第百二十話「失われた信頼」
兵士たちとアジョラからの詳しい話を聞くうちに、アザリアは事の全貌を理解し始めていた。断片的に語られる証言を繋ぎ合わせると、一つの物語が浮かび上がってくる。
「謎の剣士が単騎で城に乗り込んできました」
「ヴェクターを討ち取った後、王と一騎打ちを演じていました」
「炎の法力を使う、見事な戦士でした」
兵士たちの証言に、アザリアの胸は複雑な感情で満たされた。メルベルは確かに追いかけてきてくれた。自分が拐われたその時から、彼は行動を起こしていたのだ。野営地での冤罪事件にも関わらず、自分の危機を察知してすぐに追跡を開始してくれた。
「城内で大暴れして、敵の注意を一身に集めていました」
「おかげで我々の突入が成功したのです」
メルベルの行動の全てが、自分を救うためだったのだと理解した時、アザリアの目に涙が浮かんだ。だが、それは感謝の涙であると同時に、怒りの涙でもあった。
「やはり...彼は来てくれていたのね」
心の奥で、メルベルへの深い感謝が温かく広がった。どんな困難があっても、彼は自分を見捨てなかった。それは確かに美しく、尊い友情だった。
だが、その感謝と同時に、神殿という組織への不信感も確実に深まっていく。誘拐されたことへの恐怖、裏切り者が高位にいたという事実、そして何より、自分の忠実なガードを犯罪者扱いした神殿への怒りが、静かに、しかし確実に彼女の心を蝕んでいた。
「あの男は本当に神殿戦士を襲ったのでしょうか?」
アザリアが何気なく投げかけた質問に、兵士たちは困惑した表情を浮かべた。
「それは...現場にいた者たちが証言していますから」
「でも、なぜそのようなことを?理由が分からないのです」
兵士たちの歯切れの悪い答えを聞きながら、アザリアは確信を深めていた。メルベルが嵌められたのだ。エンリルのような裏切り者によって。
表面上は冷静に、温和に振る舞いながらも、アザリアの内側では根本的な変化が起こっていた。今まで持っていた人を信じる気持ちが、少しずつ、しかし確実に失われつつある。純粋だった心に、疑念という毒が静かに回り始めていた。
「皆さん、ありがとうございました。お疲れ様でした」
アザリアは優雅に微笑んで兵士たちを下がらせたが、その笑顔は以前のような屈託のないものではなくなっていた。どこか計算的で、冷たい光を宿している。
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都に戻ってから数日後、神殿は勝利の祝賀ムードに包まれていた。だが、その華やかな雰囲気の中で、アジョラはアザリアの変化を敏感に感じ取っていた。
「このままではまずい」
アジョラは深刻な表情で、アザリアと二人きりで話す機会を設けた。神殿の最上階にある、彼女の私室。重厚な木製の扉の向こうは、聖女だけが立ち入ることを許された聖域だった。
夕日が大きな窓から差し込み、部屋全体を金色に染めている。壁には古い聖典が並び、机の上には七つの聖火を象徴した燭台が静かに燃えていた。
「アザリア、大切な話があります」
アジョラの表情は深刻だった。この数日間、アザリアの言動を観察していて、明らかな変化を感じていた。表面的には変わらないように見えるが、その瞳の奥に宿る光が、以前とは違っている。
「何でしょうか、アジョラ様」
アザリアは礼儀正しく応答したが、その声音には微かな距離感があった。以前のような親しみやすさが影を潜めている。
「メルベルが見ていた予知夢のことを、私も詳しく聞いたことがあります」
アザリアの目が僅かに動いた。夕日の光が彼女の瞳を照らし、その奥で何かが静かに燃えているのが見える。
「実は...私の亡き夫ガレスも同じような能力を持っていました。彼も闇の戦士の血筋で、しばしば未来の断片を夢に見ていました」
アジョラは窓の外を眺めながら、遠い記憶を辿るように語った。
「若い頃、彼と一緒に冒険していた時のことです。ガレスが『明日、橋が崩れる』と言うのです。最初は冗談だと思っていましたが...」
「本当に崩れたのですね」
アザリアが静かに呟いた。
「ええ。そして私たちは別の道を通って、危険を回避できました。闇の戦士たちの予知夢は、非常に高い確度で未来を映し出します。単なる迷信や幻覚ではありません」
アジョラは振り返って、アザリアの目を真っ直ぐに見つめた。
「メルベルは『微睡の魔王』について話していませんでしたか?」
その名前を聞いた瞬間、アザリアの顔が青ざめた。燭台の炎が揺れ、部屋に不気味な影を落とす。
「あの時...」
攫われる直前の記憶が、鮮明に蘇ってくる。メルベルが真剣な表情で語った予知夢の内容。神官の裏切り者について。そして、世界を恐怖に陥れる恐ろしい魔王の復活について。
「私は笑い飛ばしてしまいました」
アザリアは深く項垂れた。その時の自分の傲慢さが、今になって痛いほど思い知らされる。
「『迷信よ』って...『そんなばかげた話』って言って。彼があれほど真剣に警告してくれたのに」
声が震えていた。
「彼の忠告を聞いていれば、エンリルの正体に気づけたかもしれない。こんなことにはならなかったのに」
「過ぎたことを悔やんでも始まりません」
アジョラは優しく、しかし断固とした口調で言った。
「問題は、これからです。微睡の魔王の脅威は去っていません」
アジョラは慎重に、しかし確信を持って説明を続けた。アザリア自身が変貌する可能性については、あまりに危険すぎて直接は言えなかった。だが、その脅威の存在については、十分に伝える必要がある。
「神殿内に残る不穏分子たちを、私たちで徹底的に排除しなければなりません。エンリルのような裏切り者が、まだ潜んでいる可能性があります」
窓の外では、都の夕景が静かに広がっている。石造りの建物が夕日に照らされ、平和で美しい光景だった。だが、その裏には確実に危険が潜んでいる。
「そうしなければ、メルベルは結局帰って来ることができないでしょう。彼の冤罪が晴れることもない。そして...」
アジョラは一瞬言葉を詰まらせた。
「微睡の魔王が現れるきっかけになってしまうかもしれません。メルベルの予知夢が現実になってしまうかもしれません」
燭台の炎がゆらゆらと揺れ、部屋に踊る影が二人の表情を交互に照らし出す。
「私たち二人で協力しましょう。あなたには後継者として、神殿を浄化する力があります。聖火の力で、闇を照らし出すことができます。そして私には、それを実行する権限と経験があります」
アザリアは静かに頷いた。表面上は同意しているように見えたが、その心の奥では別の感情が複雑に渦巻いていた。
神殿を浄化する。確かにそれは必要なことかもしれない。メルベルの名誉を回復し、裏切り者を一掃することは正義だろう。
だが、果たしてアジョラ自身は本当に信頼できるのだろうか。メルベルを陥れることになった一連の出来事で、彼女はどのような役割を果たしたのか。本当に味方なのか、それとも別の思惑があるのか。
「分かりました。協力しましょう」
アザリアの声は穏やかで、理性的だった。だが、その奥に隠された微かな冷たさを、アジョラは感じ取ることができなかった。
「ありがとう、アザリア。あなたがいれば、きっと神殿を浄化できます」
アジョラは安堵の表情を浮かべたが、アザリアの心の変化の深刻さを、彼女はまだ完全には理解していなかった。
夕日が沈み、部屋に薄暗い影が落ちる。燭台の炎だけが、二人の女性の顔をぼんやりと照らしている。表面上は協力者として向き合っているが、その間には見えない深い溝が横たわっていた。
信頼は一度失われると、取り戻すことは困難だった。そして、その亀裂は時間と共に広がっていく可能性があった。
アザリアの心の中で、何かが静かに、しかし確実に変化し続けていた。それが何なのか、彼女自身にもまだ完全には分からなかった。だが、一つだけ確実に言えることがあった。
かつての純真で信頼に満ちたアザリアは、もうそこにはいなかった。代わりにいるのは、より慎重で、より疑り深く、そしてより危険な可能性を秘めた女性だった。




