第百一話「二つの過去」
高い塔の一室で、アザリアは窓辺に腰掛けて外の様子を伺っていた。はるか眼下に広がる荒廃した城下町には、時折松明の光がちらちらと動いているのが見える。あの光は神殿戦士たちのものに違いなかった。
「どうやら、メルベルたちが近づいてきているようですね」
アザリアは小さく呟きながら、胸の奥で密かな希望を抱いていた。予知夢が当たるなら、きっとメルベルが自分を迎えに来てくれる。あの人は約束を破ったことがない。
廊下の向こうから、幹部たちの議論する声が聞こえてくる。
「もう始末した方がいいのではないか」
「いや、他の聖火を集めてからの方が効率的だ」
「神殿軍が迫っている今、悠長なことは言っていられない」
「しかし、王の指示は...」
声は次第に遠ざかり、やがて聞こえなくなった。アザリアは深いため息をついた。自分の運命が他人の都合で決められようとしているのは不愉快だったが、今は耐えるしかない。
その時、扉を軽くノックする音が響いた。
「入ってもよろしいですか?」
聞き慣れたセラフィナの声だった。アザリアが返事をする前に、彼女は部屋に入ってきた。相変わらず優雅な立ち居振る舞いだが、どこか以前とは違って見える。
「また、お話を聞かせていただけませんか?あなたの旅のお話を」
セラフィナの頼み方には、以前のような威圧感がなかった。むしろ、どこか懇願するような響きすら感じられる。
アザリアは首を傾げた。
「なぜそんなに私の話が聞きたいの?退屈しのぎにしては、随分と熱心じゃない」
セラフィナは一瞬躊躇したが、やがて意を決したように口を開いた。
「実は...私も元々は巫女だったのです」
アザリアの目が少し見開かれた。
「私もキシュの森に挑戦したことがあります。でも、そこで...ガードが私を見捨てて逃げてしまったのです。その時に、この姿になりました」
セラフィナの声には、深い悲しみが込められていた。アザリアは苦い顔をして、
「それは...運が悪かったわね」
と言った。他に何と言えばいいのか分からなかった。
セラフィナは項垂れて、堰を切ったように言葉を続けた。
「優しい男だと思ったのに、見当違いでした。いざという時に頼りにならない。命の危険が迫ると、真っ先に逃げ出してしまう。私が信じていたものは、全て幻想だったのです」
アザリアは慎重に尋ねた。
「その男の人は、今どうしているの?」
セラフィナの顔に、一瞬冷たい微笑みが浮かんだ。
「もうかなり昔の話ですが...この姿になって力をつけた後、男を見つけて八つ裂きにしてやりました」
その表情は、まるで当然のことを語るかのように平然としていた。アザリアは何とも言えない気持ちになった。この女性は気の毒な人だ。彼女なりに信じたものを裏切られたのだ。
慰めるべきなのか、それとも何も言わない方がいいのか。アザリアは迷った末に、
「ええっと...どうしよう。昔話でも話していい?」
と提案した。セラフィナは静かに頷いた。
「私が初めての冒険に出かける前のことなの。香水と装飾品を買おうとして、メルベルにキツく叱られたことがあるの」
アザリアは懐かしそうに微笑みながら語り始めた。
「『野盗に襲われたいのか』って。『アンデッドに匂いで場所を教えるつもりか』って。『死にたいのなら好きなだけ買ってこい、アンデッドに八つ裂きにされたければな』って、本当に容赦なく叱られたの」
セラフィナは静かに聞いていたが、やがて小さく呟いた。
「そんなことが...私にもありました。でも私は、好きなだけ買ってもらえたのです」
彼女の声は次第に暗くなっていく。
「優しいだけの男はダメだったんですね。本当に大切な時に、厳しくしてくれる人じゃないと...」
アザリアは「うーん」と唸った。セラフィナの後悔は深く、そして痛々しかった。
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一方、廃村の教会では、戦いの後片付けが続いていた。メルベルは血まみれの錫杖を振り回しながら、すっきりとした表情を浮かべているアジョラを見て、正直なところ若干引いていた。
アザリアは戦力としては一切期待できない、まさに聖女という感じの人だったが、アジョラは根本的に違う。若い頃からこうだったのだろうか?
メルベルは他の聖女であるティアマトのことを思い出してみたが、彼女はこんな感じではなかった。上品で、時に嫌味だったが、少なくとも敵の頭蓋骨を叩き潰して満足そうな顔をするタイプではなかった。
叩き潰されたライラの無惨な死骸を見て、メルベルはちょっとビビった。原形を留めていない頭部から、まだ血が滴り落ちている。
他の敵を制圧してきた神殿戦士たちも駆け寄ってきたが、惨殺された死体とアジョラの錫杖に飛び散った脳漿の様子を見て、明らかに戦慄していた。
「この見苦しいものを、さっさと片付けなさい」
アジョラは昔の口調に戻って、敵の服で錫杖を拭い始めた。その様子は、まるで日常的な作業をこなすかのように淡々としている。
神殿戦士たちは震え上がりながら、辺りの敵の死体を片付け始めた。誰も口には出さなかったが、聖女様の豹変ぶりに皆困惑している様子だった。
アジョラは適当な石に腰を下ろすと、メルベルを振り返った。
「素晴らしい戦いぶりでしたね。あなたの技は、夫の戦い方にそっくりでした」
勝利の余韻もあってか、アジョラはかなり上機嫌のようだった。血に染まった錫杖を片手に、まるで茶会でもするかのような穏やかな笑顔を浮かべている。
「そこに座りなさい」
アジョラがメルベルに命令すると、メルベルは内心ビビりながらもその場に座った。この人の機嫌を損ねるのは得策ではない、と直感的に判断したのだった。




