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第十話「迷宮の夕暮れ」



夕日が工場の煙突の隙間に傾き始めた頃、アザリアはついに完全に道を見失っていた。


細い路地を抜けて出た場所は、これまで見てきた街の風景とは明らかに異質だった。建物は薄汚れ、窓には安物の赤い布が垂れ下がっている。酒と香水と、その他の何かが混じった甘ったるい匂いが鼻をついた。


「お嬢ちゃん、迷子かい?」


突然声をかけられて、アザリアは振り返った。薄汚れた服を着た中年男性が、にやにやと笑いながら近づいてくる。その笑みには、善意ではない何かがあった。


「い、いえ、大丈夫です」


アザリアは慌てて答えたが、声が震えている。


(ここ、どこかしら)


周囲を見回すと、建物の軒先に座った女性たちが、挑発的な視線を向けてくる。化粧は濃く、肌の露出も多い。アザリアは神殿育ちの身として、こうした場所の存在は知識としては知っていたが、実際に足を踏み入れるのは初めてだった。


(色町……まさか、そんなところに)


顔が青ざめていく。


「そんな顔しなさんなって。お嬢ちゃんみたいな上品な子なら、いい客が見つかるよ」


男がじりじりと距離を詰めてくる。


「やめて、近寄らないで」


アザリアは後ずさりしたが、背後からも別の声が聞こえた。


「おやおや、巫女様のお出ましかい。珍しいねぇ」


振り返ると、酒に酔った労働者らしい男たちが数人、興味深そうにこちらを見ている。


「あんたみたいなお上品な子が、こんなところで何してるんだ?」


「道に、迷ってしまって」


アザリアの声は涙声になっていた。


(お父様、こんなところで死ぬなんて)


神殿での厳格な教育、父の屋敷での上流階級の暮らし。そのどちらも、この状況には何の役にも立たない。


「迷子の巫女様を案内してやろうか?」


「いえ、結構です」


アザリアは必死に辞退したが、男たちは聞く耳を持たない。


「遠慮しなさんな。俺たちだって親切心でさ」


下卑た笑い声が響く中、アザリアは懸命に逃げ道を探した。しかし、どの路地も似たような光景が続いている。


(メルベルの言うことを聞いておけばよかった)


今更ながら、彼の忠告の意味が身に染みて分かった。


---


その頃、宿ではメルベルが目を覚ましていた。


窓の外を見ると、もう夕方である。数時間は眠れたようだが、まだ体の芯に疲労が残っている。それでも、長時間の不眠から解放された安堵感はあった。


隣の部屋の気配を確かめてみたが、静寂が返ってくるだけだった。


「まだ戻っていないのか」


メルベルは舌打ちした。


(あの女、何かまずいことにでも巻き込まれたか?)


箱入り娘のアザリアである。世間知らずもいいところだ。アクカドのような労働者の街には、神殿やウルクのような上品な場所では想像もつかない危険が潜んでいる。


「自業自得だな」


メルベルは一人呟いた。


散々忠告したのに、聞く耳を持たなかったのは彼女の方である。契約は聖地巡礼の護衛であって、街中での行動まで責任を負う義務はない。


(このまま戻ってこなくても、ある意味契約には関係ない)


そう考えながら、メルベルは着替えを始めた。しかし、手を動かしているうちに、この数日間のことが頭をよぎった。


マリでの必死な努力。アンデッドとの戦闘での、恐怖に震えながらも光の術で足止めをした姿。街道での、痛みを堪えながら歩き続けた意志の強さ。


(少しは、話をしたからな)


最初は完全に他人事だったが、いつの間にか多少の情が湧いていたのも事実だった。あの生意気で世間知らずな女が、本当に危険な目に遭っているとしたら。


「ちっ」


メルベルは再び舌打ちした。自分の考えが甘くなっていることに苛立ちを覚える。


(多少は気の毒だが)


結局、メルベルは剣を腰に帯び、宿の階下に向かった。


「主人」


宿屋の主人に声をかける。


「私の連れが戻ってきたら、宿から出さないでくれ。無理にでも部屋に閉じ込めておいてほしい」


「は、はあ。何かあったんですか?」


「馬鹿な女が一人で街をうろついている。そのうち碌でもないことになる」


メルベルは苦々しく答えた。


「戻ってきたら捕まえておいてくれ」


そう言い残して、メルベルは夕暮れのアクカドの街に出て行った。


(全く、面倒なことになった)


内心で毒づきながらも、足は自然とアザリアが向かいそうな方向に向いていた。箱入り娘のことだ、きっと危険地帯に迷い込んでいるに違いない。


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