部が右腕を掠めた。
「ちっ」
防護服越しでも、じりじりとした痛みが走る。腐食性の液体である。
化け物は意味不明な音を発しながら、のそのそとメルベルに向かってくる。その動きに、人間的な意図や戦術は感じられない。まるで、本能的な敵意だけで動いている野獣のようだった。
メルベルは剣を構え直した。正面からの勝負になる。
化け物が再び液体を噴射してくる。今度は範囲が広い。メルベルは横に飛び、沼地の泥の中に転がった。
「くそ」
泥まみれになりながら立ち上がり、すぐさま剣を振るう。炎を纏った刃が化け物の表面を捉えたが、手応えが曖昧だった。
化け物の巨大な腕のような部分が、メルベルを薙ぎ払おうと迫ってくる。
メルベルは身を屈めて回避したが、バランスを崩して膝をついた。その隙に、化け物の別の部分から、新たな攻撃が飛んでくる。
「うぉっ」
メルベルは咄嗟に剣で受けたが、衝撃で後方に弾き飛ばされた。背中から沼地に落ち、泥水を飲み込みそうになる。
(まずい)
冷静な戦術など考えている余裕はない。目の前の化け物は、あまりにも理解の範疇を超えた存在だった。
アザリアは、遠くからその様子を見て手に汗を握っていた。
(メルベルが、押されている)
彼女にも、戦況の不利は明らかだった。メルベルは泥まみれになり、明らかに疲労している。一方で、化け物は全く衰える様子がない。
「どうか、お願い」
アザリアは両手を強く組み合わせ、祈り続けた。
「彼を守って。お願いだから」
その時、化け物が大きく身を振るった。表面から、大量の腐食液が四方八方に飛び散る。
メルベルは必死に剣で防いだが、完全には防ぎきれない。防護服の各所に液体が付着し、じりじりと皮膚を焼き始めた。
「がっ」
痛みに歯を食いしばりながら、メルベルは反撃の機会を窺った。
化け物が再び攻撃の姿勢を取った時、メルベルは思い切って踏み込んだ。剣に全ての力を込め、化け物の中核部分と思われる箇所に突き立てる。
刃が深く食い込んだ瞬間、化け物が凄まじい音を立てて身悶えした。
「グワアアアア」
意味不明な絶叫と共に、化け物の動きが止まった。そして、ゆっくりと崩れ落ちていく。
メルベルは剣を引き抜き、よろめきながら後退した。全身が泥と汗にまみれ、防護服の各所に穴が開いている。
化け物は崩れ落ちているが、本当に死んだのかどうか判然としない。あの異形の存在に、生死という概念が当てはまるのかさえ疑問だった。
(終わったのか?)
メルベルは用心深く辺りを見回した。他にも潜んでいるアンデッドがいるかもしれない。
しかし、それ以上に彼の心を占めていたのは、別の感情だった。
(生き残ってしまったか)
奇妙な諦念が胸の奥に湧き上がってくる。死ねる機会だったのに、また生き延びてしまった。右腕と背中に走る鋭い痛みが、生きている証拠として皮膚を焼いている。
「メルベル、大丈夫?」
アザリアの声が遠くから聞こえてきた。彼女が駆け寄ってくるのが見えるが、なぜかその声も足音も、どこか遠いもののように感じられた。
「ああ、何とか」
メルベルは苦笑いを浮かべながら、ゴーグルを外した。腐食液で痛む傷口が、現実に引き戻してくる。
「まだ死ねないらしい」




