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第十三話「汚泥の底に」


神殿を出ると、アザリアはメルベルに向き直った。


「では、準備をしましょう」


「おい」


メルベルが呼び止めた。


「こういうのもなんだが、あの受付の言う通り、護衛は増やした方がいいんじゃないか?」


アザリアは困ったような表情を浮かべた。


「それはごもっともですが、神殿戦士を雇う金額を見たら、きっとあなたも驚くと思いますよ」


彼女は苦笑いを浮かべながら続けた。


「持ち金は全部あなたに使ってしまいましたが、あれの数倍はかかりますから」


メルベルも苦笑いを返した。確かに、正式な神殿戦士の雇用費など、彼のような場末の戦士とは桁が違うだろう。


「守りきれなくても文句は言うなよ」


「あなたも承知で請け負ったのでしょう?」


アザリアは挑発的に微笑んだ。


「逃げたければどうぞ。契約違反ですがね」


メルベルは苦い顔をした。


(生意気なことを言うやつだな)


内心で毒づきながらも、彼は巫女の仕事にケチをつけたり指示をする気はなかった。やれるだけのことはやろう。それが、彼なりの職業倫理であった。


宿に戻って準備を始めながら、メルベルは自分の状況の奇妙さに気づいていた。本来なら危険な仕事を望むべき立場にありながら、同時に巫女を守らなければならないという矛盾。死を求めながら、他者を生かそうとする滑稽さ。


(昨晩は夢を見なかったな)


そういえば、ここ数日悩まされ続けた悪夢を見ていない。ここで死ぬことが確定したから、もう予知の必要がないのだろうか。それとも、この鉱山の仕事が実は何の問題もない任務なのだろうか。


---


鉱山地帯への道のりを歩きながら、二人は雑談を交わしていた。


「この仕事が成功すれば、一回分くらい正式な戦士を雇う金が貯まるわね」


アザリアが算段を口にした。


「それまでは俺で我慢するというわけか」


メルベルが苦笑いする。


「そう。あなたみたいに足を痛めた巫女を無視して進むような人じゃない戦士を雇えるってわけ」


アザリアの皮肉に、メルベルは苦い顔をした。


「言っておくが、契約終了の時には前金と同じだけもらうからな」


「金のうるさい人ね」


アザリアも笑いながら答えた。


---


目的地に到着した時、二人の会話は止まった。


眼前に広がる光景は、想像を絶するものだった。黒ずんだ沼地の中央で、骨の露出した数体の死体が、澱んだヘドロの塊と一体化して蠢いている。それは生き物とも言えず、物質とも言えない、おぞましい存在だった。


何かの呻き声のような、不協和音を響かせながら、遠くからでも分かる強烈な悪臭を放っている。


「あれを、なんとかしないと浄化は無理ね」


アザリアがゾッとしながら呟いた。初めて目撃する環境汚染系のアンデッドは、腐敗系とは比較にならないほどの嫌悪感を催させる存在だった。


メルベルは既に装備を取り出していた。ゴツいゴーグルとマスク、そして皮膚を完全に覆う厚着の防護服。毒ガスと腐食性の液体に対する備えである。


「ちょ、ちょっと。あれと本当に戦うの?」


アザリアの声が震えていた。


「やれるだけはやる」


メルベルは淡々と装備を確認しながら答えた。


「俺が負けたら、神殿に戻れ」


「そんな恐ろしいことを言わないで」


「聞け」


メルベルが振り返った。その表情は、これまでで最も真剣だった。


「この沼地から街への帰り道は分かるか?」


「え、ええ。来た道を戻れば」


「途中で迷ったりしないな?」


「大丈夫だと思うけれど」


「思うじゃ駄目だ。確実に帰れるか?」


メルベルの追及に、アザリアは戸惑った。


「は、はい。大丈夫です」


「神殿に帰ったら、しっかりと事後報告をしろ。俺が死んだこと、アンデッドの詳細、汚染の規模、全部だ」


「あなた、本気で死ぬつもりなの?」


アザリアの声に恐怖が滲んだ。


「死ぬつもりはないが、死ぬ可能性は高い」


メルベルは肩をすくめた。


「俺が死んだ後、お前が一人で街に帰れるかが心配だ」


内心では、メルベルも自分以上にやけくそになっていた。ここで死ねるなら、それはそれで悪くない。悪夢に苦しめられることもなくなるし、汚れ仕事で惨めに生きる必要もない。


ただ、この世間知らずな女が、一人で街まで帰れるかどうかが気がかりだった。


「もう一度聞く。街への道は分かるな?」


「分かります」


「神殿の場所も?」


「もちろんです」


「よし」


メルベルは剣を抜いた。刃が淡い炎を纏い始める。


「それじゃあ、行ってくる」


「待って」


アザリアが彼の袖を掴んだ。


「私も何かできることが」


「お前の仕事は、俺が死んだ後だ」


メルベルは静かに彼女の手を振り払った。


「生きて帰って、報告書を書け。それがお前にできる最大の貢献だ」


そう言って、メルベルは汚泥の沼地に向かって歩き始めた。


アザリアは、初めて本当の恐怖を感じていた。マリでの失敗も、昨夜の危険も、全てこの瞬間の恐怖に比べれば些細なものだった。



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