第百二話「面影」
戦いの余韻が夜風に消えていく中、廃村の半壊した教会では神殿戦士たちが密やかに野営の準備を進めていた。石造りの壁に松明の光が踊り、ルカヴィの血痕を洗い流した石畳がまだ生々しい湿り気を帯びている。
アジョラは教会の祭壇跡に腰を下ろし、先ほどまで錫杖を握っていた手をそっと膝の上に置いた。指の関節がまだ微かに震えている。ダミアンの頭蓋を砕いた時の感触が、手のひらに残っているような気がした。
「夫を侮辱した報いです」
自分でそう呟いたはずなのに、今になって胸の奥に複雑な感情が渦巻いている。怒りは確かに収まった。だが、その後に残ったのは深い孤独感だった。
ガレス。
彼女の愛した男の名前が、心の中で静かに響く。あの戦いの最中、メルベルの立ち回りを見ていて、一瞬だけ時が巻き戻ったような錯覚を覚えた。同じ「闇の戦士」血筋の戦い方。敵の動きを先読みし、最小限の動作で最大の効果を上げる、あの独特の技法。
「まるで、あの人がそこにいるみたいでした」
アジョラは夜空を仰ぎ見た。雲間から覗く星々が、まるで亡き夫の瞳のように優しく瞬いている。ガレスも予知夢に悩まされていた。夜中に突然飛び起きて、額に脂汗を浮かべながら「また、あの夢を見た」と呟くことが何度もあった。
若い頃の自分は、そんな夫を支えることしかできなかった。予知夢の意味を一緒に考え、起こりうる災いを回避する方法を模索し、時には夫の震える手をただ握り続けることもあった。
「メルベルも、同じ苦しみを背負っているのですね」
その時、テントの方から騒がしい声が聞こえてきた。
「おい、あいつまた暴れ始めたぞ!」
「誰か抑えろ!怪我でもしたらどうする!」
「あの男、いつもこうなんですか?」
アジョラは慌てて立ち上がり、声のする方へ向かった。メルベルが寝かされているはずのテントの周りに、神殿戦士たちが集まって困惑している。
テントの中からは、低いうめき声と荒い寝息が聞こえてきた。時折、「違う...それは...」といった寝言混じりの声も漏れてくる。
「どうしたのです?」
アジョラが駆け寄ると、神殿戦士の一人が振り返った。
「聖女様、あの男がひどくうなされていまして。このままでは...」
その時、テントの布がはらりと動いて、メルベルが顔を出した。額には汗が浮かび、顔色も少し青ざめている。だが、目つきはしっかりしていた。
「これは...いつものことだ」
メルベルは周囲を見回し、困惑する神殿戦士たちに向かって苦笑いを浮かべた。
「騒がせて申し訳ない。予知夢というのは、どうも安らかに見られるものではないらしい」
神殿戦士たちの視線は、明らかに懐疑的だった。カマエルが代表するように口を開く。
「あの男、本当に予知夢なんて見るんですか?」
「異教徒の迷信じゃないんですか?」
「そもそも、そんな都合のいい話が...」
メルベルの表情が少し強張った。慣れているとはいえ、やはり不愉快なのだろう。だが、彼は何も言い返さず、ただ黙って立ち上がった。
アジョラは夫の記憶を重ね合わせながら、メルベルに近づいた。
「どのような夢を見たのですか?」
メルベルは一瞬躊躇ったが、やがて重い口を開いた。
「微睡の魔王のことです。いえ、正確には...魔王を名乗る何かが、アザリアに近づこうとしている場面を見ました」
周囲の神殿戦士たちがざわめいた。
「微睡の魔王だって?」
「そんな古い伝説が...」
「本当にそんなものが復活するというのか?」
メルベル自身も、どこか困惑した様子だった。
「正直なところ、私にもよくわからないのです。ただ、夢の中でアザリアが...とても苦しそうで」
メルベルの声が微かに震えた。古式契約による痛みの共有が、夢の中でも彼を苛んでいるのだろう。
アジョラは内心で色々なことを考えていた。今回の事件をなんとか凌いだとしても、神殿内部にまだ裏切り者が潜んでいる可能性は高い。エンリルだけが悪徳神官だったとは考えにくい。アザリアを後継者として指名している以上、彼女の身の安全を確保することは最優先事項だった。
「皆さん、少し席を外していただけませんか」
アジョラは周囲の神殿戦士たちに向かって、静かだが有無を言わせぬ口調で言った。
「メルベルと二人で話すことがあります」
神殿戦士たちは渋々といった様子でテントから離れていく。カマエルが最後に振り返って、
「聖女様、あの男の言葉を真に受けすぎませんよう」
と忠告めいたことを言ったが、アジョラは無言で手を振って追い払った。
二人きりになると、アジョラはテントの中に腰を下ろした。メルベルも向かい合って座る。
「まずは、アザリアの救出のことを考えましょう」
アジョラは懐から小さな革袋を取り出し、中から少量の酒を注いだ小さな杯を差し出した。
「これを飲んで、もう一度眠りなさい。今度はより具体的な夢が見られるかもしれません」
メルベルは杯を受け取りながら、アジョラの顔をじっと見つめた。
「聖女様は...私の夢を信じてくださるのですか?」
アジョラは微かに微笑んだ。
「私の夫も、あなたと同じ血筋でした。同じように予知夢に悩まされ、同じように周囲から疑いの目で見られていました」
メルベルの目が少し見開かれた。
「でも、彼の夢は確実に当たりました。そして何度も、私たちを危険から救ってくれました」
アジョラは杯を持つメルベルの手に、そっと自分の手を重ねた。
「あなたの夢も、きっと同じです。だから安心して眠りなさい。私が見守っていますから」
メルベルは深く頷き、酒を一息に飲み干した。やがて彼の瞼が重くなり、再びテントに横たわる。
アジョラは夫ガレスとの日々を思い出しながら、静かにメルベルの眠りを見守った。




