第百十八話「苦すぎる救済」
城の大広間で、メルベルは膝を地面に突いていた。後退していく敵を追いかける気力も体力も、もはや残されていなかった。全身が鉛のように重く、剣を持つ手も震えている。
「またしても...」
心の奥で、苦い感情が渦巻いていた。今度は敵の大将との一騎打ちまで持っていきながら、結局のところ情けをかけられて死ななかった。彼が普段見ている予知夢からすれば、自分は死ぬべき運命だったはずなのに。
「なぜだ...なぜ敵の首領に憐憫をかけられなければならない」
メルベルの脳裏に、苦すぎる苦痛が巡っていた。戦士としての誇り、予知夢への困惑、そして何より、自分の無力さへの絶望。全てが混じり合って、彼の心を深く蝕んでいく。
石の床に血が滴り落ちる音だけが、静寂を破っていた。周囲では神殿戦士たちが勝鬨を上げ、ルカヴィの残党を掃討している。その喧騒が、メルベルの耳には遠く聞こえていた。
「俺は...何のために戦っていたんだ」
混乱に乗じて、メルベルはその場を離れた。足を引きずりながら、誰にも気づかれないよう廊下の影に消えていく。自分がお尋ね者だということを思い出し、このまま神殿戦士たちに見つかれば厄介なことになる。
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一方、城の占拠に成功した神殿戦士たちは、勝利の興奮に包まれていた。
「やったぞ!ついに城を奪還した!」
「ルカヴィどもを蹴散らしたぞ!」
「これで聖地エリドゥへの道筋が開ける!」
だが、アジョラの心は勝利の喜びに浸ることができなかった。彼女は勝利に沸く神殿戦士たちを押し退けながら、必死にメルベルを探していた。
「メルベルはどこに!あの剣士はどこにいる!」
「剣士?どなたのことでしょうか?」
「異教の炎の剣士だ!王と戦っていた男は!」
だが、誰もメルベルの行方を知らなかった。戦闘の混乱の中で、彼の姿を見失ってしまったのだ。
「聖女様、もしかしてあの謎の剣士のことですか?確かに城内で大暴れしていましたが...」
「戦いが終わったらいつの間にか姿を消していました」
アジョラの胸に、嫌な予感が広がった。メルベルが自分をお尋ね者だと思い込んで逃走したのではないか。野営地での事件の真相を知らないまま、彼は自分が犯罪者だと信じ込んでいるかもしれない。
「くそっ...なぜこんなことに」
夜の闇に紛れて、メルベルはなんとか神殿戦士たちの目を掻い潜っていた。城の外に出ると、そのまま戦場から姿を消してしまった。
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その頃、アザリアは神殿戦士の保護下に入り、本陣のテントで戦いの結果を聞いていた。
「城の占拠に成功いたしました!敵は完全に撤退し、我らの勝利です!」
報告を聞いたアザリアは、安堵の表情を浮かべた。
「やった...メルベルが頑張ってくれたのね」
心の奥で、深い喜びが湧き上がっていた。きっとメルベルが大活躍したに違いない。彼の強さを知っているアザリアにとって、この勝利は当然の結果のように思えた。
だが、その喜びは長くは続かなかった。本陣の神殿戦士たちの噂話が、彼女の耳に入ってきたのだ。
「ところで、例の異教徒の件はどうなったんだ?」
「ああ、あの夢遊病者の話か」
「神殿戦士を襲って逃走した男だろう?まだ捕まっていないらしいな」
アザリアの血の気が引いた。
「ちょっと待って」彼女は慌てて兵士に声をかけた。「今の話、詳しく聞かせて」
「はい、野営地で神殿戦士二人を殴り倒して逃走した異教徒がいるのです。聖女アジョラ様が追跡を命じられましたが...」
「その男の名前は?」
「確か...メルベルとかいう名前だったかと」
アザリアの世界が、一瞬にして暗転した。
「そんな...メルベルがそんなことをするはずがない」
だが、状況証拠は揃っている。神殿戦士たちの証言、逃走の事実、そして現在も行方不明であること。
「一体何があったの...」
アザリアの頭に、エンリルの顔が浮かんだ。自分を騙して敵の本拠地に連れ去った、あの裏切り者の神官。もしかすると、メルベルも同じように嵌められたのではないか。
「きっと...きっと誰かに嵌められたのよ」
アザリアは拳を握りしめた。エンリルのような裏切り者は、まだ神殿内に潜んでいるかもしれない。そして彼らが、メルベルを陥れたのだ。
「メルベル...どこにいるの」
夜風がテントの布を揺らし、アザリアの不安を煽っていた。勝利の喜びは完全に消え去り、愛する人への心配だけが彼女の心を支配していた。
遠くでは松明の火が揺れ、神殿戦士たちの祝勝の声が響いている。だが、アザリアにとって、この勝利は何の意味も持たなかった。メルベルがいない勝利など、勝利ではない。
そして何より、神殿という組織への激しい不信感が、彼女の心に渦巻いていた。
エンリルのような裏切り者が高位にいて、自分を騙して敵に売り渡した。そして今度は、メルベルが何らかの陰謀に巻き込まれて逃亡者にされている。
「神殿は...一体どうなっているの」
アザリアの胸に、深い疑念が根を張り始めていた。自分たちが信じてきた組織は、本当に正義なのだろうか。




