第百九話「政治の憂鬱」
夕暮れが迫る中、アジョラ率いる先行部隊は予定通り後方へと撤退していた。廃村から川沿いの野営地まで戻る道のりで、神殿戦士たちの視線が何度もメルベルに向けられているのを、アジョラは気づかないふりをしていた。
「あの男、一体何者なんだ?」
「聖女様が随分と気にかけておられるようだが...」
「見たところ、神殿戦士の装束ではないな」
「異教徒の匂いがする」
兵士たちの囁き声が風に混じって聞こえてくる。メルベル自身も、周囲からの視線の重さを感じて肩をすくめていた。
野営地に戻ると、アジョラは迷うことなく命令を下した。
「メルベルには上質な食事と酒を用意しなさい。天幕も一番良いものを」
「聖女様、しかし...」
部下の一人が躊躇がちに口を開きかけたが、アジョラの鋭い視線に言葉を飲み込んだ。
「私の命令に従いなさい。それとも、何か異議でもあるのですか?」
「いえ、失礼いたしました」
神殿戦士たちは慌てて準備に取りかかったが、その表情には明らかな困惑が浮かんでいる。なぜ得体の知れない異教徒風の男を、こうまで厚遇するのか理解できないのだった。
メルベルは居心地の悪さを感じながらも、用意された天幕に身を置いた。豪華な絨毯が敷かれ、銀の食器に盛られた料理が並んでいる。明らかに自分の身分には不相応な待遇だった。
「こんなことをしていただく必要は...」
「遠慮は無用です」アジョラが天幕に入ってきて言った。「あなたには重要な役割がある。体調を整えることが最優先です」
アジョラに勧められるまま、メルベルは食事を取り、酒を飲んだ。アルコールの効果もあって、やがて深い眠りに落ちていく。
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メルベルの寝息が規則正しく響く中、アジョラは天幕の外に出て夜空を見上げた。星々が瞬いているが、その光は彼女の心の重さを晴らしてはくれない。
「どうしたものか...」
アジョラは深刻な問題に直面していた。救出作戦自体は、おそらくうまくいくだろう。メルベルの予知夢が正しければ、アザリアは無事に帰還し、聖女の後継者としての道を歩むことになる。
だが、その後はどうなるのか。
メルベルをどう処遇すべきか。先ほどの兵士たちの反応を見ても明らかだった。世間は決して、この忠実なガードを聖女のガードとして認めないだろう。異教徒、闇の戦士血筋、社会の底辺出身—彼に対する偏見は根深すぎる。
「肩書きで飾りつけることはできる...」
アジョラは小声で呟いた。神殿戦士の地位を与え、それなりの称号を授けることは可能だ。だが、それで本質的な問題が解決するわけではない。
神殿内には、エンリルのように敵に内通している者たちがまだ潜んでいる。彼らにとって、メルベルの存在はアザリア以上に格好の標的になるだろう。異教の法力戦士であるメルベルに難癖をつけて、遠回しに社会的にアザリアのことも攻撃する。その構図が容易に想像できた。
「しかし...」
アジョラは頭を抱えた。前に聞いた報告の通り、二人の絆は強すぎる。古式契約による結びつきは、政治的配慮など軽く吹き飛ばしてしまうほど強固だった。
謂れのない難癖でメルベルが非難されるのを、アザリアが黙って見ているはずがない。彼女の気性を考えれば、勢いに任せて何をしでかすか分からなかった。
最悪の場合、せっかく得た聖火の炎を放棄する可能性すらある。
「大切な後継者が...」
アジョラの胸に、深い憂鬱が広がっていく。政治とは、時として最も大切なものを犠牲にしなければならない残酷な現実だった。
天幕の中からは、メルベルの安らかな寝息が聞こえてくる。彼がどれほど純粋な心で、アザリアのために身を捧げているかを知っているだけに、アジョラの心は重かった。
「夫よ...あなたならどうしますか」




