第百十話「暗殺の夜」
夢の中で、メルベルは見慣れた都の城門を見つめていた。そこにはアザリアの姿があった。確かに彼女は生きて帰ってきている。だが、その姿は酷く憔悴していた。美しい髪は乱れ、頬はこけ、瞳の奥に深い悲しみを湛えている。
「アザリア...」
メルベルは安堵の息を漏らした。生きていてくれた。それだけで十分だった。だが、夢の光景をよく見回しても、自分の姿はどこにもない。
「俺は...死ぬのか」
その事実を理解したとき、メルベルの心に湧いたのは意外にも深い安らぎだった。
「彼女と一緒に帰れないのは残念だが...それでも、彼女が無事なら」
戦士として、これ以上望むことはない。愛する人を守り抜いて死ねるなら、それは最高の名誉ある死だった。
その時、夢の場面が変わった。どこかで見たような天幕の内部。真夜中の暗闇の中で、寝具の上に横たわる自分の姿が見える。規則正しい寝息を立て、全くの無防備状態だった。
そこに、静かに近づいてくる二つの影があった。足音を殺し、息を潜めて、獲物に忍び寄る捕食者のような動きだった。その手には、月光を反射して鈍く光るナイフが握られている。
影の一つが、ナイフを逆手に握りしめて振り上げた。刃が寝ている自分の心臓を狙って振り下ろされようとする、まさにその瞬間—
メルベルの目が覚めた。
現実と夢の境界が曖昧になる瞬間、目の前には神殿戦士の装束を身に纏った男が二人、夢の中とまったく同じ姿勢でナイフを振り上げていた。
「なっ...!」
咄嗟にメルベルは身を横に捻り、手近にあった皿を掴んで男の顔面に投げつけた。肉と野菜がぶちまけられ、男の視界を遮る。
「ぐわっ!」
一人目の男がよろめいた隙に、メルベルは寝具から跳ね起きて二人目の男の手首を掴んだ。ナイフが床に落ちる甲高い音が響く。
狭い天幕の中で激しい乱闘が始まった。メルベルは左の拳で一人目の鳩尾を打ち抜き、続いて右足で二人目の膝を蹴り砕く。戦士としての訓練を積んだ相手だったが、不意を突かれた上に狭い空間では、メルベルの実戦経験が圧倒的な差を見せつけた。
「ぐふっ...」
二人の男は呻き声を上げて床に倒れ伏した。天幕の外では足音が響き、何事かと駆けつける兵士たちの声が聞こえてくる。
メルベルは倒れた男たちのナイフを拾い上げ、その装備を確認した。間違いなく本物の神殿戦士の装束だった。偽物ではない。
「なぜ俺を...?」
困惑しているメルベルの前に、警備の兵士が天幕に飛び込んできた。その兵士が見たのは、ナイフを握って立っているメルベルと、床に倒れて呻いている神殿戦士二人という光景だった。
「おのれ!裏切り者め!」
兵士は瞬時に状況を誤解し、剣を抜き放った。メルベルが神殿戦士を襲撃したと思い込んだのだ。
「違う、これは...」
説明しようとしたメルベルだったが、兵士の殺気立った表情を見て、説得は不可能だと判断した。
「ちっ...」
メルベルは腰の短刀で天幕の布を一気に切り裂き、外に躍り出た。野営地は騒然としており、松明を持った兵士たちがこちらを見つめている。
「侵入者だ!異教徒が神殿戦士を襲った!」
先ほどの兵士が叫ぶと、周囲の兵士たちの視線が一斉にメルベルに向けられた。敵意に満ちた眼差しが、夜闇の中で鋭く光っている。
メルベルは素早く辺りを見回した。夢で見たのとまったく同じ光景だった。そして、夢の通りならば...
「あった」
繋がれた馬の中に、夢で見たのと同じ栗毛の馬を見つけた。メルベルは迷うことなくその馬に跳び乗り、手綱を掴んだ。
「待て!逃がすな!」
兵士たちが駆け寄ってくるが、メルベルは馬の尻を強く叩いた。馬は鋭くいなないて前足を跳ね上げ、暗闇の中を駆け出していく。
「アザリア...待っていろ」
メルベルは馬上で呟いた。予知夢が現実になった以上、これから起こることも夢の通りになるはずだ。




