第百二十一話「流浪の戦士」
都の下町は、夜が更けるほどに騒がしくなる場所であった。神殿の光が届かない路地裏には、昼間は姿を見せない者たちが蠢き始める。酒場の黄色い灯りが薄汚れた石畳を照らし、酔いどれの怒鳴り声と女たちの嬌声が夜風に乗って流れてきた。
メルベル・ボムは、その中でも特に評判の悪い酒場「折れた剣亭」の隅で、濁った麦酒を前にして座り込んでいた。三日前の戦いでついた傷が疼くたびに、顔を歪める。左腕に巻いた粗末な包帯からは、まだ血が滲んでいた。
「......碌でもないことをしてくれたものだ」
彼は苦々しく呟いた。あの夜、天幕で自分を襲った神殿戦士たちの顔が脳裏に浮かぶ。正義の守護者であるはずの彼らが、闇に紛れて暗殺を企てるとは。
酒場の扉が勢いよく開き、数人の傭兵崩れが入ってきた。彼らの視線が一瞬メルベルに向けられたが、みすぼらしい姿を見て興味を失ったようだった。かつては「鉄嵐流のメルベル」として、この界隈でも名の知れた戦士だった。だが今の彼は、ただの薄汚れた敗残兵にしか見えなかった。
「金もない、仕事もできない......こんなものか、俺という男は」
深い溜息が漏れた。アザリアと共にいた時は、聖女のガードという誇りがあった。たとえ世間には知られていなくとも、彼女を守るという使命が自分を支えていた。だが今はどうだ。流れ者の傭兵に戻ったところで、もはや昔のような生き方はできない。
「おい、そこの暗い顔した兄ちゃん」
隣のテーブルから、髭面の男が声をかけてきた。革の眼帯で左目を覆った、いかにも荒事に慣れた風体である。
「最近、神殿の連中が下町をうろついてるらしいぜ。何でも、逃げた異教徒を探してるとか」
メルベルの肩がわずかに強張った。それを見逃さなかった男は、にやりと笑った。
「へえ、何か知ってるのか?」
「......さあな」
メルベルは視線を逸らした。男は肩をすくめると、仲間たちと何やら相談を始めた。おそらく密告すれば褒賞が出るとでも聞いたのだろう。この街では、金になることなら何でも商売になる。
酒場の奥では、賭博に興じる男たちの喧騒が響いていた。サイコロが転がる音、金貨が積まれる音。かつての自分なら、ああいった小銭稼ぎに手を出していたかもしれない。だが今は違う。アザリアの顔が浮かぶたびに、そんな真似はできなくなっていた。
「偉大な友人、か......」
彼は自嘲的に呟いた。自分にとってアザリアは確かに偉大な友人だった。愛情とは違う、もっと深い絆で結ばれた存在。だからこそ、彼女の名を汚すような真似はできない。たとえ今は離れていても、自分は彼女のガードなのだ。
「しかし、このままでは......」
懐の軽さが現実を突きつける。宿代もままならない。傷の手当てをする薬草を買う金もない。このまま行けば、遠からず野垂れ死にか、それとも神殿に捕まって処刑台行きか。
思えば、アザリアと旅をしていた時は、金のことなど考えたこともなかった。宿代も食事代も、いつの間にか彼女が払っていた。村々から受け取る報奨金も、実際には彼女の聖女としての働きに対するものだった。自分はただ、そばで剣を振るっていただけだ。
「......やはり、アザリアがいないと俺なんてこんなものか」
深い諦念の溜息が漏れた。偉そうに彼女のガードを名乗っていたが、実際には彼女に養われていたようなものだ。食事を運んできてくれたのも彼女、薬草を買ってきてくれたのも彼女。自分がでかい顔をできたのは、全て彼女のおかげだった。
ふと、あの城から逃げる時のことを思い出した。混乱の中、ルカヴィたちの宝物庫から何か一つでも持ち出していれば、当面の生活には困らなかっただろう。だが、そんなことを考える余裕もなかった。ただ生き延びることで精一杯だった。
「結局、俺一人では何もできない男だったということか」
苦い真実が胸に突き刺さる。父ガレスは言っていた。「戦士たる者、常に誇りを持て」と。だが、その誇りすら、アザリアという支えがあってこそ保てていたのかもしれない。
酒場の扉がまた開いた。今度は若い娘が数人、客引きのために入ってきた。その中の一人が、メルベルの前を通り過ぎる時、わずかに足を止めた。
「あら、怪我してるの? 大丈夫?」
メルベルは力なく頷いた。娘は心配そうな顔をしたが、店の主人に呼ばれてそのまま去っていった。




